グラスを投げつけてやればよかった。「翠くんは、お父さんのことが好きだったのね。」
もう「くん」なんて呼ばれる歳ではなかったが、職業柄名前を呼ばれるときには「くん」をつけられることが多かった。この子どもは周りの大人に倣ってか「翠くん」と俺を呼ぶ。大人になった今でも変わらないその呼ばれ方に、まるで学生の時から時間が止まっているかのように感じてしまう。実際に俺の気持ちはあの頃から変わっていない。
「もちろん好きだよ。」
なんてことはない。学生の頃からの先輩として、同業者として、メンバーとして。演技なんて今ではお手の物だ。この気持ちを隠すつもりはなかったし、ひけらかすつもりもなかった。ただ、自分の父親が同性の知り合いに性的な好意を持たれてると知ったら可哀想だなと思ったから、ライクな気持ちとも捉えられる答え方をした。人好きのする笑みをすれば、大抵の人達は深く考えず関心を顔に向けてくれるから、本心を暴かれずに済む。この子が小さい頃から遊ぶ機会が多かった俺はこの子もその他大勢と同じだと油断していた。この子も俺の深いところまで追求しないだろうと。しかし、この子はもう「子ども」というには大きくなっていて、つい最近大人の仲間入りをしたばかりだった。
「ずっとわからなかった。だって家にいる時、ずっとお父さんとお話ししてるんだもん。お母さんには目もくれない。私とは辛うじて相手してくれるけど。お父さんがいなくなった途端、目が冷たくなる。」
俺には子どもはいなかったが、学生の頃から子ども層をターゲットにした活動をしていたので、子供の扱いには慣れているつもりだった。そういえば、子どもというのは大人のことをよく観察しているのだったかな。爪が伸びてきたな、そろそろ切らないと。
「私、覚えてるのよ。翠くん、お父さんに頼まれないと私と遊んでくれなかったでしょう。それまで私たちをいないみたいに扱ってた。怖かったの。私たちからお父さんを奪う機会をずっと待ってるみたいに、よく家に来るから。」
そうだ。守沢先輩が結婚してから、俺は自分から守沢先輩を誘うようになった。家族が待ってると断られることが増えても、家に上がらせてほしいと頼み込んでしまえば、守沢先輩の側にいることができたのだ。仕事で忙しかった守沢先輩は俺と食事に行くのも無理だったのに、次は家族が待ってるときた。どういうことだよ、だったら結婚なんかしないで俺に時間を割いてよ。結婚式でウェディングドレスを着た奥さんを見た瞬間、怒りでテーブルを殴ってしまいそうになったのだ。アンタの隣には、俺が居たかった。
「私が成人して、親の手を離れるのをずっと待ってたんでしょう。お父さんを奪うために、ずっと私たちを監視していたんでしょう。そうはさせないから。お父さんはずっと私のお父さんで、お母さんの旦那さんなの。翠くんには絶対渡さない。」
あの人に似て、真っ直ぐで曇りのない大きな瞳に俺が映し出された。でも怖いんだろうな、目が潤んでいるし手が震えて服の裾を握ってしまっている。先程この子は俺が怖いと言っていたが、むしろ俺は触れずにいたのだ。自主的に関わろうとしなかった。それが返って妻子を怖がらせてしまっていたようだが。
「家族を奪わないで。」
笑わせるな、先に奪ったのはそっちだろ！


子どもに会ってくれないか。学生の頃から守沢先輩の連絡に一喜一憂していた俺は、今回も連絡が来て嬉しい反面、触れたくない家族の話で落ち込んでいた。正直、会いたくないのだ。守沢先輩がずっと好きだった。諦めようとしたけど死にたがりの俺を差し置いて生き続けたこの恋心は、勝ち目のない異性に横取りされたことで生きた屍と化していた。ゾンビのように彷徨っている。持て余している。手をひいてくれた先輩の手を忘れられずにいる。その手には今、指輪が嵌められている。俺はそれを渡せていないのに。