メビウスの輪(中)店の中にはもう、同期達の姿は無かった。二次会の場所に移動したんだろう。しかし次に行きそうな店だなんて、俺には見当も付かない。雑踏の中、途方に暮れていると、後ろからやけに澄んだ声が聴こえた。
「○○クン─」
振り返るとそこには、白石が立っていた。
「○○クン、その鞄」
「……あ」
よく見れば、白石も俺と同じ鞄を持っている。すぐに交換して中身を確認すれば、白石が持っていたのは、確かに俺の鞄だった。
「まさか○○クンと、同じ鞄やったとはなぁ」
「ああ。驚いた」
「ええ趣味しとるやん」
「え? あぁ……」
俺の鞄は祖母からのお祝いに貰った物だから、「ええ趣味」なのかはよく分からなかったけれど。白石の腕の中に収まっている同じ鞄は、何とも趣きがあって。確かにちょっといい品に見えた。
「ほんまに良かったわ。ほな一緒に飲もうや。二次会の場所、分かる?」
「あっ、いや」
「うん?」
「終電だから……。もう帰る所なんだ」
「あっ、そうなん?」
白石は、「ほな帰る所、引き返して来てくれたん? 悪かったなぁ」って言いながら、駅に向かって歩き始めた。俺はどうしていいのか分からなくて、その場に立ち尽くすしかなかった。
「……」
「うん? 駅に行くんやろ?」
「あ、うん。白石は、二次会だろ?」
「やっぱり俺も帰るわ。こう見えて、疲れとるんやって」
「……あぁ、そう」
白石は携帯電話をいじると、二次会の欠席連絡を送っているようだった。それを見ている俺は、まるで仲良しの連れでも待っているかのようで。何だかおかしな状況だと、自分でも不思議に感じた。
「ほな帰ろか。○○クン」
「あー……」
「家どこ? 何線?」
「いや、実は……」
「うん?」
「もう終電、終わってて……」
「えっ、そうなん?」
街を行き交う奴らは皆、夜はまだまだこれからだって顔をしているのに。俺だけ終電が終わっていて、何とも居心地が悪かった。
「えーっ、ほなどっか泊まるん?」
「うんまぁ、適当に」
「せやったら、うちに泊まる?」
「え?」
「俺の責任でもあるしなぁ。よっしゃ。ほな、決まりやな」
何も決まっていないというのに、白石が勝手につかつかと歩いて行く。俺が、白石の家に泊まる? 何がどうなれば、そうなるっていうんだろうか。困惑する俺に、白石が声を掛ける。
「ほら、○○クン。早よせな俺ん家の終電も終わってまうで」
「いや……」
しかし泊めてもらえるというなら、確かに助かる。床にでも寝かせてもらえれば死なないし、金も浮く。
「あー、じゃあ、お言葉に甘えて」
そうして俺は白石と共に電車に乗り、白石の住む部屋へと向かった。
駅から少し歩いた場所に、白石の住むマンションはあった。何て言ったらいいんだろうか。エントランスとか、外廊下の照明とか。高級マンションって感じではないけれど、安アパートって訳でもない。実家暮らしの俺には、家賃がどれくらいかなんてよく分からなかったけれど。きっと安くはないだろうと思いながら、俺は白石の部屋に入った。
白石の住む部屋のリビングは、思ったよりは狭かったけれど。リビングの奥に扉が2枚あって、俺は思わず「あっ」と声を上げた。リビングの他に、もう2部屋ある。
そうだ。白石みたいな顔のいい男が、一人で暮らしている訳がないのだ。
「ん? どうしたん?」
「あー……」
「適当に座ってや。今、お茶淹れるな」
「いや、あのさ」
「うん?」
「俺、ほんとに泊まっても大丈夫? 彼女さん、怒らない?」
ドアの向こうに居るだろう彼女さんは、パジャマ姿かもしれないし、すっぴんかもしれないし。知らない男(しかも白石と特に親しい訳でもない、さえない男)が居たら、気を悪くして当然だろう。
俺はいつだって、何事も無く過ごしたいと思っているし。向こうも不快だろうけどこっちだって、知らない女に怒られるなんて御免だ。
「はは。彼女なんておらんし」
白石は笑いながら、電気ケトルに水を入れた。
「まさか、この広い部屋で一人暮らししてるの?」
「……せやで。その、まさかや」
「え、家賃高くない?」
「高い」
白石は流しの横に置いてある鉢植えから、葉っぱをぶちぶちと千切ると、さっと洗ってガラスのティーポットに入れた。
「じゃあ、何でこの部屋にしたの」
「や、実はな、ルームシェアしとったんやけど。そいつが出てってしもて」
「あー。それはそれは」
こいつは面白い。ルームシェアだ何だ言っても、相手はどうせ女だろう。しかし白石ほどのイケメンでも、女に逃げられるなんてことがあるらしい。ティーポットに熱湯を注ぐ白石の顔を盗み見ると、珍しく、少しむっとした顔をしている。
「じゃあもう少し狭い部屋に、引っ越した方がいいんじゃない?」
「……」
「あぁ。白石ならすぐに、次の同棲相手が見付かるか」
「そんなんちゃうし」
白石は、「別に今すぐ引っ越してもええけど、そいつが置いてった家具とか、勝手に処分出来へんし」だなんて、もごもご言い訳をしながら。シンプルなガラスのティーポットから、コップにお茶らしきものを注いだ。
「はい、ミントティー」
あまり親しくない相手に出すには、変わった飲み物だ。俺は熱々のそれを、一口だけすすった。
「……。少し、甘い?」
「アップルミントやからな」
ご丁寧に白石は、先程の鉢植えを持ち上げて、俺の前に置き直した。青々としたミントからは、確かにリンゴのような香りがする。
それから白石とは、仕事や職場の話をいくつかした。合間に白石が、本人曰くギャグを挟んでいて、それはよく分からなかったけれど。そういう時はミントティーをすすって、何となく場を誤魔化した。
そうしていると、最初は強く感じられたミント特有の、清涼感のある匂いも。ほのかなリンゴの香りも。すぐに慣れて、最後には何も感じなくなってしまった。
それから白石が新品の歯ブラシをくれたから、簡単に眠る支度をして。俺はリビングのソファで休ませてもらうことにした。
白石がシャワーを浴びている音が、遠くに聞こえる(俺は着替えを借りたりするのが面倒だから、風呂には入っていない)。その心地良い水音の中で、何とはなしに、薄暗い部屋の中を見回した。
不思議だ。
俺は今夜、白石のマンションに泊まる。勿論、白石は自分の部屋で寝るし、学生みたいに夜通し語り合ったりする訳ではない。
しかし白石が育てているアップルミントのお茶を飲んで、白石が普段座るソファで眠るのだ。人間、生きていれば、こんな経験をすることもあるらしい。
俺は白石に借りた、知らない匂いのする毛布の中で。心地良い倦怠感を覚えながら、じわじわと意識を失っていった。
目が覚めると、まだ夜だった。一瞬、ここが何処だか分からずに焦ったが、白石のマンションだということをすぐに思い出した。
酒を飲んだから、眠りが浅いのだろう。ソファからずり落ちた片足を、毛布の中に戻してやる。少しトイレに行きたい気もするが、起きるのが面倒だ。このまま二度寝してしまおう。
テレビの録画機器か何かがキュイーと鳴って、気が散る。まぁ、無理に寝ることもないか。俺はまた部屋の中を見回した。薄暗がりの中、特に意味もなく、鉢植えの数を数え始める。すると玄関の方から、少し重い、鍵を開けるような音がした。
─ガチャリ
「─っ……」
びっくりした……。白石の奴、コンビニにでも行っていたのだろうか。玄関からは、誰かがドアを開け閉めして、また鍵を閉める音がした。そのままそいつが、リビングに向かって歩いて来る。
「……」
俺がこのまま起きていたら、白石を驚かせてしまうだろうか。悲鳴でも上げられたら、近所迷惑にでもなりかねん。俺は目を閉じた。すぐに誰かが、ソファの側に立った気がした。
「……」
側に立った気配は、消えない。どうして自分の部屋に戻らないのだろうか。それとも気配だなんて俺の勘違いで、もうとっくに自分の部屋に戻ったのかもしれない。
俺は薄暗がりの中、目を開けた。すると目の前に、俺の顔を覗き込んでいる奴が居た。猫みたいに光る目と、俺の目が合う。
「……っ」
目の前に居るのは髪こそ白いが、浅黒い肌の男だった。白石じゃない。誰だ。泥棒? 一瞬で血の気が引く。
しかし、男の方も同じ事を考えていたようで。男の口から聞こえてきたのは、俺の存在への問いだった。
「自分、誰や」