『純愛セクシユアル』番外編 三月の始まりはまだ寒くて、蛇柱様の寝室と小さな広縁を隔てる障子をカラカラと開けた。硝子戸を通して畳にまで午後の柔らかい光が落ち、少しだけ春めいて温くなった熱をもたらす。しましまの靴下に包まれた足先をそっと伸ばして、畳の上で横になる。枕は押し入れから拝借した伊黒さんのもの。掛けた毛布代わりはやっぱり伊黒さんの縞羽織。大好きな方の、澄んだ森のような香りに包まれて、私は物凄くニヤけた。
『俺が留守にしているときでも、上がって休むといい』
ポケットにしまった蛇柱邸の鍵を隊服越しに触り、伊黒さんの言葉を思い出して胸がきゅうってする。私を心配して気遣ってくれる、優しい人。あたたかい科白と共に合鍵をくれて、いつでも頼りなさいって言ってくれた。たとえそれが大切な友人だから──でしかなくても。その思いやりが、真心が嬉しいの。だから、彼が恋しくなると蛇柱様がいらっしゃらない日の昼間にこうして上がり込んでは、かすかに漂う伊黒さんの匂いを嗅いで予備の縞模様をぎゅうってしてる。
客観的にすっごく変態だし、とてもじゃないけど伊黒さんには見せられない。なので、長くても数十分でお暇してるのに、今日に限って私は油断していた。二徹明けで、朝方から寝たけどお腹が減って5時間という半端な睡眠時間で目が覚め、これじゃいけないとお昼をめいっぱい食べて、英気を養おうとその足で蛇柱様のお屋敷に。これでお昼寝するなっていうほうがムリじゃない?という状態でお邪魔した恋柱は、足元を温める陽射しと、愛しい方の香りにすっかり寛いでしまって、いつの間に眼をつむっていた。
爪先が寒くて、ふと目が覚めた。ぼんやりと目蓋を持ち上げ、次の瞬間ビクッと体が震える。(伊黒さん⁉︎)
すぐ隣で、男の人が横たわっていた。右半身を下にしてこちら側を向き、腕組みをして眼を閉じている。寒いのか少し肩をすぼめている様子にきゅうんってなる。まるで小さな子みたいに無防備で、とっても可愛い。いつもの縞羽織は?と視線をあちこちに向けたら、少し離れたところに折り畳まれていた。ぽこりとした膨らみに、あの下に鏑丸くんが居るのねって納得する。
(私が寝てたから、お布団を敷けなかったんだわ……)
きっと、物音で私を起こしてしまうって思ったから。
思慕が膨れ上がって息が詰まりそうになりながら、起こさないようにそろそろとにじり寄って、お借りしている予備の縞羽織をふわりと掛ける。蛇柱様と半分こにしたその中に深く潜り込み、心臓をコトコトと鳴らしながら大好きな方をじっと見つめた。
い草の香る畳に広がる艶やかな黒髪。整った鼻梁。綺麗な瞳は閉じられ、いまは見えない。線が細いようでいて、本当は筋肉質で硬い男性。とってもお強いの。あたたかくて優しくて、私に『殿方』について教えてくれた男の人。
皮膚の上を、甘い快感がパチパチと弾ける。伊黒さんの、整っているけれど節々はゴツゴツしている手が私を触る感覚。肌に残るそれはやがて薄れていってしまうけど、ザラザラした指先をたどって伝えられた熱や欲は体の奥深くへ染み込んで、ふいに甘くはぜる。
なんだか切なくて仕方なくて、またそうっと今度は鼻先が触れ合いそうなほどの距離まで近づいた。腕組みをした手に指を伸ばして、そっと撫でてみる。この手に、触って欲しい。ほかの誰でもダメなの。伊黒さんの手じゃなきゃ、ダメなの──……。
「──甘露寺」
心地の良い低い声におもいっきり耳元で囁かれて、私は「ひゃんっ」なんて変な悲鳴を上げてしまった。
「いっ伊黒さん、起きてたの……⁉︎」
「すまない、君の指が、どうにもこそばゆくて。恋柱殿がなにか可愛いことをしているから、見守りたかったのだが」
真顔でそんなこと言わないでください……。
「ごめんなさいっ、起こすつもりじゃ!あの、私、すぐに帰るから安心して」
伊黒さんの眉尻がきゅうっと下がる。綺麗な瞳には陰が落ち、小さく揺れた。無言のまま、全身で『淋しい』って主張されて胸がぎゅうううっと軋む。ずるい!可愛い!蛇柱様にそんなお顔されたら、とてもじゃないけど太刀打ちできないわ。
「……伊黒さんが良ければ、まだ、居てもいい?」
「勿論だとも」
柔らかく微笑む男の人からは、本当に歓迎してくれているのが伝わってくる。それにドキドキしていたら、いつもみたいに頭を撫でられた。
「いつでも来てくれて良いのに、なかなか来ないから、心配していた」
「あ……文は送っていたし、お食事だって」
「外では話せないこともあるだろう」
殿方の指の背がすりすりと私の頬を撫で、その感触にぴくりと反応してしまう。
「俺の指南が不足なら、勉強をするから少しだけ待ってくれ」
真剣な雰囲気に慌てて頭を振った。
「伊黒さんが不足とか、そんなこと全然ないの!ただ……」
「ただ?」
「そんな頻繁に押しかけたら、呆れられちゃう……貴方に嫌がられたくないもの」
無知な私のために『独りで紛らわすやり方』を教えてくれている彼の厚意に、甘えすぎないようにしないと。
「んっ」
鍛練を積んで厚く硬くなった掌が、私の頬をくすぐるように撫でる。それに甘く震えていたら、低い声が優しく囁いた。
「俺に、呆れられたくなかった?」
「はい……」
「ああ──君は、本当に愛らしいな……」
(続)