進路のはなし夕方の雨がそっと、路地裏を濡らした。
「なあ、傑は高専出たらどこいくの」
言葉に詰まった。そんなこと、考えたことがなかった。
自分に任された“人助け”の命は気に入っていたし、向いていると思っていた。
“ただ、それだけ。”
「まあ俺はこのまま家継ぐしかないし、ショーコはたぶん医者だろ?術師は続けるだろうけど」
「・・・え・・」
自分がどこにいくのか?そんなこと、考えたこともなかった。なんとなく、このままフリーでそっと術師を続けていくのかな、くらい。
すぐるくんおっきくなったのねえ 夏油は何やらせても呑み込みがいい あなたならできるわ、なんて賢い子 すぐる、周りの子をみてあげて お手伝いしてくれるの?ありがとう、えらいわね 傑君はクラスの中でもいつもお友達を手伝ってくれるから助かります あいつがいるなら勝てんじゃん、やりぃ えええあいついないなら無理じゃね ありがとう(頬を染めてうつむく女の子) えーわたしも夏油君の班がいいー 俺らと組もうぜ いや夏油はぜひ俺らの班だろ さすが傑 夏油くんすごぉい なんでお前だけ テメェのその顔がムカつくんだよ ねえ、今気になる子はいるの 部活、決めた? 背、伸びたな傑 ねえすぐぴって誰かとつきあってたりするぅ?(茹だるような香水の香り、絡まる指先、長い、ひかる爪) えええじゃあわたしとでもいいよねえ おにいちゃん、ありがとう これ、よかったら使ってくれよ お前なら、いいや、やっぱやめとく 夏油君、ねえ あーあ、俺がお前くらいなんでもできたらなあ
かけられる期待。裏切らないように浮かべる愛想笑い。見えるものにも見えないものにも蓋をして、目と口を閉じる。幼い頃からあれらがなんとなくそういうものであることは理解していた。「おかあさん、あれなあに」いつも優しい父母の顔が変わるのを見て、そうすれば皆が“なかよく”いられることを知った。できる者とできぬ者、持つ者と持たざる者。みんななかよく、なんて言葉ではいっても、自分はいつもその外側にしかいない。
今自分の中にあるものを論うなら、自分という男は他者と比較し“できる者”であり“持つ者”、誰かを“救うことのできる”者、そして“できるのだから救えと言われる者”だった。
一瞬のことではあったが固まった自分に違和感を覚えたのだろう、
「傑?」
不思議そうな目をした悟の顔が、すぐ斜め下にあった。
「んー・・あまり考えたことがなかったな」
「ンだよそれ・・まーいいけど」
あ!呼ばれたからいってくるわ、じゃー
な、の音が聞こえたかどうかの時にはもう悟は目の前にはおらず、「五条術師ぃいぃ」という悲壮感溢れる補助監督の悲鳴が、そしてドタバタと教室を出ていく音が遠ざかり、辺りはそっと静かさを取り戻した。遠くで始業の鐘が鳴る。雨はまだしとしとと降り続いていた。
6限目を終えそのまま夕食を済ませ寮に戻る。悟の任務地は遠かったのか、まだ帰宅はしていないようだった。
日課の筋トレを済ませシャワーを終えてしまうともう特にやることがない。明日の任務は昼からの筈だ。座学のノートを開く気にはなれなくて、長シャツのスエットに着替え、そっと布団に潜り込む。
漫然と、このまま時が過ぎるのだと思っていた。野良、と揶揄われするがその実それなりの実力は身に着けてきたつもりだったし、入学おめでとう、と配布された時より学生証の表す等級とやらの数字がどんどん若いものに塗り替えられていく様を見ても、少なくともそれは他者評価として間違ってはいないようだった。恵まれた体格。頭だってまあそれなり、顔だって何かに不自由した覚えはない。同級生が三人しかいないと聞いたときは内心ビビったが、クラス担任には渋い顔をされるかもしれないがまあ問題なく―やれている(と思っている)。ここではみんなが“見える”し“聞こえる”。隠さなくていい、“なかよく”しなくていい、自分が“自分のこと”をしていていい空間。そのことがいつからか自分の気をここまで緩めていたことに、気づいてしまった。
「平和ボケしてる、か・・」
自分も結局悟の言っていた通りなのかもしれない。布団のなか丸まって寝返りを打つ。何も考えたくなくて、枕元からイヤホンを取り電源を入れる。文理の選択は先週終えたところだった。硝子と悟は理系、文系は自分だけ。
どれだけ些細であっても、小さな決断を積み重ねて今がある。事の重みは自分が一番よく知っている。嫌なら自分で暴れるしかない。先送りも蓋をすることもできる。でもそれは、“今選ばない”、という選択肢を“選んでいる”だけ。早いも遅いもないのはわかっている。自分が決める進路。その上を歩くのは自分。「好きなようにしていいのよ」好きってなんだっけ。「お前たちの進む道だ、できる限りの応援はする」応援って?
自分のやりたいこと、やりたかったこと。沢山あるはずなのに、どれも違うような気しかしない。自分が決めていいことなんて、あるようでなかった気がする。うまくやる、ことには慣れている。見えないようにしているだけ。見ないようにしているだけ。“みんな、なかよく”の鉄則は、“できる”側が一歩引くこと。目立っちゃだめ、押し付けてもだめ。でもこれって本当に私がしたいことだったっけ。“みんな、なかよく”の役に立たなさ具合には心底呆れる。だってその“みんな”に、私は含まれてない。”いいこ”でいないことはこんなにも心地よいのに一人だけ取り残されて行く気がして、どうしようもなく心が急いて、そっとMDの音量を上げた。
(そっかみんな、バラバラになるのか)
ふっとそんな言葉が脳を過った。