お化けのお話『おはよう、スプリング。』
まだ眠気が残る頭で挨拶を返すのが精一杯だった。目を擦りながら声のした方を見ると、そこにはあぐらをかいてにこやかに笑うスフィー兄さんがいた。……少し浮いているように見えるけど。
兄さんの運動神経のよさを考えるとありえない話ではない気がした。
「兄さん浮けるようになったんですか…?」
『えぇ?ちがうちがう!!スプリング、寝ぼけてるね?』
浮いている兄さんは僕の前を突っ切ろうとする。ぶつかると思って咄嗟に避けるも、兄さんの身体はカーテンを貫通した。常人じゃありえない話。僕は驚いて声も出なかった。
「え、おば、お化け…!?」
『えへへ、まぁそんな感じ!!』
そう言って兄さんのお化けはお化けがよくするポーズをしてみせる。一瞬、兄さんの生霊なのかなと思ったけど、いたずらっ子のように笑う目は兄さんの蜂蜜色のではなく、僕と同じで赤い目をしている。
お化けといえば青白い肌に長い髪。おまけに顔の半分くらいを占める大きな口を持っているのを想像していた。だけど兄さん似のお化けはそんなこともなく、ちっとも怖くない。悪い人ではないみたいだ。
『スフィー兄ちゃんではないよ!まぁ…君のお兄ちゃんではあるんだけどね』
泳ぐようにすいすいと部屋の中を漂うお化けの子を目で追いながら、僕は考えをめぐらした。
寝起きが悪い方(スフィー兄さん談)でいつもはまだ眠気が残っている頃だけど、この不思議な出来事のおかげで、頭もしっかり目覚めていた。
僕の兄さん。世界でたった一人、スフィー兄さんしかいないはず。でも僕や兄さんとそっくりな姿を見ていると、この子の言うことに納得してしまう自分もいる。
『俺は君のもう一人のお兄ちゃんだよ。…スプリングは覚えてないだろうけど。』
「そ、そうなんですか」
『覚えてなくてとーぜんだよ!!とりあえず、仲良くしよー!』
「は、はい…」
よろしく、と言って差し出された右手。よくわからないまま握ろうとしたけどお化けの手はやっぱり握られない。二人で顔を見合わせる。そしてお化けの子が火がついたように笑い出した。
『あはは、できないの忘れてた!』
笑顔もスフィー兄さんによく似ている。
「お化けさんはなんて名前ですか?」
『なまえ…?うーん、考えたこともなかった。最近まで意識がずっとふわふわしてたからなー。』
今もふわふわと漂っているようなもんだけどね。そう言って悲しそうに笑うお化けの子に僕は何て言えばいいのかわからなかった。
ふわふわした意識はどんな感じなのかな。熱に浮かされている時のぼうっとした感覚を思い出した。多分そんな感じな気がする。
『あ、そうだ!スプリングが考えてよ!』
「僕、ですか…?」
『うん!それがいい!!スプリングは名前決めるの上手そうだからさー。いつかのときにノラ猫の名前決めてなかったっけ?あれ、すごくかわいい名前だったな〜』
「え、うそ、見てたの!?」
たしかに小学校に上がる前にそんなことをしていたけど。まさかスフィー兄さんの他にも見られているとは思わなくて、恥ずかしい。熱くなった顔を覆う僕に、お化けの子は得意げに笑った。
『うん、お兄ちゃんだからね!!スプリングのことはいっぱい知ってるよ。』
「う、恥ずかしい…」
掘り返されたくない思い出を掘り返されて、僕はもう穴にでも埋まりたい気分だった。そんな僕を尻目にお化けの子はどんなのがいいなぁ、と名前をつけてもらうのが楽しみな様子だ。
んん、と唸ってから数分。僕はようやく思いついた名前を、口にした。
「…スーくんはどう、かな?」
『スーくん?』
「うん。スフィー兄さんにとっても似ているので…」
ケンタッキーさんが兄さんのことを“スーちん”と呼んでいるから、それをとって“スーくん”。安直な考え方だけど、呼びやすいし語感がいい気がする。我ながらいいんじゃないか。
お化けの子はぱぁっと顔を輝かせて、びゅんびゅん部屋を飛び回った。部屋中のものが倒れてくるじゃないかと思うくらいの速さだけど、何も倒れて来なくてほっとした。
『いいね!!うん、俺はスーくん!!よろしく〜スプリング〜!』
「よろしく、お願いします。スーくん」
スーくん、スーくん。心の中で何度も唱えた。うん、しっくりくる。
お化けでもあり自分のもう一人の兄でもある不思議な人。そんなスーくんとの毎日を想像して、胸の奥がなんだかあったかくなった。
◇◆◇
僕はあんなに不思議な体験をしたのに、リビングにはいつも通りの時間が流れていた。おはようと兄さんと言い合って、僕は自分の席に着いた。目の前にはもう朝ごはんがある。
スーくんはその横…兄さんと僕の間に割って入ると、それを羨ましそうに見た。
『いいなぁ〜おいしそう!』
お化けってご飯食べれるのかな。そもそもお腹は空くのかな。後でこっそりとお菓子あげよう。
朝からトーストを4枚も食べている兄さんの横で僕はちびちびとスープに飲んだ。
スーくんはおいしそーとか、何味?とか、そんなことを言いながら無邪気に僕らの周りを飛び回っていた。目の前にスーくんが飛んできてもスフィー兄さんは全く動じない。やっぱり、スーくんは僕にしか見えていないみたいだ。
「スプリングは今日、何するの?」
兄さんが3枚目のトーストをかじりながらそう言うと、ふわふわと漂っていたスーくんも動きを止めて、僕の方へと寄ってきた。