3、損凸
クライマックス曲の墜落は、その素顔を覆い隠す。
春は遅く、万物は蘇り、植生は緑の芽を出しているが、夜はまだ肌寒い。斎藤一は、せっかくの未飲酒の夜、臥室に正座し、髪をポニーテールにして、愛刀を守るために燭の光をかざしていた。百戦百戦の鬼神丸国重の刀身は、すでに小傷だらけになっていたが、その鋭さと強靭さを保ち、幾度となく乱戦をくぐりぬけてきた。ゆらめく蝋燭の光が刃に当たって寒々しく光り、眩しい反射光が斎藤一の顔を照らした。
木の廊下を踏む足音は、静かな深夜に特に強く、わざと着地を軽くしても。近づいてくる足音が門の外で止まり、白い紙の引き戸に漆黒の影がうつって、「斎藤、おれだ」と呟いた。斎藤が唇に結んだ紙を取って返事をすると、来た者は勝手に戸をあけて入って来た。斎藤一が礼儀をわきまえないようにしている者は数人しかいなかったが、来たのはその中でいつものように緊張した表情の土方歳三で、斎藤一と向かい合って胡坐をかいていた。「こんな時間に、副長は何の用だ」斎藤は鬼神丸国重の鞘をとりあげると、おそるおそる鞘のなかに刀身を入れ、「べつに用件は、明日の朝に申しあげてもよかろう」
土方歳三は、「新選組の諜者として、伊東についていく必要がある」と切り出した。そういうと斎藤一は手を止め、目をあげて土方歳三を見たが、やがてカチンという音がして、「いや、承りません」と返事をした。まさか斎藤一がこれほどきっぱりと断るとは思ってもみなかったのか、土方歳三はわざとらしい表情にひびが入り、眉をひそめて、「これはあなたにしかできません、あなたにしかできません」と、斎藤一を諭そうとした。土方歳三がこれほどまでに好いことをいっても、斎藤一はとっさに頼みを口にした瞬間、どうしても行かないと決心していた。初めて伊東甲子太郎に会ったとき、斎藤一は顔を見ただけで自分がこの人と合わないことを知り、嫌悪感さえ抱いていた。そのため、遠くの隅にひそむか、伊東甲子太郎のいる場所を避け、とにかく会わないことができた。
伊東甲子太郎は、斎藤一よりもむしろ好奇心が強く、彼を見ると熱心に挨拶をし、その剣の腕前に感心していた。のんびりとした日々を過ごしていると、自分の本心がいつのまにか氷山の一角をさらけ出していた。伊東甲子太郎のひそかな算盤は、近藤勇や土方歳三の眼に入っていたのであろう。
土方歳三の話によると、伊東甲子太郎は朝の荒唐無稽のあと、近藤勇をたずねて別の場所で話した。近藤勇の前に正座していた伊東甲子太郎は、新選組をいったん切り離し、隊士を率いて御陵衛士を結成し、部外者をだまして新選組の分裂を偽装し、陰に潜む長州の諜者を探ろうと提案した。その間、近藤勇は伊東甲子太郎と歓談し、絶賛して計画に同意した。伊東甲子太郎は近藤勇に、斎藤一と永倉新八のうちの一人を貸してくれないかと尋ねた。
沖田総司は別として、伊東甲子太郎が指名した二人は新選組内の剣術の達人であり、自分の護衛として技術の高い幹部が必要であり、御陵衛士内の強力な戦力が必要であったことは明らかである。近藤勇は以前のように快く同意するのではなく、しばらく考え込んでいたが、少し考える時間が必要だから明日返事をする、とゆっくりと口を開いた。夜のうちに土方歳三が意見を述べてきたのは、おそらく近藤勇と相談した結果であろう。これを拒否した斎藤一は、このような仕事を引き受ける気にはなれなかった。彼が関与すればトラブルはあとからあとからやってくると直感していたし、しかも永倉新八と二人はまったく不味い男で、伊東甲子太郎にはどんな能力と手段があるのか。
「副長に信頼してもらって、ありがとな」斎藤一は顔を上げると笑顔で迎え、「永倉さんと伊東さんは日頃から趣味が合うから、伊東さんに行けばいいじゃないですか」斎藤一の強情さに苦慮した土方歳三は、「永倉と伊東が仲がいいから不都合なんだ、あいつは伊東の説く道理を聞くと、馬鹿にしてあいつに従う」と、片手を額に当てて説明した。愛刀を脇に置くと、斎藤一は手を伏せ、「へえ、なるほど」と納得したような顔をした。あきらかに違和感を覚えた土方歳三は、気をゆるめなかったが、斎藤一の話頭が一転して、「永倉さんが伊東さんに従う可能性があるなら、私には不可能ですか?」と、にこやかにいった。
寝室には一瞬、静寂が広がり、二人は顔を見合わせたまま無言だった。土方歳三は眉をひそめたが、斎藤一の言葉に油を注いだかのように、斎藤一の不機嫌な態度に怒っているのか、それとも挑発的な避け方に怒っているのかはわからない。土方歳三は声をひそめ、「なにをいう、斎藤」と、吠える狼のように詰問した。「噓じゃありませんよ、副長、今夜はお酒を飲んでいないのに、私の言っていることは本音ですよ」斎藤一は両手を体側に広げると、土方歳三の態度に怯まず、「私は気ままな人間です。私にとってどちらが面白いかはどちらに行きます。伊東さんの理屈や考え方が気に入るなら、ついていってもいい」
どういう言葉が、土方歳三の笑いをくすぐったのか、斎藤が言い終ると、土方歳三はしかめていた眉をゆがませ、三日月のように眼をかがめて噴き出した。斎藤一は、わけのわからぬ顔で、大笑いで波打っている相手のからだを見つめた。笑いを止めると、土方歳三の顔には、まだ何の反応もなかったのか、リラックスしたような笑みが浮かんでいた。「新選組を裏切るわけにはいかない。裏切るわけにはいかない。近藤と俺はいろいろ考えたが、結論はお前しかいない、お前がスパイになれば安心だ。」
斎藤一の胸を衝かれたような、あからさまな発言は、頰を薄紅潮させ、部屋の温度を増すような蝋燭の光に、斎藤一はいくらか熱に酔いしれながら、茫然として土方歳三を見た。真顔ではなく、柔らかさが増していて、ちょうどいい間隔なのに、幻のようでもあり、幻でもない、息が自分のそばを流れていくようだった。夢中になっていた斎藤一は、奇妙な感覚を身体から振り払うように頭を振り、深呼吸をして心を落ち着かせ、「ほほう……」と、平静を装って声を出した。「仕方がない。あなたの言うとおりにします」土方歳三の率直な発言で斎藤一の拒否を打ち消し、自分の意に従わせた。
土方歳三は、人の心を読み、思慮深く、思慮深く、意味と目的のあることをいう器用な人であったといわねばならない。斎藤一を降参させるポイントを、的確につかんでいた。少し心を落ち着けると、斎藤一は、「伊東さんのところへ行くには、何かする必要がありますか」とたずねた。「あなたはいつものように、彼らの相談には関わらないでください」土方歳三は腕組みをして、斎藤一の顔をみつめ、「用件は手紙でご連絡申しあげます」斎藤一は、土方歳三が日頃の調子を保っているというのでほっとした。どんなにいい役者であっても、伊東甲子太郎をはじめとする無感覚で嫌悪感すら抱く集団の中に入りまじっていると、いずれは仮面を剝がして本性をさらけ出してしまう。
今の段階で考えうる周到な計画は、ほとんど白状していた。土方は身を支えて立ち上がり、障子を開けた。春風の冷たさに立った燭台が揺れ、光に照らされた人影がやわらかくなった。土方歳三は戸口に立ったまま、いつまでも立ち去ることができず、うつむいて何かを見つめていたが、斎藤一は無言で待っていた。「斎藤」斎藤一に背を向けた土方歳三は、どういう顔をしていったのかわからない。斎藤一は、さきに土方歳三があぐらをかいて坐っていたあたりを見つめたまま、そのうしろ姿をふりかえらなかった。土方歳三の注意に、斎藤一は、「あまり懐かしむなよ、副長」と、いった。土方歳三の返事に代わって障子の音がした。夜風はもう入らず、燭の火も揺らぐことなく、門の外の人影は消えた。