The way you look tonight カランカラン、と氷の音が月明りと小さな照明で照らされた店内に響く。その音の後ろで聞こえるのは軽快なピアノの旋律。本日の演奏は、ジャズピアニスト高峯翠によるソロピアノだ。
グランドピアノが店内の面積の約5分の1を占めるこのバーでは、様々なアマチュアジャズミュージシャンが毎夜演奏を行っている。アマチュアといっても、国内の各所でギャラを貰いながら演奏をしているプロ同然の者から、月に数回行われるセッションの中でマスターがスカウトをして初めて人前で演奏をするような人など様々だ。この店で演奏経験を重ねて、そのまま引く手数多のプレイヤーになった人は一人や二人ではない。マスターの審美眼にはいつも驚かされる。
そんなマスターがなぜ自分をこの店の店員ーもといバーテンダ―として誘ってくれたのか、そして突然「全国各地の水族館に行く用事が出来たから~ぷかぷか」と言って数日店を開けた行動の真意は未だに分からないところである。
今日演奏を行っている高峯翠は、そのマスターが逸材だと言って最近見つけ出してきた駆け出しのピアニストだ。将来はピアニストとして生計を立てたい、という彼の思いをマスターが汲み取り、場数を踏ませるために平日の人が集まりづらい日を中心に彼の演奏をブッキングしていた。
この仕事を始めてまだ1年ほどしかたってなくて、お酒のことも(まず、あまり得意ではないのだ)ジャズや音楽のこともまだ何も分からない状態だが、高峯の奏でる音は確かに心地良くて良いんだな、ということくらいは分かった。トリオやデュオでの演奏の日もあるが、今日のようなソロの日は特に彼のピアノの良さがわかる。小気味よく左手をストライドさせる、いわゆるラグタイムと呼ばれる演奏から、一つのフレーズを繰り返して潮の満ち引きのように音楽が展開していくコンテンポラリーな演奏まで何をやらせても上手で、聴いていくうちに彼の世界へと引き込まれてしまう。自分もいつしか高峯のソロピアノのファンになり、弾く日を待ち遠しく感じていた。アドリブでは様々なフレーズが飛び出して、まるで旋律が喋るように、歌うように聞こえる。音楽だけを聴くとかなりお喋りで愉快なピアニストなんだろうなと思う。音楽だけを聴けば。
「ねえ」
「わあ!もう終わったのか!」
「なにぼーっとしてるんですか、はあ、聴いてなかったんだ…鬱だ、まああんたに聴かれてもしょうがないんですけど」
いつのまにか前半のセットが終わって休憩に入り、カウンターには高峯が座っていた。慌ててレコードに針を落としてBGMをかける。流れたのはビル・エヴァンストリオのDolphin dance。
そう、この言葉が示すように全然そんなことないのである。むしろぶっきらぼうで、マスターには恩義があるためか普通に接しているのに、自分に対しては特に風当たりが強いような気がする。
「すまん、少し考え事をしていたんだ。セットお疲れ様。コーヒーでよかったよな」
「ええ、お願いします」
「ああ。…」
「…」
何を話せばいいのか分からない。いつもは休憩中はマスターとセットの感想を言い合っているが、生憎自分には個人として感想のみがでてきて、ピアニストとしての建設的な意見はだせそうにもない。沈黙から逃げるようにコーヒーグラインダーから一杯分の豆を挽いてそのままエスプレッソマシーンにセットして抽出する。店内に流れるビル・エヴァンスのピアノ、豆の挽く音と抽出の音が自分たちの代わりに会話をしてくれているようだった。
「どうぞ、熱いから気を付けて」
「っす」
「えーと、次のセットで終わりだったよな」
「はい」
「……あっ、すみません、今行きます!」
他の客の対応をするためにその場を離れる。そのままなんやかんやとしているうちに休憩が終わり、レコードの針を外すと人々の会話が止んで店内に満ちる静寂。高峯の息の吸う音と同時に、ガツンと重厚な和音が響いた。
*
「今日も演奏を聴きにこの店に集まっていただき、ありがとうございました。では、最後の曲に行きたいと思います。本日は最後に『The way you look tonight』をお送りしたいとおもいます。ジャズのスタンダードナンバーで、様々なプレイヤーによって演奏される機会の多い曲ですが、おれ…いえ、僕も好きな曲の一つです。特にトニー・ベネットとビル・チャーラップのデュオは是非聞いてもらいたいテイクになりますね…あっ、少ししゃべりすぎましたね。では、聴いてください」
客席からちょっとした笑い声が響く中、HiCの単音が響く。緩急をつけながら、曲のテーマが演奏され、紡がれた音が次第にテンポを持ち、一つの音楽になっていく。最初の歌うようなパートから、情熱的なメロディが繰り広げられるパートへと変わっていき、元のメロディへと戻っていくという構成だ。アドリブだけでなく、テーマとなるメロディの弾き方にすら物語性を感じられる彼の演奏には舌を巻く。アドリブでは淡々としたフレーズが重なっていき、凡そ一人で奏でているとは思えない曲の厚みを持ってピークを迎え、客席からは歓声が飛ぶ。曲も終盤に差し掛かり、聞き入っている場合ではないことを思い出して急いで客の会計伝票をつくる。
ジャン!と和音が響いて、弾かれるようにピアノから手を放した。大粒の汗を額に浮かべ、ぜえぜえと息を吐きながら椅子から立って一礼をすると、客席からは絶賛の歓声と拍手が響いた。
*
客が全員帰ったことを確認してから客席側の照明を消し、店の看板をクローズに切り替える。店内にはカウンターに座る高峯と自分だけになった。
先程の続かない会話を考えるに、元気な曲を流したほうがいいだろう。店長に名盤だから聴くべし、と半ば無理やりスマートフォンに追加されたアルバム群をスワイプでざっとみる。一番最初に目に入ったのはマイルス・デイヴィスカルテットのRelaxin’。検討をつけたら店のレコード棚の方へ移動し、本のように詰められたレコードの半分を出しては入れる作業を繰り返す。黒と黄緑の背景に幾何学模様の人間が横たわるジャケットを見つけると、すっかり慣れてしまった手つきで台にセットして針を落とす。
マイルスが一言何かを喋り、指パッチンで弾むように裏を刻むと、誰もが聞いたことのあるチャイムがなった。一曲目は『If I were a bell』。好きな人を前にして、もし私がベルだったらリンリンと鳴り響いてしまう、というなんとも可愛らしい歌詞がついた曲だ。ジャズってもっとこう、ビールとかウイスキーのCMで流れるようなムードのある音楽のことばかりだと思っていたが、こんなにチャーミングな曲もあるんだなあ、と思ったことを思い出した。ミュートしたトランペットのシャープな音が店内に軽快に響く。カウンターの中に入ると、高峯は自分の前髪を人差し指でくるくると弄っていた。
「…とりあえず、ビールいただいていいですか」
「ああ。…驚いた、飲むんだな」
「まあ人並みには」
冷蔵庫から店長こだわりのピルスナーグラスを取り出し、サーバーからゆっくりとビールを注ぐ。照明が黄金色の液体をきらきらと照らしていた。ことん、と高峯の前にグラスを置くと、小さく礼をしてそのままぐい、とビールをあおる。それを横目にカウンターからでて客席の空になったグラスをトレンチにまとめて乗せる。
曲はトランペット、テナーサックス、ピアノへとソロが変わっていく。ピアノの軽快なフィルインが始まると、カウンターの方から小さい歌声が聞こえてきた。高峯も例にももれず、この名盤を愛しているらしい。
客席を手早く片付け、作業台を閉めようとバーカウンターの内側に入ると、高峯のグラスは既に空になっていて、酔いのせいか高峯の首と耳が少し赤みがかっていた。
「もう一杯のむか?」
「はい、おねがいします」
「ああ……はい、どうぞ」
なみなみに注がれたグラスを再び差し出すと、先程と同様にそのまま飲み始めた。美味しそうに飲むなあと思いながら眺めていると、ぷは、と息を吐いて、こちらをみながら口を開く。
「きょうの演奏はどうでしたか」
「え?俺の感想でいいのか?」
「あなた以外いませんよ」
急な問いかけに狼狽する。先程の心の閉ざし具合とはうって変わって、こちらに構ってほしそうなまなざしで見つめてきた。意外と喋れるやつなのかもしれない。
「今日か、うーん、そうだな、最初の曲は俺でも聞いたことあったなあ、名前、なんだっけ」
「最初のきょく…ああ、Tea for twoね。まあCMとかでかなりききますしね」
「あと最後の曲もよかった。なんていうか、今日みたいな夜の日に、海で月を見ながら聴きたい曲だな」
「っぷは、あんた、顔ににあわずそんなロマンチックなこと言えるんすね」
「なにを!そういう高峯…くんだって、そんな顔で笑うんだな」
「みどり、でいいですよ、千秋さん」
そういいながらふにゃりと笑顔を向けてきて面を喰らう。もともと整った顔だな、とは思っていたが、あまりの笑顔の破壊力にこりゃあモテるんだろうなと勝手に推測した。そんなことを考えていると、昔ながらの黒電話の音が店内に響く。店の電話だ。
「もしもし?」
「もしもし~ちあき~」
「あ、マスター、どうしたんですか、こんな夜中に」
「きょう、みどりのひでしょう?いいわすれていたことがあって」
「?ええ」
「あのですね、みどりにおさけをのませないでくださいね。あのこ、”さけぐせ”がわるいですから」
「え!」
「もしかして、ておくれですか」
「はい…その、どうすればいいですか」
「とりあえず、もうのませないで、みせでやすむか、よければいえまでおくってあげてください。かれ、いえがちかいはずなので…すみません~ぼくがさきにいっていれば…」
「いえ、全然かまいませんよ、じゃあ失礼します」
「おやすみなさい~」
電話を切り、カウンターの方に目を遣ると、高峯が突っ伏していた。ビールグラスも倒れ、少量の液体が机に膜を張る。まさか急性アルコール中毒になってないよなと、慌てて高峯のもとへ駆け寄る。
「おい!たかみ…翠!大丈夫か!」
「んん…ふふ、なまえ、よんでくれた…」
こちらの焦りをよそに、高峯はのんびりとした口調だ。そして突っ伏していた身体が急にのっそりと起き上がり、そのまま自分に抱きついてきた。全体重をこちらに乗せてきたため、受け止めきれずに後ろに倒れてしまう。床にあたる衝撃を想起して目をぎゅっと瞑るが、幸いにも、バスドラムの中に入れる毛布が衝撃を吸収してくれた。目をゆっくりとあけ、胸元を見ると視界いっぱいに翠の顔が広がる。上気した頬、伏せがちな目元に細く長い睫毛。あまりの色気に思わず生唾をごくりと飲む。そう考えているうちに、自分が今抱きつかれながら押し倒されていることに気づいて、慌てて声をだした。
「お、おい!しっかりしろ!」
「むにゃ…ふふ…」
「ああもう…なんでこんなことに…」
「…ねえ、ちあきさん、ほんとうにありがとう」
「?なんのことだ?」
「おれがはじめてここでひいたときのこと。すごい失敗した日…」
翠の初めての演奏の日。あの日はカルテットでの演奏で、初めてのライブだったから他のメンバーは場数を踏んだ安定している(らしい)メンバーだった。たしかあの日は…そうだ、翠が緊張のあまりにイップスにかかり、ピアノを弾く手が止まってセットの終わりと同時に軽い過呼吸に陥ってしまったのだった。確かにあの時翠の対応をして、何か声をかけた気がするが、全く思い出せない。
「おれ…もちろん、夢もあるし、マスターの後押しも支えになってるけど…あのときにちあきさんが元気づけてくれたから…いままでがんばれてます」
「そうか…それは嬉しいな」
「さいごの曲、ちあきさんに向けて弾きましたから。…」
「え?」
返答を聞く前に、整った寝息が聞こえてくる。翠の身体を推してもびくともしなかったため、観念してもぞもぞと尻ポケットにあるスマホをとりだして、曲名と歌詞を調べだす。
気持ちよさそうに眠る翠とその腕の中で顔を真っ赤にしながらスマホを見つめ続ける千秋を、心配になって店に戻ってきたマスターが見つけるまで、あと数分。