とある探偵の幕間『春彦ー、お前飯食ってないだろ。それにその目の下の隈。睡眠時間も摂ってないのかー?』
「………………」
うざったい声が聞こえる。
『3食きっちり、とは言わねぇけどさ。ちゃんと栄養摂らないと、ただでさえひょろいのに倒れちまうぞ』
「………………」
お節介で、能天気で、お人好し。僕が返事をしようがしまいが変わらずに垂れ流されるそれが。
今の僕にはひどく癇に障った。
『とりあえず夕飯作ってやるから、何が――』
「煩いッ!!」
耳障りな音を立てて、投げつけたマグカップが壁にぶつかって粉微塵になる。重力に従ってぱらぱらと落ちていくそれを見ながら、僕は頭を掻きむしった。
事務所はひどい有様だった。散らばったまま埃を被っている書類、水に浸かったままの食器、薄暗い室内。
その光景に文句を言ってくる奴も、「しかたないなぁ」と掃除する奴もいない。
天国紫呉は、いない。
なぜならあいつは、死んだから。
そのときのことは、正直良く覚えていない。
目に焼き付いているのは、やけに毒々しい赤が、あいつの白いジャケットを染めていく光景。普段好んでモノトーンを着ていたから見慣れないなと、そんなことをぼんやりと考えていた。
あっという間にサイレンを鳴らす白い車に乗せられて、どこかへ連れて行かれたあいつは、とうとう帰ってこなかった。顔をくしゃくしゃにした誠実そうな警官が何かを持ってきたが、紙切れ一枚に記された『死亡』という単語にも、いまいちピンときていなかったのが本音だ。
それでも。一週間、二週間が過ぎても、あいつは事務所の扉を開けには来なかった。軽やかな饒舌を聞くことも、あいつの撮った映画を観ることもなく。
そして、1ヶ月が経った頃。あいつが作り置きした料理のタッパーを洗って、泡立った洗剤が排水口に流れていくのを眺めながら、唐突に事実が胸の奥に落ちてきた。
あいつは、もういないのだと。
僕の変わりようを心配した警官が、一人の医者を紹介してくれた。本が整然と並べられたカウンセリングルームの中で、僕は彼と向かい合う。
ぴりり、と何かが警鐘を鳴らす。質のいいスーツ、理知的な話し方、穏やかな雰囲気。絵に描いたような『信頼できる医者』のこの人に、なぜ。
「まずはリラックスして、あなたの状況を話してみてください」
低く滑らかな声に、机に置かれたハーブティーの香りに、リズムを刻む時計の音に、頭の奥が痺れていく。ふわふわと、全身の感覚が遠のいていく。
――彼はね、生きていますよ。
「…………うそ、だ」
――本当ですよ。だって、ほら。
今だって、あなたの隣にいる。
…………………
…………
……
「片づなきゃな……」
重い腰を上げて、ごみ袋を手に取る。ここのところ依頼は全く入っていなかった。当然だ、この有様を見たら普通の人間は踵を返す。
いつまでもこうしているわけにはいかない。とりあえず、と散らばる書類を手に取ったところで、目眩を覚えてたたらを踏んだ。テーブルにぶつかった足が鈍い痛みを訴える。
「……はは、何やってるんだか」
いよいよ自分も来るところまで来ているらしい。自嘲しながら、ふと付けっぱなしのテレビが目に入った。惨憺たる事件のニュースも、今の自分にとっては遠い国で起こった出来事のようだった。
事務所内に電話が鳴り響く。書類で埋もれた机の上から受話器を引っ張り出し、耳に当てる。
電話相手の近くに時計があるのだろうか、秒針が動く音が規則正しく、聞こえ、て――
「――では、本日昼過ぎに」
電話を切る。久しぶりの依頼だ、客を出迎える準備をしなければ。そう考えたところで。
事務所の扉が開いた。
「春彦」
なぜだか――空いていたピースが、埋まった気がした。同時に、そのピースは本来違う形であったものを無理にねじ込んだような違和感がした。
しかしその違和感はすぐにかき消え、僕は現実へと引き戻される。
「どうだ、ちゃんと食ってるか?」
「お前にいちいち言われなくてもちゃんと食事くらい摂ってる」
いつもの声。いつもの顔。いつもの匂い。
当然だ。だって、
こいつは今日も、俺の隣にいる。