北村想楽は旅をしていた。あてどもなく山道を歩いている。
その中途では人ともすれ違った。お参りのような、修験者のような恰好をし笠を被った人たち。
試しにこんにちはと挨拶をする。返事はなく黙々と彼らは想楽と反対の方向に行ってしまう。二三度繰り返したが同じだった。
つれないな、と思う。だが思うだけだった。自分は一人で旅をしているのだ。最悪帰るまで誰とも話をしなくてもいいはずだ。
いいはず、だった。
山道と言っても所詮は整備された道だ。車は見かけていないけど車道もある。
ほらちょうどそこに、カーブミラーが。
「…え?」
見上げた先、銀の世界に映った世界。全てが反射するはずのその中に。
北村想楽の姿しか、見えなかった。
◆◆◆
「なあ北村、知ってるかい?」
「んー?」
「迷子になった時の必勝法」
「何それー。子供じゃあるまいし」
ぱち、と音がする。
事務所の一角、ボードゲーム一式が置かれた談話スペース。そこで想楽と雨彦は持ち込んだ囲碁で遊んでいる。勿論本格的なものじゃない。ポータブルなやつ。想楽は教本片手に眉根を寄せながら、雨彦はいつものしたり顔で。
「迷子って言い方が悪かったか。時々あるだろ、ちょっと違う世界にお招きされたり…そういう時の対策だ」
「…時々あるの?」
「あるさ、この前も寄り道しようとしたら旨そうなうどん屋があってな」
「どういう対策なんですかー?」
ぺち、とかなり間抜けな音とともにようやく碁石を置いた。会話しながら置き場所を考えるのは大変だ。というか何故そんな話を今。
「鏡を見ればいい」
「鏡?」
「鏡は昔から嘘が映らないって逸話がある。もし自分のいる世界に違和感を感じたら…試してみるといい」
「…なんでそれを僕に言うの?」
「…」
雨彦の手が止まる。表情を窺うといつになく真剣で、少し驚いた。
「お前さん、凶相が出ている」
「えっ」
「気を付けてくれ。今回多分俺は阻止できない」
「…雨彦さん?」
「北村、これだけは忘れるな。――――」
◆◆◆
あれ、この話なんだっけ。いつの記憶だろう。続きも思い出せない。大事なことだったような気がする。
いつの間にかカーブミラーは無くなっていた。周囲には霧。今までいた道がどこだったのか、自分はどこに行こうとしてたのか。
(何もわからない)
(そもそもここはどこ?)
本能で感じる。状況を手早く理解しなければこのままおしまいになる。
考えろ。さっき思い出した雨彦さんの話と、その前に見た鏡の違和感を。
(この状況が、嘘ってこと?)
霧はあっという間に濃くなっていく。自分も飲み込まれそうな気がして息を呑んだ。
(誰かが僕をここに閉じ込めている)
ならば脱出しなければ。でもどうやって?
ぐらりと足元が崩れる感覚があった。視覚は既に真白に染まっていたが落下することだけはわかった。揺さぶられた衝撃と一緒に、頭の中で声がした。
思い出した。そうだ、
(「北村、これだけは忘れるな」)
(「どんな時でも助けを求める声を出せば、それは必ず届く」)
落ち続ける感覚に千切れそうな喉もかまわず、叫ぶ。力の限り。
「助けてーーー!!」
「北村!起きろ!北村!」
「わあっ」
かなり派手な音がした。目を開くとそこは天地がひっくり返った世界だった。
「…大丈夫か」
さかさまになった雨彦がこちらを覗き込んでいる。事務所だ。北村想楽は事務所のソファから転げ落ちて目を覚ました。
「怪我はないか」
年下の同僚が寝ぼけて面白おかしい行動をしたにもかかわらず、雨彦の瞳は神妙だった。冷や汗が頬を伝う。今見ていたものは夢だったのだろうか?そしてもう一つ思い出したことがある。
「ねえ雨彦さん」
「?」
「迷子になったら鏡を見ろって話したの、覚えてる?」
「…ああ。したな」
「…その時、「気をつけろ」って、言ってたっけ?」
雨彦の眉間にはっきりと皺が寄った。
「言った、のか」
どうも記憶になさそうだ。つまりあれの後半は想楽の頭が作った幻の可能性が高い。
幻にしては随分粋な真似をしてくれる。
「…ありがとう、雨彦さん」
「…無事で何よりだ」
この人は本当に話が通じる人だ。無意識に求めた助けにも応えられるなんて、ちょっと羨ましいくらいかっこいい。そう思って天井を見上げていた。