とけないおまじない 中一の、まだ少し夏の陽気が残り雲だけが秋へと支度を始める頃。 富士に週末時間ほしいと伝えておいた。 一瞬ぽかん、とした顔をしたあとパアッと咲いた笑顔で「おう!」と元気よく応えてくれた顔を思い出す。 今週末はちょうど部活がなくて、それで、ずっと二人で追いかけていた漫画が映画化されるらしいので見に来た。
「オリジナルいっぱいあった!」
「な! あれけっこう好きな演出」
「わかる! 一話と繋がってたね!」
興奮気味で早口になる富士を見ていると、口元が緩んじまう。 誘って良かった、と思えて。
「まだ時間あるっしょ? どっか店入る?」
「そだね、なんか食べたい」
歩きながら見つけたファストフード店に入って適当に注文を済ませる。 窓際のカウンターしか空いてなかったけど、別に構わないので隣に並んで座った。 富士が何かのハンバーガーをあぐ、と噛みつくみたいに食べ始めたのを横目で眺めながら、いつ渡そうかなとソワソワする。
今日、っていうか本当は三日過ぎちゃったけど富士は誕生日だった。 中学生になった今、当日に渡すのは何だか恥ずかしくて。 どうせ渡すなら恥ずかしいも何もないんだけど、なぜか照れが勝ってしまう。 食べるペースがちょっと落ち着いて来た頃、がさごそと鞄を漁って渡した。
「はい、これ」
「ん? ぉわ、良いの!?」
「うん、誕生日。 おめでとう」
「やった、ありがと! 開けていい?」
「どーぞ」
自分で用意したのに中身が何だか気になって一緒に覗いて見てしまうの、何なんだろうな。
「手袋だ」
「うん、去年のボロボロだったでしょ」
「そうなの、助かる!」
「良かった。 寒くなったら使ってよ」
はあー、渡せて良かった。 富士の反応も悪くないし本当に良かった。 何でもないフリをしてストローを咥えながら目の前のガラスに視線を向ける。 両手で手袋を握って柔らかく笑みを溢す富士がガラスに反射している。 直接見たらしてくれなそうな自然体で喜ぶ姿に「今年も渡せて良かった」って、心からそう思えた。
「今の時期に手袋よく売ってたね、スギちん」
「うん? まぁね」
けっこう探したなんて、お前は知らなくていいんだよ。
雪虫が舞い始め、北海道の冬が準備運動をしていた。 今年の冬は誰も予想できないひどく厳しいものになった。
廃校。 監督の引き抜き。 先輩の転校。 主力選手の移籍。 宮森中でアイスホッケーやるんだってずっと決めてたのに。 宮森中に行けば強くなれるって信じてたのに。 こんなの、あんまりだ。
富士と部室の前まで来たけど鍵は開いてなかった。 先輩たち、誰も来てないみたい。 富士が部室棟のコンクリートの壁に背中を預けたままズルズルと座り込んだので、俺も隣にしゃがんでみる。
「富士も北陵行くの?」
「僕は……僕は、スギちん達が残るなら残る」
「いいのかよ、こんなミソッカスしか残らないチームで。 実力あんのに勿体ないだろ」
「そんなのスギちんも一緒じゃん。 土肥たちとやるアイスホッケーが好きだったんだから、皆で行かないなら僕も行かない」
「……そっか」
ありがとう、と言うのも違う気がして言葉を探したけど一つも見つからなかった。 張り詰めた空気が静かで重くて、身動きが取れない感覚。 無意識に握られていた自分の拳を睨んで、口に出来ない本音と向き合った。
富士は本当は北島監督についていきたいんじゃないか。 俺が足枷になっていないか。 そうだとしても本人が「皆で」と言うなら、それを信じてやるのが親友なんじゃないか。
「スギちん?」
「ん? あぁ、なんだっけ」
「今日はもう帰ろう」
「うん、そうね」
富士は俺の返事を待たずに立ち上がり、歩き出す。 校庭脇に積もった落ち葉を靴で踏みながら、横に払いながら。 春に芽吹き、夏の盛りを経て散った綺麗な落ち葉が踏まれてガサガサと鳴り、砕けて次世代の栄養になっていく。 もちろん俺が付いてくると信じて疑わず進む富士の背中がなんだか逞しくて、遠くて、切なくて。 思わず変な言葉を口走ってしまった。
「行かないで、富士」
「? 一緒に帰ろうよ、ほら早く」
西陽が眩しくて目を開けられない。 オレンジの逆光で黒に沈んだ富士の表情は分からなかった。 笑っていたようにも見えたし、呆れかえった困り顔だったような気もする。 ただ、俺が追い付くまで待っていてくれた事は確かで、当たり前のように合う歩幅を大事に思いながら毎日の通学路を黙って一緒に歩いた。
押しボタン式の歩行者信号に差し掛かった時、手を伸ばした富士が小さく口を開く。
「明日は部活あるかな」
「あるかな、っていうか部員が何人残ってんのかだべ」
「まあ、ね。 広く使えていいじゃん」
「富士はポジティブだよな」
「二年の主力抜けるんだから三年が卒業したらすぐ僕らの代になるんだよ? 頑張んないと」
「まぁ、そうなるか」
もう前を向いてるのかコイツ。 ポジティブというか呆気ないというか。 即決なんだよな、昔から。
「スギちん」
「ん?」
「勝とうね、北陵に」
「……もちろん」
俺たちだけのために信号が青に変わる。 せーの、で二つの右足が横断歩道を踏んだ。 「勝とうね」の言葉が嬉しくて、本当に頼もしい。 溢れちまう笑みを見せたら大袈裟だと笑われそうだから、だからうつ向いて何でもないように応えた。
あと一週間で今年が終わる。 意外とあっという間だった。 部員が減った分、一人一人がたくさん練習できるから疲れる。 疲れるけど、毎日充実感がある。 残った俺たちを三年生はいっぱい可愛がってくれて、技術的な事やリンクの小ネタみたいなのをたくさん教えてくれた。 この三年生の引退試合だけは足が千切れても全力を尽くしたい、って思えた。 それくらい俺は、この宮森中が好きになっていた。
「富士、これあげる」
「えっ? なになに?」
「クリスマス」
「嘘!? 僕なんも用意してないよ」
「そうだと思った。 今度何か奢って」
「じゃあさ、初詣とか行こうよ!」
「あぁ、初詣いいね」
包みを開きながら初詣の約束を取り付けた。 俺が開けるのも変かなと思うけど、もう俺らの仲だし良いだろ。 どうせすぐ開けるんだろうから、富士は。
「はい、大きめで買ったからサイズ平気だね」
「おー! Tシャツ! リーボックだ!」
「半袖のTシャツならいくつあっても困らないだろ、練習着にして」
「最近リーボックも気になってたの知ってたの?」
「カタログ広げて見てたろ」
「うん。 ありがと、いっぱい着る。 けど練習着にしちゃうの勿体ないかも」
クリスマスに何か渡すなんて初めてだったけど喜んでくれて良かった。 これくらいなら変に気を使わせないで済むだろうし。
「ねぇ、富士?」
「ん? なに?」
「や、なんでもない。 初詣楽しみだな」
「出店あるかな」
「あるんじゃん? 多分」
「……なんで急にプレゼントくれたの?」
「んー? 似合うと思って」
「ふーん、ありがとね」
本当の理由、言いたくない。 口にしたらおまじないが解けちまう気がする。 こういうのは秘密にしてるから効くんだ、きっと。
三年生が引退し、俺たちは寂しさや虚しさを充分に飲み下せないまま卒業する先輩たちを送り出した。 引退がかかった最後の公式戦、俺たちは呆気なく初戦で負け優勝は北陵が攫った。 悔しかった。 北陵に負けることもできずトーナメント敗退になるなんて。
一個上の先輩はアイスホッケーそのものに冷めてしまったり、受験勉強にシフトしたり。 理由は各々だけど、先輩が一人もいなくなってしまった。 部員は俺たちだけ、二年生六人。 ギリギリひとセット組めるだけ。 交代できない事を考えるとギリギリアウトだ。
その六人で部室を片付けていた。 主を失った防具が多すぎて、ため息を抑えられない。
「来年がんばろ、スギちん」
「来年なんかねぇよ。 廃校になんだぞ、うちの学校」
「そんなの知ってるよ。 四月になったら新入生入るかもじゃん」
「……入んのかな」
「ジュニアチームの子たち来るかもよ? 小杉先輩って呼ばれるんだね」
「はは、お前が富士先輩って呼ばれてんの見たら笑えるかも」
笑いたかった。 望んだ理想と現実の差はいつだって残酷だ。 そりゃそうだ、どのみち中三で転校すんなら初めから北陵に入学するに決まっている。 四月を過ぎてゴールデンウィークを越しても新入部員なんて一人もいなかった。
ずっと俺たちしかいない。 それは平穏で楽しい毎日と、たまに襲ってくる虚無との戦い。 俺たちはアイスホッケーが大好きで、チームが大好きで、友達が大好きで。 必死に助っ人を集めないと試合ができないような現状を分かってて選んだから、満足してると言い聞かせる日々からたまに目を逸らしたくなる。 けど、過去の選択を間違いだったかも知れないと頷くのはまだ早い。 そうだろ、富士。
いつの間にか季節は一巡し、富士は十四歳になった。 もうこいつと何年一緒にいんだろ、人生の半分以上を一緒にいる。 今年は当日に渡したかったんだ。 なんでかは、自分でも分かんないけど。
放課後。 生徒で溢れる賑やかな廊下を一人で進み、富士の教室を目指す。 部活までのほんの僅かな時間だけど、この時間が一番ザワザワして周りに気付かれにくいんだ。 富士の教室のドアはもともと開いていたから、一応顔だけ覗かせて呼びかけた。
「ふじー!」
「おー! スギちん、いま行く」
「あ、待って」
言いながら席にいた富士の方へ一歩近づく。 良かった、教室あんま人いない。 「ん?」という感じで口角だけ上げた富士が可笑しく見えた。 その後ろで等間隔に植えられたまだ緑の木々がザァザァと風に揺れる。 艶のある葉がいくつも光を弾いてチラチラ、キラキラ輝いていた。
「誕生日、おめでとう」
「え! 今日誕生日だ!?」
「そうだよ、忘れんなよ」
「スギちん律儀だね、よく覚えてる」
「うん、まあ、覚えていたい人だけね」
一応アイスホッケー部員は全員覚えてる。 プレゼント用意するのは富士だけだけど。
「じゃん!」
「おわ! 期待しちゃう!」
「や、普通にこれ。 ネックウォーマー」
「やったー! いいじゃん!」
「いいべ? 似合うと思って、黒」
「ありがとう! 大人っぽいし黒なら校則もオッケーだし」
「寒くなってきたら使いなよ」
「うん!」
教室でそのままタグのついたネックウォーマーを早速身に付けて喜んでる。
「どう?」
「似合う。 イイ感じ」
「スギちんも僕があげたヤツ使ってる?」
「使ってるよ、ほら」
富士が誕生日にくれたのは革のキーホルダーだったから、普通に家の鍵をつけて使わせてもらっている。 毎日使っても全然ボロボロにならない感じ、ちょっといいやつな気がしてる。
「お、しっかり使ってくれてる」
「けっこう気に入ってる。 富士も使ってるトコ見せてね」
「もちろん! けど、まだ暑かったわ」
言いながら首から抜いて、前髪が少し乱れたのを顔をブンブン振って直していた。 ヘルメット外した時とか昔からこの仕草よくしてるけど、犬みてぇ。 ふわっと広がって落ちる艶のある黒髪が太陽を吸い込んで輝いてる。 綺麗だった。
「そろそろ部活行こ、スギちん」
「……おう、行こっか」
富士がこの黒いネックウォーマーを身につけてるのを見るのは、これが最後だった。 おまじない、かけといたのになぁ。
晩夏に冬物、クリスマスに半袖。 そうやって少し先の、次の季節を予約していた。 次の季節も、その次の季節も富士の隣にいられますように。 富士が隣で笑っていますようにというおまじないは、もう、途切れてしまったみたいだ。
なんで、どうして俺たちは一生懸命アイスホッケーしたいだけなのに一緒にいられないんだろう。 「北陵に勝とう」と約束したのに、お前が北陵に行っちゃ勝てるわけないだろ。 お前が宮森で一番なんだから抜けるなよ、いなくならないでよ、置いていかないでよ。
なあ、富士? ずっと隣にいたいとか願ってたのは、俺だけだったの?
土肥たちと手を振って別れて、一人の帰り道を歩いていた。 吐く息が白くて、鼻から吸った冷気が気道を凍らせる。 ポケットに手を突っ込んで足早に家を目指している時、聞き慣れた声がして思わず肩が跳ねたまま立ち止まった。
「慶一!」
「借りたらすぐ帰るから! 富士ん家こっち?」
「こっちだけど、俺もまだ一回しか聞いてないんだぞ!?」
「録音したらすぐ返すって」
あぁ、富士がアノ源間弟とコンビ組んで仲良くしてるって噂……本当だったんだ。 最悪。 ここで爽やかに「よ!」って挨拶したいと思えなくて最悪の気分だ。 裏切り者は新天地で随分楽しそうにしてるもんだな。
源間弟が押しボタン式の歩行者信号のボタンに左手を伸ばした時。 あ、と思った。 小さい頃、あのボタンを「押したい! 押したかった!」とうるさく言うから、それからずっと富士が自然と押す流れになるように近付いたら少しペースを落として歩くのが癖になっていた。
けど、何も知らない源間弟が押しても別に富士は普通にしていた。 そうだよな。 富士だって成長すんだ、いつまでもボタンにこだわる子供のままじゃない。 変わるのが普通だ。 ずっとボタンを押させてあげてると傲っていたのは俺だけで、そんな俺に合わせて押し続けてくれていたのかな。 二人だけの道を「青」にしてくれてたのは、もしかして富士の優しさだったのかな。
二人と一緒に信号を渡る気になれなくて、じっと立ち尽くしたまま遠くで富士と源間弟の横顔を見送った。 「北陵」の刺繍が入った鞄を背負う新しい制服の富士は堂々としていた。 強豪の選手、って雰囲気。
俺の分からない話題で源間弟と大きな口で笑う顔は、俺の知らない富士だった。 自分を「俺」と呼んでる富士、初めて見た。 変わったな、お前。 でも、なんか、似合ってるよ。 悔しいな、宮森にいた頃より格好いいよ。 なんでそんなテンションで上へ上へ、次のステージへ、って目指せんの? 決断したら振り向かない性格、今となっては憎らしい。
わざと時間を置いてからボタンを押したのに、信号はなかなか青になってくれなかった。 目の前を車がスピードを出して右に左に過ぎていく。
車の隙間から見えていた北陵の鞄を背負う二つの影が小さくなって、そのまま角を曲がって見えなくなった。 見えなくなって、急に肺がピキ、と冷気に固まってビックリした。 そこでやっと自分が呼吸できずにいた事に気が付いて、自分の未練がましさに嗤笑が漏れた。 目蓋の裏が温かくぬかるんで、思い出の富士が頬に崩れてった。
高一の春。 春と言っても北海道の四月はまだまだ寒い。 俺と富士は同じ学校の制服を着ていた。 同じ制服、一年振りだな。
「富士? それ俺があげたやつ?」
「ん、うん、そうだよ」
「まだ着てくれてたんだ」
「ずっと着てる。 あー、でもよく見たらヨレてきたかもね」
高校の新生活や部活のハードさに慣れてきた頃、一年生みんなでジャージに着替える時。 ジャージの長袖の中に俺があげたリーボックのTシャツ着てるのが見えたから思わず話しかけてしまった。
「あると手に取っちゃうんだよね」
「へぇ……首まわりとかヨレてるじゃん。 良かったらまたやるよ、誕生日」
「えっ、やったー! じゃあさ、ワンサイズ大きいの頂戴。 最近筋肉ついてきたから」
「はいはい。 その前に俺の誕生日あんだけど」
「お、小杉の誕生日いつなんだ?」
「誕生日? 誰か誕生日なの?」
「十六歳おめでとう!」
「まだだっつの」
誕生日、という単語だけが独り歩きして一年生の空気がわいわいと賑やかになる。 こいつらといると本当面白いわ。
「ね、スギちん」
「ん~?」
「誕生日近くなったらさ、一緒に買いに行こっか。 最近のスギちんのこと知りたいから」
「あ、え、二人で?」
「なに? 二人だって良いでしょ、昔はよく二人で出掛けたじゃん」
「そうだな。 ……そうだったわ」
なんか、不思議と胸がじんわりしちゃってうまく返せなかった。 また富士と友達になれるんだ。 二人で出掛けるとか、アリなんだ。 「裏切り者」って言っちゃった事、流してくれたのかな。 まあ、俺も富士が転校したこと、もう責めるつもりないしな。
「一年~? 準備できた奴から出ろ~」
「はーい!」
二年の先輩から声がかかった、早くしないと。 脱いだ学ランとシャツを雑に鞄へしまって、靴ひもを結び直した。 陸トレ中にほどけたら冗談抜きで大変なことになるから。
「やべ、急げ」
「富士、行くぞ」
「あ、待って慶一」
屈んで靴ひもを結び直している俺の頭上で源間と富士の和やかな声が響く。 今は二人ともチームメイトなんだな。 北陵と宮森の因縁は、もうない。 このコンビも自分のチームなら頼もしい限りだ。
「スギちん、出掛けるの約束だよ? 忘れないでね」
「俺が富士との約束忘れたことないだろ」
「そうだっけ? そうかも!」
「集合、俺も一緒に行く」
「おう、小杉も一緒に行こうぜ」
「ヤバイヤバイ、三年生も集まってきてる」
富士はあっけらかんと笑って源間と行こうとしたけど、「俺も」と言ったら眩しそうに目を細めて待っててくれたし、源間も「一緒に行こうぜ」と言ってくれた。
外に出たら、爽やかと言うにはまだ早いような冷たい風に吹かれて、思わず背中が縮こまる。 けど、部活が始まると汗だくになるからホント怖いよな、うちの陸トレ。
春風はまだ厳しいけど、追い風だった。 「さみ~」と呟いて見上げた先の枝に、芽吹いたばかりの柔らかい新芽がいくつも見えた。 黄緑色は主張するように身を寄せあって太陽を浴び、柔らかく光って見えた。 この新芽も季節を巡って成長していくんだろうな。
おまじないなんかなくても、きっとこれからは、少なくとも三年間は。 目まぐるしく巡る季節全部、富士と一緒に楽しく過ごせると良いな。