Perfume 真白い光が黒い石の床に落ちて磨き上げられたその表面に一層黒い影を映す。足音ひとつにも気を遣うような優雅な雰囲気にも、こんなフロアの片隅までほんのりと漂う柔らかく粉っぽい香りにも慣れない。スバルは勧められるまま背の高い椅子に腰かけてからずっと、瀟洒な造り付けの棚にずらりと並んだ様々な意匠の瓶を文字通り地に足のつかない心地で眺めていた。
彼の隣の席から小さなテーブル越しに販売員と二言三言交わしていた男が振り返ったと思うと顔を見るなり鼻先から笑いを漏らす。
「こういう所は初めて?」
「……はい」
スバルが慎重にいらえると隣の男、ケイトは少し目を細めてから自らも壁の棚に視線を投げかけた。
スバルたちが訪れているのは百貨店の香水売り場。奇抜な形や模様の瓶やシンプルなガラスの内側に赤、青、緑と色とりどりの液体を湛えた瓶など、それぞれがオブジェのように個性的な顔をして並んでいるのは数多のメゾンの香水たちだ。そのひとつひとつが香る前から存在を主張しているようでスバルはいささか圧倒されていた。
きっかけは何気ない問いかけだった。いつものように身支度を済ませたケイトが廊下にふわりと甘い香りを残して、それに気付いたスバルが何の香りなのかと訊ねると彼は短く香水の名を告げた。へえ、と相槌を返し台所に頭を引っ込めたスバルに、食卓を整えながらケイトはなおも香水の説明を重ねる。スバルにしてみれば気が向いたら後で検索してみる程度の単なる世間話のつもりだったが、良い香りだから気になったという一言を口にしてから気付けばこうして香水売り場に連れてこられていた。
「初めてなら色々試させてもらうと良い」
「いくつか絞り込んだらお肌にも乗せてみましょう。服と同じで香水はその人が身につけて完成しますから」
愛想の良い販売員はいくつかの香水瓶と細長い紙を持って来た。ここまでの道すがらケイトにも同じようなことを言われたとぼんやりと思い出す。人の肌にはそれぞれ匂いがあって、それによって香りの向き不向きがあるだけでなく同じ香水でもまったく香りが変わるのだとか。
――私の肌は結構香水の香りが変わるタイプだから、スバルがつけるとまた印象が変わると思うよ。
お揃いが良いならそれも楽しいけど一度は試してみた方が良い、と片目を瞑ったケイトの表情を思い出すといっそう力強く血が巡るのを自覚しながらスバルは努めて平静を装った。
「これがアルバ様が今つけていらっしゃるもの。ウッディ香調の香りになります」
「……思ったより爽やかな香りですね」
「トップにベルガモットとジャスミンが香るのであまり重たさは感じないかと」
大きな牡羊の飾りがついた瓶から香水を吹き付けたムエットに鼻を寄せたスバルにそう販売員は応じた。そう言われると確かに覚えのあるかおりだった。
「スバルはベルガモットの香りが好きなのかもしれないね」
以前ケイトに分けてもらった電子タバコのリキッドの名前がスバルの脳裏をよぎる。あれもベルガモットの香りのカクテルだった。同じものを思い浮かべているだろうケイトは素知らぬ顔で言葉を継ぐ。
「ただ、この香水は時間が経つにつれてサンダルウッドの香りが強くなってもっと落ち着いていくよ」
「サンダルウッド?」
「お寺の匂いって言ったら近いかなあ」
スバルが複雑そうな顔をするのを面白がるように肩をすくめるとケイトは別の瓶を指さした。今度はアヒルの頭の飾りがついている。
「ベルガモットじゃないけど同じ柑橘系ならこういうのがスバルには似合うと思うな」
「マンダリンとプチグレン……ダイダイの枝葉の香りです」
香水の名前を書き込んだムエットを差し出すと販売員がそう補足する。先ほどの香水より薄くて鮮やかな緑色の香水からは色のとおり清々しく清潔な香りがした。
「何か……森の香りの入浴剤みたいな……」
突き抜けるように爽やかな香りは若々しく、裏を返せばケイトのような包容力のある大人っぽい香りとは対極にある。
「ははは、こちらも時間が経つと香りが変化して、石鹸に似た大らかでリラックスした印象になりますよ。フレッシュさと少しダークな奥深さの二面性を表現しているそうです」
この香りが似合うと言ったケイトの真意を内心ではかっていたスバルは、そう解説されなければ恨み言のひとつも言っていたかもしれなかった。
それからもケイトが同じく愛用しているというレザーの香りのどこか危うい雰囲気の香り、甘いバニラの香りのリキッドを好むスバルにと勧められた驚くほど軽いバニラの香りなど様々な香りを試したスバルが方向性を見失いかけた頃、親身に選んでくれていた販売員がふと思い出したようにこれで十数枚目かのムエットにボールペンを走らせ、差し出してきた。
「こちらもダイダイがトップの香りになります。時間が経つとバラやジャスミンの香りも」
言葉のとおり、柑橘の甘酸っぱい香りが鼻腔いっぱいに広がった後、甘く華やかな香りが追いかけてくる。横から手を出して香りを確かめたケイトもすっきりしていていて良いとしきりに頷いている。
「良いですね、結構好きです」
「女性向けなのかと思っていたけど、元々対象はユニセックスなんだね」
香りのデータを読みながら納得したようにケイトが言うと、これまでただただ人当たりの良かった販売員の笑顔が不意にぎらりと光ったように見えた。
「性別を問わず身につけられる香りですが、恋人の女性にプレゼントされる方も多いですね。というのも、実はこの香り、男性向けのペアフレグランスがありまして」
曰く、香水同士が引き立て合うように調香されていて、深くハーブやレザーの香る香水と、この爽やかで時間ごとにしっとりと甘くなる香りが合わさると新しい香りの境地があるのだという。最初はきょとんとした顔をしていた二人だったが、説明を聞きながら先にその意味するところを理解したのはケイトだった。くすりといつもの少し悪い笑みを浮かべると首を傾げてスバルを見下ろす。
「なるほど、恋人ならではの楽しみ方だね」
まだ目を瞬いているスバルはもう一度販売員の説明を繰り返す。
二人が身につけている香りが引き立て合う。恋人たちの香りが、混ざり合う。
「……!」
再び、スバルの体を力強く熱い血が巡る。それを悟られまいとわずかに口を引き結んだスバルを見下ろしたままケイトはにこにこと楽しげな表情を崩さない。
「スバル、この香り気に入った?」
柑橘の爽やかな香りが少しずつ薄れ、白い花々が官能的に花開き、香り立っていく。
了