ある幸福な家族の話 シャワーヘッドから放出される、あたたかい湯が肌を打つ。少し熱いくらいのそれは、身体をほぐすのにちょうどよい温度で心地良い。
透也の「夕食の準備はしておくから、先に風呂行ってこいよ」という厚意に甘えた天智舖は、浴室で一日の汗を流していた。
一通り全身を洗い終わり、適切に温度管理された湯舟に浸かって息を吐く。浴室に思いのほか大きく響いたそれは、勤務初日を終えた疲労感を如実に表していた。
――……疲労、いや、緊張かな。
浴槽のへりに頭を預けて、一日を振り返る。もう何度繰り返したかわからない悪夢からの目覚め、透也との出勤、パートナーアンドロイドとの出会い、周囲環境に迫られてひったくりを犯してしまった少年の保護、立てこもり事件の生々しい現場とその制圧……。
出来事もさることながら、何よりその過半数をアンドロイドと共に行動しながらこなす、ということへの気疲れの方が、天智舖には大きかった。天智舖が今の天智舖として生きてきた10年間で、ここまで密接にアンドロイドと過ごしたのは、これが初めてに等しい。
目の前に左手を持ち上げる。その甲には肌というには白く引き攣れたかたちで塞がった傷痕がある。それを視界に入れるだけで一面の赤が思い出されて、湯の中にいるというのに肌が粟立った。我知らず誤魔化すように振った頭から飛んだ雫が、水面を打つ。
もう一度、今度は切り替えるために息を吐き出し、脳裏にまとわりつく血の海を湯水とともに流すかのように浴槽を出た。
すっかり室内着に着替えてから脱衣所を後にすると、出汁の良い香りが鼻をつく。刺激された空腹感にそれまでの憂鬱も鳴りを潜め、天智舖は表情をほころばせながらキッチンへ足を向けた。
「いい匂い。しいたけ?」
「おー、冷蔵庫に仕込んであったからな。ちゃんと黒田さんの味になってると思うぞ」
コンロに向き合っている透也の隣に立つと、鍋の中でふつふつと沸く湯に揉まれるしいたけの影が見えた。美味しそうなすまし汁だ。横のシンクには空のタッパーが置かれている。黒田が手料理用に常備している出汁のうちの一角を使ったのだろう。
一週間のうちにこの家に立ち入らない日の方が少ない透也は、そのあたりの勝手もすっかり知り尽くしており、手馴れたものだ。
「別に父さんの味じゃなくたって、透也さんの作るご飯も美味しいけどな」
「おいおい。そりゃ嬉しいが、せっかく初出勤のめでたい日くらい黒田さんの料理で晩餐にしようという兄貴分の気遣いを無駄にすんなー?」
「へへ、ごめんなさい」
あんな大掛かりな現場を片付けた後だというのに、透也の空気は普段と変わらず明るい。それは元々の本人の性格だけではなく、天智舖への思いやりにもよるものなのだろう。それだけで先ほど冷えた胸の奥のことも忘れてしまえそうだった。
「黒田さんだってご馳走作ってやりたかっただろうにな。なんでよりによって今日かねえ」
時計の針は20時に差し掛かろうとしている。職業柄そう珍しい時間でもなかったが、たしかにこれ以降の帰宅であれば夕食を作る時間は取れないだろう。いつもの通りであれば、今夜は帰りがけに総菜でも買ってくるはずだ。
本人もそれがわかっていただろうに、食べたいものを訊いてきたのは、せめてもとでも思ったのだろうか。家に迎えてくれて、父と呼ばせてくれて、天智舖にとってはそれだけで十分すぎるというのに。黒田も透也も、いつもそれ以上を惜しみなく与えてくれていた。
天智舖は、そんな彼らが大好きだ。血縁の有無など関係なく、自慢の家族だと胸を張れる。
「あ、帰ってきたみたい」
玄関の開く音に、透也から離れ出迎えに向かう。その先には案の定、買い物袋を提げた義父の姿があった。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま。夕飯はもう済ませたか?」
「ううん、連絡があったから父さんが用意するのかなって思って。いま透也さんがすまし汁だけ作ってくれてます」
黒田はさすがに疲れの滲んだ顔をしていたが、買い物袋を受け取る天智舖に微笑を見せた。彼よりもほんの少しだけ高くなった頭を、昔と変わらずぽんぽんと撫でてくれる。
「それは悪いことをしたな。今日は遅くなったから、総菜だけ買ってきたんだ」
「大丈夫、一緒に食べられるだけでうれしいよ。お疲れ様」
本心からそう言えば、黒田は僅かに複雑そうな顔をした。料理好きの彼からすれば、出来合いの総菜で満足されるのは癪なのかもしれない。その気持ちもまた嬉しくて、天智舖は自分の口元が更に緩むのを感じた。
三人揃っての夕食を終え、準備をしてもらったのだから今日は自分が、と買って出た片付けも済ませ、自室へ向かう途中。
――はい、……。……近日中……。
聞き慣れた透也の声が、空室から聞こえた。何か話しているようだが、黒田は先に黒田自身の部屋へと戻っている。相手の声も聞こえないし、電話だろうか。
扉をそっと開けて様子を窺うと、果たして通話デバイスを起動中の透也の姿があった。彼は天智舖に気付くとほぼ同時くらいで通話を終え、目を向けてくる。
「どうした?」
「だいぶ遅くなったから、透也さん今夜はどうするのかなって。泊まる?」
天智舖が幼い頃から、黒田が帰れない夜など泊まりがけで相手をしてくれていた透也は、今でも黒田家で一夜を明かすことがある。そのためこの家にはほぼ透也専用の寝具も常設されており、帰宅の如何は透也自身に一任されていた。そんなに帰らなくて透也自身の家は大丈夫なのかと訊いたこともあるが、盗られて困るようなものはないと軽やかに笑って返されたのを覚えている。
「あー、いや、ちょっとまだ仕事があってな、これから署に戻るよ。今日は自分の家に帰るわ」
となると、先ほどの電話はその件だったのだろうか。今日の今日で配属されたばかりである新人の天智舖には、まだ彼の仕事を推し量れるだけの知識も経験もなければ、手助けできるような技量もない。
「わかった。気を付けてね」
素直にそう言うと、透也はふっと微笑んだ。髪を下ろしたままの天智舖の頭をくしゃりとかき混ぜるその行動は、黒田同様昔から変わらない。
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい」
そのまま出て行く透也の背を見送り、天智舖もふたたび自分の部屋へと足を進めた。今日はまだ日課のストレッチをしていないから、寝る前にこなしておかねばならない。
大変で、気の休まらない一日だった。けれども天智舖には、公私問わず頼りになる、優しくあたたかい家族がいる。彼らに己の成長を誇れるように、そう思うと、アンドロイドへの憂鬱すら糧にできそうな気がした。