薄い壁越し、軽やかな鼻歌が聞こえる午後六時三十八分。ご機嫌な隣人は、たぶん、納期明けだ。龍宮寺は手を洗いながら、彼の奏でる学生の頃に流行ったラブソングを聞いて、そのときを待ち焦がれていた。
ピンポーン。音階のいびつなチャイム。がっついていると思われたくないのに、龍宮寺の足は無意識に小走りで玄関に向かう。鼻腔をくすぐるは、カレーの匂い。ドアを開けたら寸胴鍋を持った三ツ谷がいた。
「カレー。作りすぎちゃったけど、いる?」
「いるに決まってんじゃん」
いつもと同じ答え。龍宮寺は三ツ谷がこうして、作りすぎちゃったなどと嘘までついて訪ねてくる理由をわかっている。きちんと、違えることなく。
「良かった。助かるワ」
龍宮寺はドアを広く開けて、三ツ谷を招き入れる。迷いなくキッチンへ向かう足取りは、隣人ゆえ間取りが同じだからという理由だけじゃない。勝手知ったる他人の家。もしかしたら家主よりもキッチンの内情に詳しくなるほどに、三ツ谷は龍宮寺の家を訪れていた。
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