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    oicsuck

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    oicsuck

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    🇹🇼旅行話世界線のじぇくあ話です。ダラダラおさんぽするだけ。シリーズ物の体ではあるけどそのままフワッと読めると思います。

    Derecha, izquierda何も無い空間を眺めながら、電気も付けず真っ暗なダイニングで恋人が煙草を吸っている。斜めの格子窓から零れ差す淡い星芒と、冬の始まりの冴えた月明かりだけが彼の頬を照らして、蒼い蔭を生んでいた。窓の外には崖があり、崖の下には海がある。

    表向きは共同事業者兼同居人という体で、ジェクトが恋人をロンドンから掻っ攫って来てもうすぐ丸一年が経つ。怪我を理由にそれまでのプロフットボールプレーヤーとしてのキャリアに早々に見切りを付けた後、ジェクトは誰にも何も告げずにロンドンの家を引き払い、独りきりで約290マイル離れたセネン・コーブに棲みついた。数ある国内の他の都市でもなく、ジェクト自身の故郷でもないこのコーンウォールの地の果ては、かつて恋人とお互い何とかオフを捻り出して、二人で旅した土地だった。
    忽然と消える地平線と崖下に光る海を眺めて、ひとつに結った黒髪を潮風に遊ばせながら彼が呟いた「ここはとても居心地がいい所だ」という台詞は、ジェクトの脳内で何度となく反芻されるうち、彼とここで共に暮らす妄想に貌を変えてジェクトを突き動かした。一度手痛い失敗をした事があるにも関わらず、ジェクトはまた一人でせっせと巣をつくろってしまった。
    暴走に任せた巣づくろいが一通りが済んだ後、新居の写真を撮ってポストカードに印刷し、裏にセネン・コーブの住所と「I'm waiting for」まで書いた時突然ジェクトは我に返った。狂ったまま最後まで暴走できた方が幾分か言い訳のしようもあったはずであるのに、続きの「you」がどうしても書けなかった。そのまま一日葉書を放置し、翌日姑息にも「your visit.」と書き足したのちポストに突っ込んでから、丸一年である。
    己の選択が彼の未来を摘んだのではという引け目はジェクトから責任ある言葉を奪い、咽喉まで出かかった台詞が音を結ぶ事は無かった。これから増えるかもしれなかった彼の自著を含め、恋人はロンドンのフラットと研究室に置いてあった夥しい数の蔵書について、総て寄付したと語った。研究者としての己を完全にロンドンに葬り、セネン・コーブへほぼ身一つで飛び込んで来た彼の心中はジェクトには計り知れぬものに思えた。
    初めて新居を訪れた恋人に、ジェクトはまず出来たばかりのイモ畑を見せて、それから新居の案内をした。恋人はペンキが乾いたばかりの二人分のダイニングチェアの背もたれを撫ぜると少し微笑んで「自分で塗ったのか」と尋ねて来た。一人用にしては大きなベッドも、事務机と壁面書棚を備えた部屋も、ベランダに置かれた蓋付きのブリキの灰皿も、目敏い彼にはおそらく全部バレていた。それでも恋人は何も言わないままひとつひとつに触れ、手に取り改めては、時折少し目を細めて嘆息していた。
    新居の案内が一通り終わり、テーブルに付いた恋人へ茶など振る舞いながら、ジェクトは付けると変な音がする、古い備え付けのセントラル・ヒーティングの話をした。すると恋人はどれと言ってやおらケツを上げ、ラジエータとサーモスタットの間を何度か往復し、調整ノブを出鱈目としか思えぬ手付きでぐりぐり回したりしていた。何をどうしたのか未だに分からないが、十分ほどその調子でウロチョロしていた恋人は突然「直った」と言ってテーブルに戻って来て、本当に変な音は止んだ。
    洗濯機やらシャワーやらも水しか出なくなる事があるかもしれないから定期的に見ておけ、と言われても、ジェクトには本当に眺めておくことしか出来る気がしない。半ば途方に暮れ「見とけったってお前、どうしゃあいいんだ」と恋人に尋ねると、彼はティーカップを置き、何でもない事のように頬杖を付いたまま「見てやる」とだけ返して寄越した。
    恐らくそれが決定打だった。発言の底意を問うどころか謝意すら表せず、目を白黒させている己の様を眺めて、恋人は綽然と微笑していた。
    それから丸一年、ブリキの灰皿は使われ続けるうちにヤニで蓋がベトベトしてきたので二代目となり、事務机のある部屋に備えた壁面書棚には農業関連の入門書が並んだ。ジェクトが恋人の為に用意した物の数々を、彼はひとつとして余すこと無く受け取り、じっと見詰めては消費していた。
    神と十字架と、呼べるだけ呼んだ親族、友人、仕事仲間の前で「死がふたりを分つまで」の約束をして口付けを交わし、かすがいと呼べるはずの子供を間にもうけ、喜びに瞳を潤ませながら二人で育てていこうと固く誓い合ったはずの人間ですら突然蒸発してしまうので、個人と個人の関係性にどのような名前が付こうが破綻は有り得る。
    未来に確約は無い。
    それは分かっていても、何らかの約束と目に見える鎖が欲しかった。

    ベッドに出来た一人分の抜け殻は、起こりうる彼不在の未来を想起させるに余りある説得力を持っているように思えた。誰からも忘れ去られた様なこの荒涼とした地の果てで、一人きりで過ごす何十年と続く整然とした日々は、薄ら寒い恐怖を伴い生々しく脳裏に描かれる。恋人は元から何を考えているのかよく分からぬ男であるので、ある日突然「お世話になりました」等と抜かして消えたとしても何ら不思議は無い。
    何となくそのまま放っておきたくなくなってしまって、ジェクトは恋人の名前を呼んだ。
    「起こしたか。悪いな」
    「いや。眠れねえのか」
    「たまにな。一本吸ったら戻る」
    「お前さ……」
    ふと口に出し掛けて、ジェクトは何でもないと言葉を濁した。恋人は怪訝な顔をしてジェクトの顔を覗き込んだ。彼の肩に掛けたショールが落ちて、肘の裏にたっぷりとドレープを拵えて溜まっている。掛け直してやりついでに後ろから頬を捉えてキスをすると、きつい手巻き煙草の苦味が、夢遊病的に良からぬ方向へ飛んで行きそうだったジェクトの意識を現実に引き戻した。火、とむずかる恋人の指先から煙草を奪い灰皿に押し付けて、脇の下に掌を差入れて椅子から彼を抱き上げると、ジェクトはくるりと回れ右をして、彼の座っていた椅子を奪い、恋人は自身の膝に座らせた。座面に残った恋人の尻の温度と、膝に乗せた彼自身の重みと体温は、その実在をジェクトに言い含めているように感ぜられた。眠れないと言う恋人の身体は予想と裏腹に温かくて、項に鼻をうずめて息を吸い込むと煙草の匂いに混ざって、温めた乳のような、ほんの少しの甘みを伴った匂いがする。今度は擽ったがって逃げようとする彼の胴体にしっかりと腕を回して固定すると、観念したのか恋人は動かなくなった。
    眠れない原因について、大方、以前の滅茶苦茶な暮らしの後遺症のようなものであろうという見解をジェクトに伝え、恋人は今度は自分から身体を預けて来た。後頭部をジェクトの鎖骨の上に置くようにして力を抜いた恋人の身体は重みを増して、ぬるい液体を掻き抱いているような感覚があった。緩慢に瞬きをする彼の睫毛が上下しているのを眺めていると、自分の方が眠くなってくる。何となくそのまま彼の腹を撫でると、やめろと抗議があった。
    「今度はなんだ」
    「身体冷えたんかなと思って。そうでもねえな」
    「今はまだ平気だが、確かにロンドンより冷えるな」
    「だろ。今に雪が降るぜ」
    コーンウォールは大西洋からの暖流により、一年を通して同緯度他地域よりも温暖である。とはいえ高緯度地域である事に変わりはないので、年明け一月、二月ともなれば日没後の気温は氷点下となる日も珍しくはない。
    「雪ね。去年はどうだった」
    「まあちらちら見たけど、積もりはしなかった」
    「じゃあ、何年か前にロンドンで大騒ぎして以来か」
    セネン・コーブに移り住む前のジェクトが最後に雪を見たのは四年前、ヨーロッパのほぼ全域が寒波に襲われた年で、ロンドンの赤い電話ボックスに積もった真っ白な雪は印象的であった。ロンドンで初めて目にした雪は、重苦しい曇天から綿埃のように舞い落ちてきて、路に落ちるとすぐに融けて泥濘を産んだ。暫くすると雪は降ったそのままの色を保って4, 5cm程度の膜を拵え、一夜明けると凍り付いていた。ロンドンに降った久々の雪は鉄道のダイヤを狂わせ、通勤路に大渋滞をもたらし、公園や路傍のベンチに雪だるまを度々出没させていた。初雪を喜ぶ子供達と、通勤が叶わないと職務放棄をした大人たちは、慣れぬ雪道を恐る恐るといった足取りで行き交い、時折転んでいた。
    ロンドンと違ってセネン・コーブの公共交通機関はバスくらいしかない。そのため電車のダイヤがどうだので騒ぎになる事はなく、住人らも比較的降雪に慣れている様子があった。
    「雪が来る前に何をしておくべきか、もう一度整理しておかないとな」
    「去年ほぼ何もしてねえもんな」
    「そこら辺に住んでる農家のオヤジたちは何をしてたんだ」
    「分かんねえんだよな。死んでんじゃねえかと思った」
    「夜な夜な墓から這い出て浜の飲み屋に通ってるのか」
    「ちげえねえ」
    昨年初めて独りで眺めたセネン・コーブの冬景色はどれも「寂しい」と表現して有り余る憂愁をジェクトに突き付けてきた。延々続く重苦しい曇天と、荒れ狂う波濤に抱かれた人の気配のしない片端の街は確実に心を摩耗させ、気を晴らそうと外に出れば出る程、外界からの疎隔を強く感じた。稀に犬の散歩などして外を歩いている人間を見掛けると、思わずおおいと声を上げて駆け寄ってしまいたくなる程の孤独な冬の存在を、ジェクトは初めて知った。
    恋人の故郷は雪深い所であるとジェクトは彼自身から聞いていた。冬は物流が麻痺しがちで頻々陸の孤島となり、春は雪解け水による泥濘の季節で、酷い時には排水が溢れて騒ぎになるという。流石にそれほどまでの降雪はセネン・コーブにはない。
    彼と己が別の人間であるというのは当たり前の事で、こと冬という季節についての解釈と解像度の違いの拡大解釈であるということについてもすでに了知しているのだが、早くこの冬に馴致せんという、焦りに近い感情をジェクトは抱いていた。そしてあわよくば、恋人自身の身体と心に染み付いていよう、雪と氷に深く閉ざされた陰鬱かつ過酷な冬というものの概念を、セネン・コーブの冬景色に塗り替えたいという欲望もあった。

    少し外を歩かないかというジェクトの提案は意外と二つ返事で了承された。
    家を出て半端な舗装路を少し歩けば、獣路と呼んで差し支えない浜までの細い路に差し当たる。ごうごうと鳴る風の音に混ざって、海鳴りが遠くから轟くのが小さく聞こえた。真冬でも野稗のような背の高い雑草の生い茂る海へと続く隘路は、冬の乾燥した空気の匂いに混ざって、潮の匂いと踏まれた植物の発する青臭さに満ちている。時刻は午前二時を少し過ぎたところで人通りはまるでなく、星芒のない曇天の夜は足元を照らすハンドライトの明りだけが頼りだった。ジェクトは後ろを何度も振り返り、恋人が付いてきていることを確認しながら獣路をゆっくりとした足取りで進んだ。
    「どこまで行く」
    「浜、こっから下る」
    強い風と葉擦れの音で少しの会話もかなり大きな声を出さないと難しく、道中は自然と黙々と歩くことになる。途中、濡れた草を踏んで転びかけたジェクトの手を握って、恋人は小憎らしい笑みを浮かべていたが不問とした。彼はジェクトの手を取って、申し訳程度に路を示す細いロープに這わせ、掴まって歩けと顎でしゃくって見せた。体幹の強さとバランス感覚において彼より強い自信のある分若干癪ではあったが、一度コケているので従順に従う。段々と散歩というより探検の色味が強くなり始めたところで、漸く獣路の終わりが見えた。
    「ここから階段だ。下るぞ。コケんなよ」
    「はは、あんたもな」
    木と土と石で作られた遊歩道の終わりの階段はそれなりに滑る。最後の方は駆け降りるようにして砂浜に着地すると、もう疲れたとばかりにジェクトは仰向けに倒れた。
    「コケてる」
    「これはコケてんじゃなくて寝っ転がってるって言うんだよ」
    「何だっていいが、砂は払えよ」
    「おう、払って」
    自分でやれと答えた恋人の手を引いて砂浜に引き倒そうとすると、彼も今度こそ抵抗して暴れた。足払いして引き倒してもなお抵抗するので、ジェクトも恋人も砂にまみれ浜を転げ回る羽目になった。漸く組み伏せた恋人の顔に悔しさが滲むのを至近距離から見詰めて、勝利の笑みを浮かべた所に渾身の頭突きをくらい、ジェクトもたまらず斃れ、何の意味もない取っ組み合いは幕を閉じた。
    「ひとの上に乗るな。降りろ」
    「この野郎……」
    急に足払いを掛けてくる方が悪いとわめく彼を取り押さえて、額や頬に付いた砂粒を払ってやり、ついでに額に口づけをすると、擽ったそうに彼は目蓋を細めていた。午前二時も半ばを過ぎたホワイトサンド湾など、自分たち以外ほっつき歩いている人間はいなかろうという確信があるのか、怒鳴ったり暴れたりはしない。しかし掌でぐいぐい顎を押されて拒否を表現されると、さすがにちょっと気が引けるので、ジェクトもそれ以上の悪ふざけは止して彼の身を起こし、砂だらけの頬を少し擦ってやった。
    彼は上着の袖を持ち上げて嗅いで、なんだか生臭いという。
    海の匂いとか、潮の匂いとか、磯臭い、という表現に慣れ親しんでいたジェクトにとって、海を生臭い、と表現するのは何だか印象的であった。少し面白くなってジェクトは彼を立ち上がらせ、手を引いて砂浜を探索した。
    砂の奥に潜む貝のあけた小さな空気穴も、雲間から漏れた月光を浴びて跳ねる魚の影も、探せばある事を予め識っていたうえで、注意して見ていなければ見つけられない。わかりやすい所で、とジェクトが大きめの石や流木をひっくり返して、散り散りに逃げる虫を見せると恋人はやめろと咎めたが、打ち上げられたアメフラシを見付けて教えてやると、これは生き物かと尋ね、不思議そうに眺めていた。
    一人で歩き回ってもただ風が強く薄暗いだけであったホワイトサンド湾は、彼と連れ立って歩くと生き物の気配がそこらに感ぜられる。ジェクト自身の感覚が何かを見付けようという意欲で、鮮やかに澄んでいくのがわかった。無垢な少年のように流木を拾って軟体動物をつつき回しているのは自分と同い年のオヤジであるのだが、彼はその年嵩にして「自分が知らなかったことが知れていくのは純粋に楽しい」と真顔で言い放てるタイプのオヤジであるので、夜の海と蠢く生き物の生態を純粋に楽しんでいるのであろうと思う。
    海風は強さを増し、引き摺られるように白波が立った。満潮まではまだ時間があろうものの、潮位は上がりつつある。千々に裂かれ貌を激しく変えながら流れる雲の間から月光が零れ、うねる海面を明滅させていた。
    流木を放って波打ち際を歩き始めた恋人がどんどん海に近付いて行くのでやや心配になり、あんまり寄るなよ、とジェクトは声を掛けたが、聞こえていないのか反応はない。
    遠くで彼が靴を脱いで置くのが見えた。
    「アーロン!」
    返事はなかった。波が足許を浚うのにも構わず下衣の裾を捲って、白く歯を剥くように打ち寄せる波を追い、恋人は真っ直ぐに沖へ進んでゆく。暗闇の中で波に足を取られれば、足の着く深さであろうとも、大の大人であろうとも人は簡単に溺れる。
    「アーロン!」
    怒鳴りつけるように呼び立てても、恋人は全く反応しない。むしろ彼は足を早めて、何かに憑かれたかのように陸を離れようとしている。荒々しく寄せ引く波に背中を打たれ、彼がよろめいて倒れるのが見えた時、漸くジェクトは呪縛から解かれたように走り出した。
    「何やってんだ!」
    海水でずぶ濡れの恋人を支え起こすと、彼がぼろぼろのサッカーボールを必死に抱え込んでいるのが分かった。表面の皮は所々剥げていて、毛羽立った裏打ち布が顔を覗かせている。恋人は腕の中のボールと、ジェクトの顔を交互に見て笑った。
    「何がおもしれえんだ、アホ!こんなもん拾いに行って溺れ死んだらどうすんだ」
    「はは、ああ……よかった、力が抜けた」
    本当に力が抜けてしまったのか、頽れるように彼はジェクトに体重を預けて来た。抱きとめてもまだ、おかしくてたまらないといった様子で笑っている。何が良かったものかとジェクトが糾弾すると、恋人は波間で揺れているサッカーボールの影を人間の頭だと勘違いし、助けねばと12月の冷え切った澎湃へ、慌てて吶喊したのだという。お終いまで聞いたジェクトもまた全身の力が抜ける感覚を味わった。
    お互い海水を頭からかぶっていた。恋人の肩を担いで海から上がると、真冬の鋭く冷えた強風ががずぶ濡れの膚を刺した。上衣を脱いで絞りながら、靴は何処かとジェクトが尋ねると、もう少し向こう、と恋人は波打ち際から少し離れた辺りを指で指し示した。裸足で何か踏んでも不味いので、取ってきてやると続けて言い含めると、彼は短く礼を述べて、濡れて絡まった上衣を脱ごうと身を捩り始めた。恋人が指で指し示した方向へ少し歩くと靴はすぐ見つかった。
    彼の靴はうすら寒い恐怖を湛え、爪先を海へ向けて几帳面に揃え置かれている。ジェクトは立ち止まり、一時棒立ちでそれを見詰めていた。
    未来に確約は無い。
    当たり前の一文が、またジェクトの脳裏を過った。
    戒めであり希望でもある不確かさは肚に刻んでおく必要はあれど、常日頃から直視し心に突き付け続けていると気が狂いかねない。愛と呼べそうなものを掻き集めてよすがに、不確かな毎日をとりあえず積み重ねている。畢竟誰もがそんなものであろうが、己と彼の二人のみ殊更頼りなく、折に触れ薄氷を踏むような心持ちにされる所まで同じであろうかと、ジェクトはぼんやりと考えた。恐らくは過去一度犯した手痛い失敗が、彼を縛る事も彼に縋る事も一歩及び腰になり、ふざけて居らねば何となく口が重くなる要因であろうが、些事に拘らぬ質であるのか昼行灯であるのか恋人自身は飄然としている。
    己をしても幸福を潔しとしない人生を望むような人間でもない。それでも彼の影が波濤に飲まれ消える寸前まで、己の両足は何故凍てついた様に砂浜にへばり付いていたのか、何も説明ができない。

    おおいと声がしたので来た路を振り返ると、半裸の恋人の隣に登場人物が増えていた。声は聞こえないが、何か訴えるように恋人はこちらに手を振っている。
    揃えて置かれた靴を慌てて拾い上げて取っ返してみれば、恋人の隣にいるのは浜の飲み屋のオヤジであった。寝巻き姿と思しきオヤジは半裸の恋人をタオルで包みながら捲し立てた。
    「何だこのアホ共は、紛らわしい事しやがって。ビックリして警察呼ぶとこだったろうが」
    申し訳ないと言って、恋人は苦笑していた。深夜、真冬の浜辺を徘徊し、二人揃って海に走り込んで行く様をたまたま目撃した飲み屋のオヤジはすわ心中騒ぎかと気を動転させ、血相を変え店から飛び出てきたらしい。海中から浚ったボールを渡して理由を説明すると、オヤジも一回り萎んだ。
    「こいつを土左衛門のアタマと勘違いしてこのダンナが海に飛び込んで、それを自殺と勘違いして今度はアンタが海に飛び込んで、それを俺が心中だと勘違いして店から転げ出てきたと…バカの三連鎖だ」
    「自殺?はは、アホか」
    「ついに頭がおかしくなったと思ったんだよ」
    「うるせえ、ああ、寒い。出てくるんじゃなかった。クソ!」
    クソを掛け声に、オヤジは手に持ったままだったボールをジェクトに向かって乱雑に放った。ジェクトは放られた球を胸で受け、軽くリフトしてからオヤジに蹴り返した。半円を描く軌道で柔らかく、正確に手元へ返されたボールを受け止めると、オヤジは少し驚いたような顔をして「へえ、なかなか上手いもんじゃねえか」等と言い放った。ジェクトも何と返したものか分からなくなってしまったので「まあな」等と適当に返した。タオルにくるまったままの恋人がオヤジの後ろで、笑いを堪えてぶるぶる震えているのが見えた。
    杞憂の二文字を突き付けて来るような、何も考えていない時の恋人の顔がジェクトは好きだった。ころころ笑うアホ面を眺めていると、段々と深刻に思い悩んでいる事がアホ臭くなるので、ジェクトは考え続けたところでロクな結末に辿り着くまいと、考える事を途中で放ってしまう。
    そのまま帰ると風邪を引くからと、オヤジは観光客用のコテージ備え付けのシャワーとランドリーを開けてくれた。海の家のような体力勝負の飲み屋の営業は数年前からほぼ息子に預けていて、主だった収入はコテージ経営であるとの事であった。
    「じゃあ何か、オッサン一族であの辺一人勝ちか」
    「だったら良いんだけどなあ」
    「それなら何故あんな時間にあそこに居たんだ」
    痛い所を突かれたとばかりにオヤジは肩を竦めて、長々と歯切れ悪く言い訳を重ねた。要するに自宅の寝酒が切れていたので店の在庫から一杯拝借しに忍び込んだところに事件に出くわしたとのことである。この場合横領というのか窃盗というのか定かでは無いが、いつも後からきちんと金は払っていると言うので、初犯でない事だけは明らかになった。
    恩人と言えようオヤジの行動について容赦無く追及する恋人にジェクトは肝を冷やしたが、言質を絞った恋人はあっけらかんと笑って「じゃあ今日のあんたの寝酒は俺が奢る、でいいか」等と言い放ち、オヤジはそれに二つ返事で乗った。その為己も恋人も貸出して貰ったバスローブ姿でカウンターに座らされ、ランドリーに突っ込んだ洋服と靴が仕上がるまでの間、オヤジにそれぞれ一杯ずつ奢る事になった。
    酒の肴は無論、一年前突然移住してきた己と彼の身の上話になる。二人とも移民であること、今までは仕事の都合でロンドンに住んでいたこと、前職、早期退職したジェクトが一足先に住んでいて、彼が後から棲みついたことなど、二人で代わる代わる話していった。ひと通り話し切ってしまうと、特に隠してだてしていた事でもないはずであり、相手は飲み屋のオヤジであるはずなのに、ジェクトは何故か告解を済ませたような、肩の荷が下りた心地になった。飲み屋のオヤジも途中からヘラヘラ笑うのをやめており、いつになく神妙な顔をして恋人の身の上話を聞いていた。恋人の表情は変わらない。彼は今日食べた夕飯の話をしている時と同じ顔をして、片目を喪った事故の折の話をする。
    「じゃあ、もうずっと見えねえのか」
    「うん。もうずっと見えない」
    他人事のように鸚鵡返しの返事をして、恋人は酒を煽っていた。ロンドンで己の目の前で車に轢かれ、潰れた目から血と漿と涙を零して、通じぬ言葉で必死に謝り続けていた彼の姿はもう遠い記憶となり始めている。抱き抱えた身体と血液が熱くて、己の方の血液が冷えるような恐怖を感じた事は覚えていた。閨で何度も抱き寄せた彼の身体は、今でも折に触れはっとさせられるほどの熱をもつ。彼の薄い皮膚の下には、あの時触れたものと同じ熱い血液が走っている。
    ジェクトも神妙な顔つきになり始めたので、恋人は怪訝な顔をしてオヤジとジェクトを交互に見た。
    「まあなんだ……ロンドンに比べりゃ大した事ねんだろうがよ。ここら辺も車通りはそこそこあっからな。気を付けんだぞ」
    「もっと言ってくれ。こいつはこの間風で飛んだゴミ袋指さして俺に猫がいるって報告してきたし、せんだっちゃライターの火力ミスって手前で手前の前髪燃やして、一人でゲラゲラ笑ってるような奴だ。フワッと死にかねねえ」
    恋人は睨んできたが、この手の話には事欠かない。今まで共通の知人であるブラスカ以外の他人に話すことがあまりなかった恋人の笑い話が出来る事に嬉しさを覚え、ジェクトは饒舌になった。あれもこれもと話し込んだ後、素人二人で畑を買って失敗しながら農業に勤しんでいると話すと、オヤジは不思議な顔をして、なんでまた、ここで、と尋ねた。当然である。一人で先走った巣作りの話をどう説明したものかと「well...」で詰まったジェクトを横目に、恋人は一言でオヤジの疑問を片付けてしまった。
    「俺がここがいいって強請ったんだ」
    一度旅行で訪れていて、気に入ってしまったと続ける恋人にオヤジはたちまち上機嫌となり、中々目の付け所が冴えている、等とほざいていたのだが、ジェクトはもう頭にあんまり入ってこなかった。コテージの奥で、乾燥機が完了のブザーを鳴らしているのを、どこか夢見心地で聞いていた。

    帰り途は深夜未明といった時間帯となっており、東の空は朝焼けでまだらに染まった雲がたなびいていた。往路と同じ獣路もすでに明るく風も弱まっていたが、予報では雨である。すっかり懐いた飲み屋のオヤジは「傘いらねえのか、貸すぞ」と三回程尋ねて来たが、この明るさでは必要あるまいとジェクトは踏んでいた。恋人はまあまあ饒舌であった。今考えればそれは、突然移住してきた怪しい男を追いかけるようにして身一つで棲み付いた怪しい男の二人暮らしという、訝しさしかない印象を拭いたかったがためであったのかもしれないが、結局何も言わないのでよくわからない。恋人は昔から何を考えているのかいまいち掴めぬ生き物であり、ジェクトが恐る恐る注いだ愛情も、衝動的にぶつけた愛情も、よくわからぬ生き物の体をしたまま飲み干している。己の後ろに続いて歩く彼を振り向いてみると、彼は乾燥機から出したばかりの洋服の匂いを嗅いでいるようであった。潮の匂いと湿った土の匂いに混じって、微かではあるが、確かに柔軟剤のような匂いがする。
    獣路で無心に搦めた指を、恋人は掬うように握り返してくれた。


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