悪魔パロ①「え……?」
まだ見習い牧師のオレの前に突如として現れたのは、血のような赤い髪と闇より黒い角をもった、眼帯の悪魔だった。
「こんばんは」
にっこりと向けられた笑みは一点の曇りもなく、背中に見えるのが純白の翼だったなら天使様と崇めるくらい善良に見えた。
しかし現実に彼の背中にあるのはコウモリのような黒い羽。先端が尖った細長い尻尾。ふよふよと宙に浮かんで面白そうにこちらを見つめている。金縛りの術を掛けられたかのように、少しも動けなかった。
――かなり高位の悪魔だ。
まだ実戦で悪魔を祓ったことのない自分でも、肌で、空気で、ひしひしと感じた。明らかに格が違う。自分のレベルを1とするなら、この悪魔は99――カンストレベルだ。
「最近オレのことを熱心に調べ回ってる奴がいるって聞いたから、邪魔される前にどんな奴か確認しておこうと思ったんだ。そしたら……こんなにかわいい子だったとはね」
調べ回ってる――ということは、まさか。
「ま、まさか……お前が悪魔スオウ……?」
「うん、みんなはそう呼んでるね」
悪魔スオウ。最近この街で多発している、急な失神・長期にわたる昏睡の症状は、スオウという悪魔が原因だとされている。被害者は決まって夜中に身体を操られたとみられ、多くは寝室にいたはずなのに外で倒れているところを発見されている。外傷は見られず脈拍も正常だが、1ヶ月から2ヶ月ほど昏睡し続け、目が覚めても、数週間は魂を抜かれたように茫然自失状態になってしまうのだ。
オレの友達も、被害に遭った。なにより(まだ見習いだけど)牧師として、こんな被害は見過ごせない。自分で直接祓うことは出来なくても、情報だけでもかき集めて分析しようと思っていた。
けれど茫然自失状態を抜けた人に話を聞いても、みんなその時の記憶がないのだ。悪魔の姿を見た人もいないし、気がついたら眠っていて数ヶ月経っていた、程度の認識しかない。被害者には案外危機意識がなかった。悲壮なのはむしろ被害者の家族の方だった。突然意識を失った愛する人が、数ヶ月目覚めなければ憔悴するのは当然だろう。
誰も見たことがないのにスオウという悪魔が原因だとされているのは、遠い異国で過去に同じような事例があったからだ。
「こ、この、悪魔め……!」
「悪魔に悪魔って、そりゃそうでしょ。それよりそんな反抗的な態度取って大丈夫? オレ、蝋燭に火をつけるより簡単に君のこと殺せるけど」
見せつけるように立てられた指には、鉄よりも硬そうな鋭い爪が伸びている。あの指を少し動かしただけで、いとも簡単にこの喉を掻き切れるんだろう。
オレは牧師だ。悪魔を祓うんだ。怯えてる場合じゃない。たとえどうにもならない実力差が天と地ほどあっても、尻尾巻いて逃げ出したりしちゃダメだ。
それでも精一杯の勇気を振り絞って出来たのは、胸に下げた十字架を握り締めることだけだった。心だけでも、負けたくない。
震えは止まらなかったけど、必死に目を開いて悪魔を睨み上げた。
にっこりと余裕たっぷりの笑みを崩さない悪魔は、ふふ、と小さく笑う。すると鋭かった爪が人間と変わらない質感に丸くなった。
「ごめんごめん、無駄に怖がらせる趣味はないよ。君には、交渉をしようと思って」
高圧的に上からだった目線が、ゆっくりと下がってきた。悪魔は座った姿勢で浮いたまま、オレと同じ目線になるまで高度を下げた。顔が近付いたことに怯えてつい後退りすると、後退りした分だけまた距離を詰められる。それを繰り返すうちに背中が壁に当たって、視界が悪魔の顔でいっぱいになってしまうほどの距離になる。立っていられずズルズルとしゃがみこむと、悪魔はとうとう浮かぶのをやめてオレを囲い込むように壁に手をついた。
「君が生贄になってよ」
圧倒的な力の差を見せつけられて、こんなふうに追い込まれた状態で、いったいどのあたりが交渉と呼べるんだろう。オレに拒否権なんて、どこにもないじゃないか。
悪魔曰く、「君が生贄になってくれたら、もう他の人に手は出さないよ」。
そう言われてしまったら、その要求を飲み込む以外に選択肢はない。自分で悪魔を祓うこともできず、ただ紙のように引き裂かれて無駄に死ぬくらいなら、悪魔の生贄になった方が少しはこの街に貢献することができる。
父さん母さん、ごめんなさい。オレは聖職者失格です。悪魔に魂を売ったようなものです。けれどこの身がどうなろうとも、精神だけは高潔なままで逝きたい。
十字を切って悪魔に向き直ると、彼は優雅に浮遊しながらお茶を飲んでいた。
「心は決まった?」
「……はい」
拳を握りしめて、決死の覚悟でそう答えたオレに、悪魔が最初に命じたことは――
「じゃあ早速、ハニー&バターのアプリコットスコーンと、ベアーズのクロテッドクリームと、ブルーカンパニーのロイヤル・ブレンド買ってきて」
「……は?」
「あ、まだ夜だからお店開いてないか。しょうがない、じゃあ開店と同時に買ってきてね」
言われたことの意味がわからず茫然としていると、「ちょっと君大丈夫?」と悪魔が目の前で手を振っている。
「……は? え?」
「オレ、同じこと二度言うの嫌いなんだけど、一回で覚えられなかった?」
「ハニー&バターのアプリコットスコーン、ベアーズのクロテッドクリーム、ブルーカンパニーのロイヤル・ブレンド」
「そうそう、ちゃんと覚えてるじゃないか。記憶力は悪くないみたいだね」
一瞬不穏な気配を感じて言われたことを復唱すると、悪魔はすぐに威圧感を消した。そういえばいつの間にか、最初に現れた時の強い悪魔の気配が消えている。一見すると、ただの浮いている人間だ。いや、普通の人間は浮かないんだけど。
その雰囲気に絆されて、つい普通に口を開いてしまった。
「……お、お茶菓子……?」
「うん、オレは人間界のお茶菓子が好きでね。最近はこの国のお茶菓子にハマってるんだ。気になってるお店のお茶菓子を制覇するまでは、ここにいるのを邪魔されたくないんだよ」
あまりに想像の斜め上をいく発言に、必死に脳みそをフル回転させて意識を保つのがやっとだった。悪魔がお茶菓子を好むなんて聞いたことがない。
「悪魔に寿命はないからね。何千年も生きてると、もうやりたいことなんて特にないんだ。ここ百年くらいの趣味が各国のお茶菓子めぐり。悪魔の身でお店には入れないから、適当な人間を操って買わせてたってわけ」
「そ、それがここ最近の被害の原因!?」
「オレの魔力は普通の人間には強すぎるみたいでね、ちょっと操るとしばらく昏睡しちゃうんだ。でも、本当にしばらく昏睡するだけだよ。大した後遺症も残らない。自分で言うのもなんだけど、悪魔の中じゃ随分と優しい方だよ」
「そ、それでも! たくさんの人が苦しんだんです! 家族や恋人がいつ目覚めるのかわからない、そんな不安な状態でどれだけの人が涙を流したことか…! 娯楽でやっていいことじゃない!」
勢いで言い切ってからハッとする。悪魔の威圧を消されて、気さくな雰囲気に気がゆるんでしまった。一瞬でオレを殺すことのできる悪魔に、なんてことを言ってしまったんだ。サッと血の気が引く。
悪魔は、変わらずに目を細めて笑っていた。一見怒ってはいなさそうな笑顔が怖い。
「だから君に交渉したんでしょ。いろいろ調べ回られるのも鬱陶しいし、ヘタに強力な悪魔祓いを呼ばれてもめんどくさい。事情を理解した君がオレの欲しいものを持って来てくれれば、オレは他の人間を操る必要もないし、そうなれば被害ももう出ない。かなりいい取引だと思うけど?」
何も言えなかった。たしかに、悪魔の言う通りだ。けれど、悪魔の言うことを信じていいものか。悪魔は悪魔だ。平気で嘘をつくし、約束だって簡単に裏切るのが悪魔だ。オレが生贄になれば本当に他の人に手を出さないか、保証はない。
オレの不信感を感じ取ったのか、悪魔はまた威圧感を強くした。
「信じないのは勝手だけど、変なことは考えない方がいいよ。誰かに口外したり、助けを求めたりしたら――この街を滅ぼすのに、1分もかからないから」
最低最悪の悪魔が、天使みたいな顔で笑う。
この時のオレは夢にも思わなかった。この恐ろしい悪魔の笑顔に絆されて、いつしか離れたくないと思うようになってしまうなんて。
***
オレが悪魔スオウの生贄になってから3ヶ月ほどが経った。あんなに街を騒がせていた被害は本当にパッタリとなくなり、平穏な毎日が続いている。
「にれ君、明日はキャロットケーキがいいなあ」
「了解です! そしたら昨日余ったクリームチーズも合いそうですよね。お茶はアッサムにしましょうか」
「うん。にれ君、随分オレの好みがわかってきたね」
「毎日用意してたらわかってきますよ。メモって研究してますし!」
「ふふ、ありがとう」
スオウさんは、きちんとオレとの約束を守り続けている。生贄になれなんて言われたときにはどうなることかと思ったけど、実際のスオウさんは本当にお茶菓子を用意しろ以上の命令を下すことはなかった。
最初は言われるままに指定されたお店のお菓子をせっせと買って来ていたけど、一度お店の指定がなくごく一般的な家庭料理をリクエストされたとき、おそるおそる自分で作ったものを出したら美味しいと言ってくれたのだ。それからは、自分で作れるものは作るようにしている。その方が遠いお店まで買いに行くより楽だし、自分が作ったものを美味しいと言ってもらえるのは嬉しい。昔から何をやってもダメで、取り柄もないしいじめられることも多かったオレが、悪魔に褒められて得意なことを見つけるなんて。
スオウさんは不思議だ。傲慢不遜、悪逆非道の権化である悪魔のはずなのに、生贄に対してせいぜいパシリくらいのことしか要求してこないし、命令というよりお願いのような言い方をするし、オレがしたことに対して労ったり褒めたりしてくれる。ありがとうと感謝さえしてくれる。ちょっとした傲慢な人間よりもよっぽどいい人なんじゃないかと、思ってしまう瞬間がある。
そのたびにこいつは悪魔だ、騙されるなと必死に自分に言い聞かせるけれど、最初に出会ったとき以外で、彼が悪魔らしい姿や行動を見せることは一度もなかった。
しかも、お茶菓子をオレに買わせるだけでなく、一緒に食べようと言ってくれる。一日一回のティータイムを毎日一緒に過ごして、他愛ない話をたくさんした。スオウさんが話してくれる異国の文化やお茶菓子の話は、この街から出たことのないオレにとってすごく面白くてわくわくした。悪魔の言うことなんだから、全部が嘘で真実なんか一つもないかもしれない。でも、それでもいいと思えるくらい、スオウさんとのティータイムは楽しい時間になっていた。
「えーっと、薄力粉、卵、バター……ベーキングパウダーも少なくなってたっけ……牛乳と……あ、ラズベリーも買っとこう」
平和なこの街で毎日オレの頭の中を占めるのは、明日のティータイムに用意するお茶菓子のことばっかりだ。最近のスオウさんは特定のお菓子を指定するよりも、「プリンがいい」「甘さ控えめな感じの」みたいな漠然としたリクエストをすることも多くなった。どんなリクエストにも応えられるように多めに材料を買っておく。こういうお菓子にはどの茶葉が合うだろうと調べて研究しておく。
喜んでくれるかなあと考えては、悪魔を喜ばせてどうすると頭を振る。いや、でも、彼が喜んでくれてこの街の平和が保たれるなら、オレは間違ったことはしていない、はずだ。
「あらニレイくん、久しぶり! 調子はどう?」
「あ、ケリーさん! お久しぶりです!」
スオウさんのためにお菓子を作るようになって、新しく知り合いも増えた。スーパーの製菓材料コーナーでうんうん唸っていたオレに声を掛けていろいろと教えてくれたのが、このケリーさんだ。
「元気そうで良かったわ。お菓子は今も作ってるの?」
「はい、ほぼ毎日作ってます! あ、前にケリーさんに教えていただいたトライフル、すごく喜んでもらえたんですよ!」
「そう、良かった。お節介すぎたかしらってあの後ちょっと反省したのよ」
「全然です! また時間があったら他にも教えてもらえると助かります!」
「ふふ、ニレイくんは素直でかわいいわね。うちの子に見習ってほしいもんだわ」
「いえいえ、そんな」
「本当にもっといろいろ教えてあげたいのだけど……ごめんなさいね。ここのところ、下の子が臥せってしまっていて……」
「えっ、大丈夫ですか?」
「それが……原因がわからないの。体中に紫色の湿疹みたいなものが広がって、高熱にうなされてる状態がもう一週間以上続いているの。可哀想だから本当にどうにかしてあげたいんだけど、お医者さまもお手上げだって……」
「そんな……」
「だからごめんなさいね。買い物したらすぐに帰らなくちゃ。じゃあまた、ニレイくんも気をつけてね」
原因不明の病。医者には手が付けられない。その状況、思い当たる節がある。教会に戻って主任牧師にこのことを伝えると、返ってきた言葉は、オレが思ったことと同じだった。
「ふーん……それで?」
スオウさんとのティータイム。スーパーで聞いた出来事をスオウさんにも伝えた。彼は静かにティーカップの中の紅茶の水面を眺めている。いつもの笑顔は消えていた。
「にれ君は、どう思ったの」
剣呑な雰囲気に気圧されつつも、スオウさんの人柄はもうわかっているつもりだ。臆せずに自分の思ったことを正直に伝えた。
「悪魔の仕業ではないかと……思います」
カチャン。ティーカップを受け皿に置く音が、やけに大きく響いて聞こえた。
「だ、だから……スオウさんに教えてほしいんです」
真っ直ぐに目を見つめられて、こんな時なのに心臓が暴れ出した。悪魔だからなのかわからないけど、この人にじっと見つめられると何故か体温が上がる。何かの術をかけられているわけではないと思う。たぶん、これは、オレの問題。だけど今は、そんなことに気を取られてる場合じゃない。必死に目を逸らさないように耐える。
「そ、そういう病をもたらす悪魔に心当たりないかなって……!」
なんとか目を逸らさずに言い切ると、スオウさんは細めていた目を大きく開いた。虚を突かれたようにぽかんとする。あんまり見たことない表情だ。
「え、オレ、なんかそんな変なこと言いましたか?」
慌てるオレを見て、スオウさんは「あっはっは」と大きく笑った。いつもにこにこ笑ってはいるけれど、「ふふ」と小さく上品に笑う人だから、こんなふうに笑う姿は初めて見た。
「いやーごめん。気にするのそっちなんだと思って」
まだ笑いが収まりきらないのか、小さく震えながら目尻に溜まった涙を拭いながら言う。泣くほどおかしかったんだろうか。
「そっち……?」
「ふふ。だってオレ、悪魔だよ? この街で悪魔が原因っぽい事件が起きたなら、普通真っ先に疑うのはオレでしょ。オレがやったんじゃないかって、思わないんだ」
「え、だって、スオウさんはそんなことする人じゃないですし」
思っていることを正直に言っただけだ。けれどなぜか、スオウさんは固まったように動かなくなってしまった。
「出会ってから毎日、スオウさんのこと見てきました。スオウさんは悪魔だけど、ちゃんと約束を守ってくれてるし、いたずらに人を苦しめて楽しむような人じゃない。だって、人を傷つけたり苦しめたいなら、生贄のオレにすればいいじゃないですか。でも、そんなこと一回もしなかった。だから、スオウさんじゃないってことはわかってます」
だんだんと俯いていったスオウさんは、自分の肩でも見るように、顔を左下に向けてしまった。長い前髪と右目の眼帯のせいで、表情が全然見えない。けれど、長いピアスの揺れる耳は、うっすらと赤くなっているように見える。
「……にれ君さあ、人のこと簡単に信じすぎだよ。てか、悪魔のことなんかどこまでいっても信じちゃ駄目。そうやって信じさせてから、裏切るやつなんていっぱいいるんだよ」
いつもより随分と小さい声だった。どこか自信なさげな。
「わかってます。けど、スオウさんはそうじゃないって、なんかわかるんです。上手く言えないんですけど、直感だけじゃなくって……毎日スオウさんを見て、聞いて、話しているからこそわかるっていうか……確信があるんです。ちょっとした約束だって破ったりしないし、いつもオレのこと気遣って、褒めてもくれるし、ヘタしたら人間よりも優しいところがあって」
「う、うん、もういいよ。いい、わかった、ありがとう」
スオウさんは、空のティーカップを持ち上げてそのまま受け皿に戻したり、手の甲を頬や首筋に当てたりと、なんだか落ち着かない様子だった。おかわりの紅茶を注いであげようとすると、いや、いい、自分でやる、とカップとティーポットまで持ってキッチンに引っ込んでしまった。
その背中を見送りながら、自分でも、きっとおかしいんだろうと思う。悪魔を優しいと思って交流しているなんて教会の人たちに知れたら、お前は洗脳されてる、もしくは操られているんだと言われるだろう。
けど違う。これはオレの感情であって、スオウさんに操られたものじゃない。だって彼の魔力に当てられた人間は、数ヶ月にわたって昏睡してしまうはずなんだから。
「……で、悪魔の心当たりだっけ?」
「あ、はい。全身に紫色の湿疹みたいなものが広がって、高熱にうなされる症状が出るみたいなんです」
キッチンから戻ってきたスオウさんは、いつも通りの余裕の笑みを湛えていた。オレの紅茶まで淹れてもらって、二人で一服してから本題に戻った。
「聞いたことはないな。けどまあ、十中八九悪魔の仕業だとは思う。きっとよそから来たやつだね」
「? よそから来た?」
「うん。悪魔にも縄張り的なものがあってね。以前からこの辺にいた悪魔なら、オレが手を付けてたこの街に手出しするなんて真似、しないだろうから」
当然のようにそう言うスオウさんを見て、やっぱり高位の悪魔なんだなあ…としみじみ感じた。大抵の悪魔は手を出せないほどに、スオウさんの存在は強力ということか。
「しばらくオレが大人しくしてたから、誰も手を付けていない街だと勘違いしたんだろう」
「えっ! それって、それじゃ、オレのせい…?」
スオウさんによる被害をなくして、この街の平和を守れていると思っていた。それなのに、スオウさんより酷い悪魔が手を出してきたら意味がないじゃないか。いや、もっと悪い事態に陥るかもしれない。
血の気が引いたオレに、スオウさんは優しく微笑んだ。
「そんなことないよ。オレがちょっと気を抜いちゃってただけ。この国を縄張りにしてる悪魔はみんな顔馴染みだったから、わざわざ縄張りをアピールしなくても手出ししてこないと思ってね。よそ者が来る可能性を考えてなかった」
悪魔の中でそんな縄張り事情があったなんて知らなかった。牧師としては聞き流してはいけない話のような気がするけど、どちらにせよ他の街はその街の教会が管理しているので、こちらも無闇に手出しすることはできない。自分はこの街のことだけ考えよう。
「まあ、今夜にでも脅しておくから安心して。すぐいなくなると思うよ」
にっこりと笑顔で言われて、少しだけ背中に冷や汗が伝う。今夜脅される悪魔が少しだけ哀れに思えた。
「遅くなっちゃったな……」
スオウさんとのティータイムのあと、ケリーさんの家までお見舞いに行っていた。実際に見た湿疹のような症状は想像より酷いもので、グロテスクと言えるほどに肌を爛れさせていた。
きっとすぐ治りますからとケリーさんに伝えて、スオウさんお願いしますと心の中で祈った。自分ではどうにもできないことが本当に悔しい。悪魔に頼って祈るなんて、牧師としては失格どころじゃない。
街の外れの方にあるケリーさんの家は遠く、帰路についた時点で日が沈んでしまっていた。
真っ暗で人気のない住宅街を歩いていると、ふと微かな音が聞こえた気がした。音のする方へ進んでいくと――人が、悪魔に襲われている。
悪魔の手で口を完全に塞がれ、肥大化した尻尾が脇腹のあたりに突き刺さっている。一刻も早くなんとかしなければと思って、なりふり構わず十字架を掲げて飛び出した。
「やめろ!!!」
「あ?」
首だけをぐりんと回してこちらを見た悪魔は、明らかに異形だった。普通の人間に角と尻尾が生えただけのように見えるスオウさんとは全然違って、伝承に伝わるような山羊頭に、鉤爪の大きな手足、尖った牙が大きな口からはみ出していて、目の前にするだけで怖くて怖くてたまらなかった。全身が震えているのがわかる。今にも膝から崩れ落ちそうだった。
「なんだてめえ、牧師か…? にしちゃあ……」
襲っている人を摑んだまま、悪魔はこちらに寄って来た。どうしよう、飛び出したけれど武器になるようなものも何もない。下等悪魔さえ祓ったことがないのに、こんなやつ祓えるわけがない。
数十センチの距離まで歩み寄ってきた悪魔は、不審そうな顔をしてすんすんと鼻を鳴らしている。少しも動けない。襲われている人を助けることもできない不甲斐なさで涙が出そうになっていた。
「なんでてめえ、悪魔のニオイがするんだ?」
「え…?」
「どう見ても人間だよな……しかもクソ役に立たなさそうだけど牧師だろぉ? そんな奴がなんで悪魔のニオイさせてんだ」
どんどん近づいてきて首筋のにおいを嗅がれる。言われた意味もわからないし、恐怖で脳みそが凍りつく。
「牧師のくせに悪魔とつるんでやがんのか? ハッ、いいねえ。クソ弱そうではあるが、牧師のナリしてんなら利用価値はあんだろ。どこの悪魔とつるんでっか知らねえが、俺のもんになっとけよ。なんで人間のままにしてんのかわかんねえ。今すぐ悪魔にしてやる」
悪魔に、してやる? どういうことだ、なんて訊く余裕があるはずもなく、次の瞬間には、脇腹に尻尾が突き刺さっていた。
「ああぁあッッ」
痛い、痛い、痛い、痛い。刺されたところから火が流れ込んでくるような感じがする。熱い、痛い、怖い。視界がぐるぐる回って上も下もわからなくなったとき、唐突に流れ込んでくる奔流が止んで目の前の悪魔が吹っ飛んだ。
回る視界の中で最後に見えたのは、揺れるタッセル、さらさらと流れる赤い髪、そして――件の悪魔が、空間ごと捻り切られ、辺り一面を血の海に変える瞬間だった。