⑥
ホテル内にあるレストランに到着し、案内係に声をかける。
「すみません。古川さんいらっしゃいますか?」
「厨房にいると思いますが、お呼びしますか?」
「はい。お願いします。」
案内係が無線でやり取りをしてすぐに厨房から料理長である古川が出てきた。
「古川さん、すみません。フロントスタッフの工藤です。ちょっといいですか。」
「はい。大丈夫ですよ。どうかしましたか?」
フロントスタッフがこの時間に厨房に来ることはほぼないため古川は不思議そうな顔でこちらを見ている。
「VIP客のお客様から朝食のリクエストをいただきまして…今から用意することってできますかね?」
「そうですか…用意できなくはないですけど、ビュッフェのメニューから出すことになりますが良いですか?」
「全然良いです…!ありがとうございます。あっ、すみません急に無茶なことをお願いしてしまって…」
「いえいえ、VIPのお客様なら仕方ないですよ。」
通常であればルームサービスの朝食は予約数分のメニューを料理長が作っているが今回はその準備がない。
だからと言って断るわけにもいかない。
相手はVIP客である降谷零だ。
VIP対応はフロントスタッフだけではなく厨房のスタッフも例外ではなく、VIP客からの要望があれば可能な限り対応しなければならない。
「今から準備してお客様のお部屋に持っていくように手配するので部屋番号を伺っても良いですか?」
「あ、えっと…朝食の方は私が持っていくので出来上がったらフロントの内線電話に連絡してもらえますか…?」
「わかりました。」
「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
古川に会釈をした後、フロントへ向かった。
フロントに戻ると諸伏がチェックアウトの準備をしていた。
「諸伏さんおはようございます。」
「おはよう工藤。朝から忙しそうだけど何かあった?」
何かあったのはバレているらしい。
「あ〜…はい…。安室様がルームサービスをリクエストされたのでレストランの方に行ってました。」
「…なるほどね。無茶な要求されたら断っても良いし、判断に困ったら呼んでくれよ。」
「はい。ありがとうございます。」
面倒見の良い上司でよかったけれど相変わらず勘が鋭い。
モーニングコールのことはまだバレていないみたいだ。
「チェックアウトお願いします」
ホッとしている間にもチェックアウトのお客様がフロントに来ていた。
「こちらで承ります」
諸伏がチェックアウトの対応をしている間に空室状況を確認して清掃スタッフに連絡をする。
チェックアウトのお客様の対応を終えるとフロント内の内線電話が鳴った。
受話器を取ると料理長の古川からだった。
「こちらフロントです」
『料理長の古川です。工藤さんいますか?』
「工藤です。朝食の方できそうですか?」
『はい。そちらにお持ちした方が良いですかね?』
あまり時間が経っていないのにもう朝食の準備ができたらしい。
「あ、いえ、大丈夫です。今からそちらに向かいますね。」
『わかりました。』
内線電話を切り、諸伏にVIP対応であることを伝えて足速にレストランに向かった。
「お待たせしてすみません。フロントの工藤です。」
「古川を呼びますので少々お待ちください」
レストランスタッフに声をかけて厨房前で待っていると古川がトレーを持って出てきた。
「工藤さん、わざわざありがとうございます。こちらが用意した朝食になります。本日のパンはロールパン、クロワッサン、バケットになります。プレートにあるのはプレーンオムレツとベーコン、こちらはグリーンサラダで、スープはカボチャの冷製スープです。」
古川は丁寧に用意したメニューを説明してトレーを新一に手渡した。
「ありがとうございます。急なリクエストで本当にすみません。」
ビュッフェのメニューから取り揃えたにしては盛り付けが丁寧で栄養のバランスも考えられている。
おそらく古川が考えて盛り付けたのだろう。
「いいですよ。それより冷めないうちにお客様に提供してあげてください。バケットは固くなったら食べづらいですからね。」
「ありがとうございます。後でまた伺います。」
新一は軽く会釈をして従業員用のエレベーターへと向かった。
モーニングコールからだいぶ時間が経ってしまった。
早く行かなければ。
エレベーターが到着するとドアが開き、25と書いてあるボタンを押す。
誰もいない従業員エレベーターの中で一息ついて肩の力を抜く。
普段のルームサービスでは毛布やドライヤーの貸し出しが多く、朝食を持っていくのは実は初めてだ。
とりあえずはマニュアル通りに動けば問題ない。
トレーを部屋に置いて料理長の言っていたことを復唱して部屋を出よう。
考えている間にポンッと鳴り、25階に到着した。
従業員用のエレベーターから降りて降谷のいる2501号室に向かう。
部屋の前に到着したがトレーで手が塞がっているためノックができない。
どうしたものかと考えているとガチャリとドアが開いた。
ドアの先にいる男は紺色のスリーピーススーツを着ていた。
グレースーツも似合っていたが紺色のスーツも様になっている。
「おはよう工藤くん」
「え、と…おはようございます。ふる…安室様」
チャイムやノックをしていないのになぜ俺が来たことがわかったんだろうか。
怪しむ新一を見て降谷がクスッと笑う。
「こちらに向かってくる足音がしたから工藤くんかなと思ったんだけど当たってたみたいでよかったよ。ほら、上がって。」
「失礼します。」
降谷がドアを抑えている間に新一は部屋に入った。
後ろで鍵が閉まる音が鳴った気がしたが気のせいだろうか。
「持ってきてくれてありがとう。リビングのテーブルに置いてもらえるかな。」
「はい。」
リビングにあるローテーブルにトレーを置くと降谷は近くのソファに座った。
降谷がぽんぽんとソファを優しく叩き、
「ここ、座って」
と言われて大人しく座る。
朝食の説明してすぐに業務に戻ろうと思っていたがそうはさせてくれないらしい。
昨日のように触ってくるのかと思ったがそんな様子もなく新一を嬉しそうに見つめている。
「これ、工藤くんが作ってくれたの?」
「いえ、レストランのスタッフに作ってもらいました。」
「そうなんだ」
少し残念そうな声色で返された。
急いで持ってきたが遅すぎたのだろうか。
「あの、バケット固くなってしまいますし、オムレツも冷めてしまうので早く食べた方が…」
「そうだね」
降谷は「いただきます」と言って手を合わせた後、バケットに手を伸ばし、一緒に置いてあったバターをつけて美味しそうに食べている。
というか、ソファに座って人の食事を見ている場合ではない。
そろそろチェックアウトのお客様でフロントが溢れかえる時間帯だ。
諸伏や他のスタッフもいるから問題はないが、できるだけ早く戻らなければならない。
「あの…そろそろ戻って良いですか?」
「だめ」
即答だった。
「いやあの、だめとかじゃなくてですね…」
「工藤くんは僕の専属のコンシェルジュなんだよね?」
「ま、まあ、そうですけど…」
「じゃあここにいても問題ないよね。」
「う…そうですけど、でも客室に長時間いるというのも変ですし…」
「そうかなぁ」
バケットを食べ終えると降谷がダイニングテーブルにあるコーヒーメーカーを指差した。
「じゃあ、あれでコーヒーを淹れてくれるかい?」
「…へ?」
インスタントコーヒー?なんで?
「君が淹れてくれたコーヒーが飲みたいなと思って。淹れてくれたら戻ってくれて構わないからさ。」
「は、はぁ…わかりました。」
ソファから立ち上がり、ダイニングテーブルに向かった。
テーブルに置いてあるコーヒーメーカーにペットボトルと専用カプセルを取り付け、キッチンの戸棚にあるコーヒーカップを手に取り、コーヒーメーカーに置いてボタンを押す。
音を立てて動き始めるとカップに抽出されたコーヒーが注がれていく。
淹れ終わったことを確認してカップを取り、降谷のいるローテーブルに置く。
「どうぞ。」
「ありがとう」
コーヒーも淹れ終わったことだしそろそろ退出しなければ。
「ねぇ、工藤くん。」
「はい」
「モーニングコール、緊張してたでしょ?」
「なっ…」
図星だった。
緊張していたことも。そして、この男の声で緊張がほぐれたことも。
「そんなことは…ないです。」
「ふふ、工藤くんはわかりやすいね。」
降谷はカップを手に取り、新一が淹れたコーヒーを飲んだ。
「工藤くんが淹れてくれたから美味しいよ」
「ありがとうございます。」
誰が淹れても変わらないとは思うけど、とは言わないでおいた。
降谷に微笑まれると満たされた気持ちになって何も言い返せなくなる。
それが少し怖いけれど心地よいとも思う。
「じゃあ、私はそろそろ戻ります。」
「うん。来てくれてありがとう。」
言われた通りコーヒーを淹れたからか引き止められなかった。
そういうところは物分かりが良いのか。
掴みどころがない人だ。
「あ、そうだ」
降谷が呟くと新一は足を止めた。
まだ何かあるのだろうか。
「工藤くんの一人称、本当は“俺”だよね?」
「………え?」
降谷さんに対して俺って言ってたか?
今までの言動を振り返ってみたが言った覚えがまるでない。
「素の工藤くんと話したいから明日から“私”禁止にしようか」
「は…?!あ、あの、それはちょっと…降谷さんはお客様ですので…」
マニュアルにもそんなサービスの記載はないし、さすがに度が過ぎているだろう。
「そのお客様である僕が良いって言ってるんだし、そうしてほしいってお願いしてるんだけどなぁ。」
「う…でも…」
「これもVIP対応ってことで…だめかな」
降谷は本当にずるい。
少し寂しそうな、あざといような顔をして聞かれたら断れないではないか。
「…わかりました。でもこの部屋にいる時だけですからね。」
「それってまたここに来てくれるってことだよね?ふふ、嬉しいなぁ。」
「違います…!」
降谷はニコニコしながら新一の方を見ていた。
他のスタッフに聞かれてたらまずいし、この部屋の中だけなら降谷しかいないから問題ないと思って提案したが間違っていただろうか。
やはり掴みどころがない男だ。
はぁ、と一息して姿勢を正してホテルマンとして取り繕う。
「では、ごゆっくりお寛ぎください。」
「ありがとう。夕方には戻るよ。」
「かしこまりました。」
会釈をして降谷の部屋を出て従業員用のエレベーターに乗り込み、フロントのある1階のボタンを押した。
そういえば部屋の鍵が閉まっていたけれど用心のためだろうか。
考えているうちに1階に到着し、急いでフロントに戻るとチェックアウトのお客様で混雑していた。
「こちらにどうぞ」
新一は「close」のボードを取り、フロントの窓口を開けるとチェックアウトの対応を始めた。