愛しき彼の声(娘さん、こっちへおいで)
呟くような声であたしは誰かに呼ばれて振り向く。
けれど帰り道の道路には誰一人いない。
(またか)
ハァと溜め息つく間にも、あたしの耳には「おいで、おいで」と、声が聞こえてきている。
でもあたしの目には、その相手の姿が見えず声だけが、あたしに届いているのだ。
この町に転校する前もあたしは、何回もそんなことがあり周囲にも嫌われていた。
転校すれば幻聴なんて消えると思っていたけど、酷くなる一方だった。
「娘さん、おいで」
「あたしに話しかけないで」
「んっ、この匂い夏目レイコ!」
話しかけていた声がいきなり、怒鳴り声で女性の名前を呼んだ。
あたしも顔をあげると、転校した高校と同じ学生服の男子生徒が歩いていた。
(あの人が夏目レイコなわけないし、見た目からして男だよな)
「夏目レイコ!友人帳を渡せ!」
怒鳴り声がそう言ったのをあたしは聞いていた。
けど、彼に何もしてあげられなかった。
(きっとこれもあたしの幻聴なんだから)
そう思った瞬間。
あたしの目の前では、予想していなかったことを彼は、成し遂げていた。
ガツ
「ギャア!」
誰もいないのに彼はいきなり、一人でパンチをする。
何もないのにあたしの耳には、確かに手応えのある物音と悲鳴が聞こえた。
「ニャンコ先生、今のうちに、あっ!」
今まで気付いていなかったみたいで彼はあたしと目が合う。
彼は明らかに見られてマズい顔をしている。
「……声が聞こえた」
「声?」
あたしの質問の意味が分からなく、彼は困惑している。
あたしは分かりやすく説明する。
「いつもあたし幻聴が聞こえるんだ。さっきの見て、もしかして君もあたしと同じ声聞いたのかなって」
「なんて言ってた、その声って」
「夏目レイコ、友人帳を渡せって言ってたよ」
彼もあたしの言葉と同じのを聞いているならば、きっとこれは誰かが実在してること。
あたしはおかしくない。
「俺も同じ声聞こえてた、でも皆の前では言うなよ」
「うん、分かった。誰にも言わない」
初めて知り合えた仲間だから嫌われる行為は、あたしもしない。
「俺急ぐから」
「うん、またね、えっと」
そういえば、彼の名前を聞くのを忘れていた。
でも同じ高校の制服だし、きっと校内でも見掛けられる。
彼の姿が見えなくなり、あたしの身体に生ぬるい風が吹いた。
両親の仕事の関係であたしは一人、祖母の住んでいた家で暮らしている。
共働きで海外出張の多い両親の下に生まれたあたしは、祖母の暮らしたこの町で一緒に住んでいた。
13歳になり中学生になったあたしは、都会の私立中学校に通っていた。
けれど自分はあることで、皆から問題児扱いにされていた。
それが幻聴。
誰もいないのに声が聞こえるあたしを、友達は怖がり嫌っていく。
そんな原因もあり誰も知っている人のいない祖母がいたこの町に、高校生になってから転校し越してきたのだ。
2年前。
祖母がいなくなった家は、一人暮らしには広すぎるけど祖母の家への懐かしさが、あたしを子供に戻らせてくれる。
都会でも一人暮らしに近かったので家事は、難しくないが買い物は正直困る。
自転車20分は走らないと、目的のお店には辿り着けない。
そう思うとあたしの通う高校は、歩いてでも行ける距離なので便利なのだろう。
「おはよう。田沼」
朝の登校中に男子のクラスメイトの田沼要が歩いていたので、あたしは声をかけてみた。
「葉霧さん、おはよう」
「あんたも家こっちなの?」
「うん、家がお寺だから」
確か散歩の途中にお寺に来た時に、境内で何度か田沼を見掛けていた。
でも、お寺の息子さんだとは知らなかった。
田沼もお寺で住んでいるのだとすれば、やっぱり幻聴を聴いたりするのかな。
あたしがお寺方面に散歩に行くと、不思議な声が何重にも聞こえていた。
(そんなこと聴けないよね、また嫌われる)
(クスクス)
考えている間にも女の品の良い笑い声が幻聴で聞こえてくる。
あたしはその声を無視していた。
「今笑った?」
「えっ?」
田沼は何気なく言ったみたいだけどあたしにとっては、今の笑い声が聞こえていたのかもしれないと思っていた。
「田沼も幻聴聞こえた?」
「幻聴?」
「あたし、誰もいないのに幻聴が聞こえたりするんだ。昨日は、あたしと同じ幻聴聞いた人初めて見たけど」
「田沼おはよう」
あたし達が話していると田沼の友達が、声をかけて田沼と何かを話している。
「葉霧さん。もしかして昨日会った人って夏目のこと?」
田沼の隣にいる男子生徒の夏目は昨日、あたしが見掛けた彼だった。
夏目もあたしに気付いたみたいで、少し驚いている様子である。
「うん、この人。田沼の知り合いだったんだ」
「夏目も僕と少し似てるから」
田沼と夏目が似ている?
一体何のことなんだろう。
「昔から俺ら妖が見えるんだ。田沼は感じる程度だけど多分、葉霧も妖の声だけは届くんだと思うんだ」
妖の声だけが、あたしの耳に届いている。
つまり今まで幻聴だと思っていた声も全部、妖の声だった?
「そっか、妖怪なんだ」
「大丈夫?苦しくなったりとかしてない?」
「うん、大丈夫。幻聴の正体が分かっただけでも安心したし」
「でもこの話は俺達の間だけにしてくれ、俺はここにいたいから」
「誰にも言わない。約束する」
夏目もあたしと同じく転校生だった。
あたしとは隣の教室で時々、顔を合わせることもあったけど人前では挨拶を交わすだけにしていた。
下校時は、誰もいなければ話して帰るようにはしてみた。
でも、夏目はいつもあたしが見えない妖怪相手と話して帰っていた。
妖力が弱くて声だけしか聞こえない。
夏目とあたしの間には、境界線が引かれて入れない気がした。
(夏目と同じ世界を見てみたい)
時々そんなことを考えてしまう。
けれど、きっと夏目を傷つけてしまう言葉。
だから言えない。
あたしが家に帰っても、妖怪の声が聞こえてくる。
「夏目レイコの孫か、懐かしい響きだ」
「知ってるの?」
妖怪にも善良な奴もいるらしい。
今、会話しているのは祖母の家も守り住み着いているヤモリの妖。
一人暮らしのあたしの話相手になってくれている。
昔からこの家に住み着き、子供の頃のあたしも知っているようだ。
「知り合いの妖達から聞いているからな。一度、私も会ったが強い女だ」
夏目の祖母にあたる夏目レイコ。
妖力が強く女性だったみたいで、手当たり次第に妖怪を子分にしていったらしい。
その証拠として彼女は、妖怪の名前を集めて妖怪を服従させる友人帳を作った、とヤモリから聞いた。
「今は、斑と共に友人帳の名を返しているようだ」
「斑?」
「孫の傍らにいる妖だ。猫の姿をしている状態ならば妖力の少ないお前にも見えるだろう」
猫の姿をしている妖怪。
今度、夏目の所へ行く時に見てみよう。
「しかし、何故今になってお前に妖力があるんだ。前は私の声さえも聞けなかったのに」
小学3年生まで祖母の家に住んでいたけれど、当時のヤモリの声は一度も聞いていない。
もし妖力が生まれるきっかけがあるならば、思い出の中に生きるあの人。
「小野宮がいてくれたからだよ、きっと」
小野宮。
あたしが知っているのは、その名前だけ。
祖母は世話をするため、時々、小野宮の小さな家に連れて行ってくれた。
その時には、もう目の障害を持っていた。
交通事故で視力を失った小野宮は、身寄りがいなく一人暮らしで、祖母とあたしが善意で世話をしていた。
(今日は良い天気だよ、雲一つない空)
あたしはいつも彼の話相手で、見えない彼の代わりにあたしの目から見える風景を説明した。
(うん。風が気持ちいいね)
小野宮もあたしの話に合わせてくれて、いつも微笑んでいた。
(小野宮はいつも夜の中にいるんでしょ、怖くないの?)
当時、無邪気なあたしは、小野宮にそんなことまで聞いてしまう子だった。
(怖くない。だって話相手がいるから)
(あたしのこと?)
(珠樹もそうだけど夜になると聞こえてくるんだ、話し声が。いつの間にか僕はその輪の中にいて楽しんでいるんだ)
今思うと、小野宮もあたしと同じくらいの妖力を持っていて、妖怪達と話していたのかもしれない。
でも、あたしは小野宮を夜に会ったことない。
もしかすると、あの時だけの作り話の可能性もあった。
その真意が分からないまま、彼は死んでしまった。
重い病を持っていたにも関わらず治療もせずに、小野宮は家で眠るように死んでいたらしい。
(生きるのに疲れたのだろう)
葬列に参加した大人達は、彼に対して誰もがそう口で告げた。
あたしは誰もいなくなり空き家になった小野宮の家の縁側で、彼の死を受け止められなく呆然としていた。
(彼は自分の死期を分かっていたわ)
知らない間に葬列に参加していたらしい女の人が、あたしに声をかけていた。
でもあたしは、ただ聞いているだけで動けなかった。
(だから彼は精一杯生きていた。貴女にも死ぬ前に伝言を伝えてくれって言われたわ、「悲しまないでくれ、君の声が一番好きだった」と)
(うっ、うっ、ひっく)
悲しまないでくれ。
小野宮らしい言葉だけど、涙が止まらなかった。
涙と一緒に流れている思い出の彼は、優しくキンモクセイの香りが広がっていた。
あたしが泣き疲れると、もう女の人の姿がなかった。
庭にある立派なキンモクセイの木だけが見守ってくれていた。
「キンモクセイの見事な空き家の主人か」
「うん。さてと、あたしはそろそろ寝るよ。明日も学校あるしおやすみ」
ヤモリに挨拶をして居間の電気を消して、あたしは寝室へ向かっていく。
あれから数年が過ぎて小野宮の家は、どうなってしまったのだろう。
あの綺麗なキンモクセイの木はまだ、生きているのか。
(明日行ってみようかな)
まだ小野宮の家があるならば、きっと辿り着けるはずだから。
次の日の朝。
田沼は体調が悪いらしく休みだった。
登校している夏目も顔が真っ青で疲れた様子だった。
「夏目、大丈夫?倒れそうだけど」
「あぁ、来る前に名前返してきた」
「それって友人帳の?」
「俺、葉霧に友人帳のこと話たっけ?」
あたしは、夏目に家に住み着いているヤモリから友人帳の話を聞いたのを説明した。
「それも妖だから話が聞けるのか」
「ヤモリだから何もしないよ、でも名前返すのも大変だね」
夏目の持っている友人帳は、妖怪の名前を返す度に体力を持っていかれるらしく、連続で返すのも難しいと話してくれた。
「これがその友人帳」
夏目が差し出してくれたのは、紐で束ねた紙切れ達。
表紙には、丁寧な文字で『友人帳』と書かれていて古さを感じた。
中身を見せてもらうと子供の落書きのような人間の文字ではない妖怪の名前が書いてある。
パラパラとめくるけど、あたしにはどれ一つ読めない。
(モク)
一瞬だった。
あたしの耳に、小野宮の声が聞こえた気がした。
そして、あたしの持っていた一枚の紙切れに書いてある、妖怪の名前さえも。
ガツン!
「痛!何?」
突然、あたしを襲った頭の激痛は、まるで固い石をぶつけられたような痛みで、まだズキズキが消えないでいる。
「ニャンコ先生何やってるんだよ、女の子相手に」
「友人帳をそう安々と他の者に見せるな、盗まれたらどうする!」
「葉霧はそんなことしない」
「一体誰よ!痛いじゃない!」
痛みにまかせて怒り出したあたしの目の前にいたのは。
「招き猫?」
それも可愛げのない不細工な猫。
「猫……もしかして斑?」
「うっ、何故女が私の名前を知っているんだ?」
「それもヤモリから聞いたのよ、でも先にあやまりなさい」
「ふん、人間相手に私が頭を下げるなど、ぐっ!」
ガンと夏目の拳が、招き猫の頭部を殴り黙らせれてしまった。
(完全にあれは伸びてるよね)
「本当にごめん、俺からあやまるよ。それとこいつのことニャンコ先生って呼んでいいから」
「ニャンコ先生?あはは、最高!似合いすぎー」
妖怪の斑よりも招き猫のニャンコ先生の方が親しみも感じて愛嬌もあった。
「でも友人帳は大切な物らしいし、ちゃんと持っていたほうがいいね」
「うん、そうだな」
「それとあたしにも一つだけ名前が読めたんだけど」
「えっ、俺しか読めないのに」
「この紙の文字『モク』って読む?」
あたしが指で示して教えた文字は、落書きにしか見えないけど読めた気がした。
「確かに『モク』だ。でもなんで葉霧が読めるんだ?」
「女、心当たりがあるな」
いつの間にか回復していたニャンコ先生が、あたしのことを不思議な瞳で見つめていた。
「心当たりと言うか、また声が聞こえたの」
「声?妖のか?」
「だったら私達にも聞こえているはずだぞ」
夏目達には聞こえなかった小野宮の声は、あたししか聞こえていない。
あの声が本当に小野宮の物ならば、なんであたしに『モク』と教えてくれたのだろう。
「その声が名前を教えてくれたのか?」
「うん」
「モク。レイコは立派なキンモクセイの妖だと聞いているが、確か今は空き家の近くにあるらしいぞ」
「小野宮の家?」
「小野宮?」
昔、小野宮の言っていたあの話は、作り話じゃない。
本当にキンモクセイの妖怪のモクと毎夜、一緒に話していて、あたしと同じ妖力を彼は持っていたんだ。
「今日の放課後、開いてる?」
「開いてるけど何するんだ?」
「小野宮の家に行く。もしかしたらその場所にモクがいるかもしれない」
あたしは、確かめたかった。
あの日。
小野宮が死んであたしの傍にいてくれたキンモクセイの香りがした女性が、誰なのかを。
学校が終わり放課後になると、約束通り夏目はニャンコ先生を連れて、小野宮のいた空き家まであたしと行くことになった。
「小野宮さんって誰なのか聞いてもいい?」
「言ってないからね、小野宮はあたしにとってお兄さんみたいな人なんだ。ただの他人だけどね、彼は交通事故で視力を失って身寄りもいなくて一人暮らしで不便だから近所だった祖母とあたしが手伝いしていたの」
トントンとあたしは、リズムを刻みながら石畳の階段を上っていく。
「あたしは彼の話相手で不思議な物語も教えてくれた。彼もあたしと同じで妖怪の声だけが聞こえていたみたいでそのせいで、あたしも妖怪の声が聞こえるようになったんだと思う」
「今、その小野宮さんはどうしているんだ?」
「いないよ」
「えっ」
階段を上り終えると、古びて朽ち果てた小野宮の住んでいた平家が一軒立っていた。
「あの家で小野宮は死んだの。重い病気で、もう手遅れだったんだって」
彼の後に入った住人は、いないようだ。
古く雑草の茂った庭にツルが、かかる家の壁には思い出の面影は多少残っている。
「やっぱり手入れしないと駄目ね」
「葉霧、その小野宮さんが」
「それ以上言わないで」
夏目もあたしと同じことを考えているに違いない。
でも今はもう……。
「小野宮はもういない。それはちゃんと受け止めないといけないから」
「そうか、それでどれが妖のいるキンモクセイなんだ?」
「この辺りの庭にはあると思うけど」
(夏目様……友人帳……)
傍にいてくれたあの女性の声と一緒に、キンモクセイの香りがあたしの鼻孔をくすぐる。
「葉霧!」
夏目の呼ぶ声がした。
背後にいたはずの夏目とニャンコ先生の姿は、どこにも見えなくなってしまっていた。
「夏目?ニャンコ先生?どこにいるの、返事してよ!」
必死であたしは家の周辺を探したけれど、二人の姿はなく声も聞こえない。
「どうしてこうなるのよ。もし、二人に何かあったらどうしよう」
ドクドクと嫌な方向ばかり考えていて、自分の心臓の鼓動が初めて怖く感じた。
また誰かを失って泣くなんて嫌だ。
何か出来ることをしないと。
(夜になると聞こえてくるんだ。話し声が)
小野宮の言葉が本当で妖が話相手だったとすれば、あたしにも出来るかもしれない。
心を落ち着かせながら、あたしは静かに両目を閉じる。
暗闇の世界が広がり、あたしの身体は風や物音に敏感になっていく。
小野宮は数年間、この暗闇の世界に生きていたのだと思うと、なんて強い人なんだとあたしは不思議な気分になっていく。
「待っておりました、夏目様。どうぞ名をお返しください」
家の中から聞こえてくるのが分かる。
あたしは目を閉じたまま、ゆっくりと縁側へと歩いていく。
縁側の戸は、軽く開けて家の中に入れた。
「きゃあ!」
目を閉じている状態であたしは進んでいて、壁や何かにぶつかってしまう。
安全を確認しながら、あたしは声のする方へ足を進めていく。
「お前がモク?」
「夏目、いるの?きゃあ!」
今の声は確かに夏目だった。
夏目はあたしの見えない場所にいるんだ。
(見つけないと)
「言っておくがこいつはレイコじゃない、レイコの孫だ」
「……時が経つのは早いのですね。小野宮様がこの家からいなくなっても、私はずっと一人だった」
小野宮の名前が出てきて今、夏目が話しているのが妖のモクなのだとやっと分かった。
「私はこの近くでは一番美しいキンモクセイ。レイコ様も私を気に入って頂き名前も彼女に渡しました。でも、その日からレイコ様は来なくなってしまい、代わりに私の近くに家が建ちある年に引っ越して来た主が小野宮様でした。住みだして視力を失った小野宮様のお役に立ちたいと思い、私は夜だけ小野宮様の傍にいたかった」
モクは、小野宮やあたしの心を救ってくれた妖。
話したくてお礼が言いたかった。
「小野宮様は私のことを人間だと信じてくれて気にせず話してくれました。彼のこと女の子のことも……でも小野宮様の病は進んでいて妖の私はただ見守るだけしか出来なかった」
「そんなことない!」
精一杯の声であたしは、暗闇の中にいる妖のモクに話しかけた。
「小野宮にとってあんたは心の支えになってくれた!あの人があたしにモクのことを話している時は本当に嬉しそうな顔をするの!それに小野宮が死んだ時に話しかけてくれたのはあんたでしょ?ずっとお礼を言いたかったの」
きっとこの声は届いているはず。
何度も、何度も、あたしは呼び続ける。
彼女に届くまで。
フワッ
キンモクセイの香りが、あたしの身体全身を優しく包んでいく。
「ありがとう、最後に貴女の成長を見れて良かった。小野宮様の願いを叶えられて」
モクの「最後」と言う言葉に、あたしは目を開けてしまう。
「どういう意味……」
目の前にいたのは、美しい黄色の着物に包まれた木の葉の髪を持つ少女。
「『モク』……君に名を返そう。受けてくれ」
夏目の姿が見えた。
紙をくわえると、風に舞い上がる花びらのように紙切れの文字が浮き上がる。
しゅるしゅると浮き上がった文字は、目の前にいる彼女の額に吸い込まれていく。
「モク!」
あたしは声をかけると、妖怪のモクは笑いながら消えていく。
(私は小さな妖で人間の力なしで生きていけない。家には人間もいなくて誰も私を見てくれない、私はもう妖でいるのも保てないから名前を返してもらい元の木の姿に戻るの。でも私は忘れない、小野宮様のこと、小野宮様を愛してくれて泣いていた子を)
モクの声は、あの時と同じ優しい声。
あたしはモクのために泣いていた。
気がつくとモクの姿はなく、空き家の中であたし達は呆然としていた。
「夏目はいつもこんなことをしているの?」
「あぁ」
体力を持っていかれた夏目はあたしの傍らで倒れている。
意識はなんとかあるらしい。
倒れている夏目の隣にあたしは座り込み、何も言えなかった。
先に話してくれたのは夏目の方だった。
「名前を返す時に妖の記憶が見えるんだ。今回もモクの記憶が流れてきて、その中に葉霧もいた。モクはずっと葉霧に憧れていたんだ、小野宮さんが笑顔でいられる時だから自分も役に立ちたかったんだ。モクは」
「そう、なんだ」
夏目はあたしよりも妖力が強いからこそ、相手の痛みも受けてしまう。
「辛いね」
「辛いけど名前を返すって決めたから」
彼ならきっと出来る。
そうあたしは思いながら、暮れていく夕焼けの空を見ていた。
夏目がモクに名前を返してから、数日後。
あたしは一人で、ガーデニング用品を持ち空き家の庭掃除をしていた。
あの日以来、あたしの耳には幻聴は何も聞こえなかった。
「やっぱりここにいたか」
夏目は、ニャンコ先生を連れて空き家まで来てくれていた。
「うん、やっぱり手入れしてキレイにしたかったから」
「だったら俺も手伝う……今も何も聞こえないのか?」
「そうだね、小野宮もモクもいないし必要なくなったからかな」
妖の声が聞こえていたのは、小野宮があたしにモクに会って欲しいと願ったからなのだろうと思っていた。
家に住み着いているヤモリの声も聞こえなく、何故か寂しさを感じてしまう。
「ふん、女の妖力は、その程度か」
「悪かったわね、この程度で」
不思議でニャンコ先生の声だけはちゃんと聞き取れていて妖力が、まだあることは分かっていた。
多分、モクの姿を見たことで妖力を使ってしまい、今は回復している途中なのだろうとあたしは考えていた。
「キンモクセイが咲く前にキレイにしておきたいから」
モクは木の姿になってしまった。
けど、またあたしが見守ればまた会えると信じていた。
「少し休憩しよう」
「うん、今行く」
(ありがとう)
あたしだけが聞こえる幻聴で、彼女は言ってくれた。
あたしはキンモクセイに向かって迷わず答えていた。
―今度はあたしが貴女の話相手になります。小野宮がいたこの庭で―