楕円の矜持ハルとがうさん 出会って丸二ヶ月くらい
中河内秋は朝に弱い。
しかしいくら朝に弱くとも、学校、しかも寮生活でカリキュラムも決まっている警察学校という枠組みの中で生活している以上、定刻には起き出して活動しなければならない。なんとか身支度を整え、朝の走訓練を終え、朝食を摂り、校舎まで登校。ホームルームの終わる頃、彼の意識はようやく覚醒する。
そんなわけなので。
「……ハル、今日、眼鏡は?」
「なんや、今気付いたん?」
ホームルーム前から顔を合わせていたはずの、いつもと印象の違う友人の姿も、その時やっと認識したのだった。
「部屋に忘れてもうてん。教場の手前くらいで思い出してな」
友人、招春寺卍里はそう言って、灰茶の髪を耳に掛ける。流れた髪から内側の萌黄色がさらりと覗いた。普段と違い阻むものなく顔に触れてくる毛先が、どうにも気になるらしい。けれど彼の髪は秋のそれとは違って重力に対して従順なので、耳に留まっていてはくれないようだ。
ヘアピンを余分に持ち歩いてでもいれば、貸すこともできたのだろうが。あいにく秋には身だしなみに対するそこまでの細やかさはなかった。
「なくて、大丈夫なんか?」
「心配あらへんよ。元々そんな悪いわけでもないしな」
「……?」
諦めて別の心配事を問えば、そんな答えがある。生まれてこの方、視力矯正器具の世話になったことがない秋にとっては不思議な返事だった。日常生活に不便があるから常用している、のではないだろうか。けれど言われてみればたしかに、逮捕術の授業などで眼鏡を外している際も、彼は普段と遜色無い動きをしていた気がする。
秋が首を傾げているのを見てとってか、卍里が苦笑した。
「印象操作が目的やねん、どっちかというと。ほら、眼鏡してると真面目に見えるやろ」
「してなくても、ハルは、真面目や」
べし、と腕を軽くはたかれる。
「間髪入れずに返すなや、恥ずいわ」
「そない言うても……」
ほんまのことやし、と本心をさらに言い足せば、知っとる、と少し拗ねたような声が続いた。ならばいいではないかと思うのだが、そういう問題でもないらしい。
初夏の気配を宿す温い風が窓から入ってくる。朝のホームルーム後から授業までのおよそ15分、日陰になっている廊下の窓際が、教場内の喧騒を避けた二人の、すっかり定位置だった。
「印象操作はほんまやよ。中和にはなっとるやろ」
継がれた言葉に、秋の紅玉の目がぱちぱちと瞬いた。
「中和?」
「目がな」
卍里の声が、秋の疑問符に答えるように滔々と発せられる。視線は合わない。
「怖いらしいわ。何思うとるか読めへんて」
風が吹く。太陽が中天を目指すにつれ上がっていく気温を、ほんの一時和らげる風だ。それに巻き上げられた灰茶の髪が、ふたたび手櫛で整えられていく。
「今日風強いなぁ。涼しくてええけど」
がうさん暑いの苦手そうやもんな、と見上げてくる金糸雀色の硬質な両眼は、濡れても乾いてもいなかった。
「自分は……」
純粋に。
「自分は、きれいやと、思うで」
純粋に、感じたままの思いが口をつく。他に言うことはなかった。だってこの色には、同情や慰めは必要ない。
面食らったようにほんの僅か開かれる瞳は、秋の目にはやはり眩しく映った。
「なんや、褒めてもチョコくらいしか出ぇへんぞ」
呆れた声はそれでも愉快さを滲ませていて、秋も自然と口元が緩む。吹き抜ける風は心地よく、視界を覆う自分の髪も、遊ばれるままに踊っていた。
「あかん、アポロしかあらへん」
律儀にポケットを探ったらしい卍里が、箱をからからと鳴らしている。音と視線に促されて手のひらを出すと、茶色とピンクで構成された小さな甘味が四粒転がった。
「……ハルも、この色やんな」
「ん?」
「眼鏡」
日頃の彼を装飾する楕円形のレンズは、その両端をピンク色で彩られている。髪と並べるとちょうど同じ組合せだ。
「バレてもうたか」
「それでピンク、やったん」
「似合うとるやろ」
「うん」
頷けば、硝子に隔てられない瞳が柔らかく綻んだ。怖いことなんか何もないのに、とそれを見て思う。
けれど秋は、彼の選択を否定するつもりもなかった。事実、色も形もとてもよく似合っている。
春の旬を湛える香料を口の中に転がして、二人の青年はまた、他愛ない話を重ね始めた。