いい夫婦の日(ミレ霧) 冷たい風が強く窓ガラスを叩く昼下がり。霧香は頬杖をついてカタログをぺらぺらと捲る。その横に湯気の立ちのぼる紅茶が置かれた。苺の甘い香りが冬の冷たさと混ざり合う。
「霧香、そこはあんたにはまだ早いわよ」
霧香が見ているのは有名なアクセサリー店の結婚指輪特集だった。ベビーピンクの幸せなページにシルバーの輪っかが所狭しと並んでいる。霧香はその中の一つ、小ぶりで細身のものを指さした。
「これ可愛い」
「ふうん、なかなかいいデザインじゃない」
あれから二年の月日が経った。二人にはもう暗殺以外の道なんて残っていないから、まだ相変わらず銃を握る日々が続いている。けれど、霧香は前よりよく笑うようになったし、ミレイユはどこか丸くなった。本棚には世界の名作が分かりやすく書き直された児童書の一角ができ、食器棚には猫の絵が入った皿やマグカップが増えた。
「でもね、だいたいいつ使うのよ、そんなの」
霧香に覆い被さるようにしてミレイユもカタログを覗き込む。こうしてまじまじ見ると本当に良いデザインの指輪だった。大きな宝石の乗った他と違ってほんの小さな宝石が二つ埋め込まれており、他にはなにも付いていない。霧香も指輪に興味を持つ頃かしら、だったらもっとティーン向けの雑誌を読めばいいのに。そう零そうとしたその時だった。
「いつって、結婚のとき」
結婚、という言葉が霧香から飛び出してきて、ミレイユはひどく衝撃を受けた。霧香は家族というものを知らないから、それにまつわることもほとんど知らない。例えば兄弟喧嘩であるとか、お墓参りであるとか、それから結婚であるとか。昔公園で花嫁と花婿が前撮りをしているのを見かけた時、大層興味深そうにじっと見つめていたのを覚えている。それに、ミレイユは殺しに手を染めた自分が結婚できるなど微塵も思っていなかったから、霧香が結婚のことを少なからず考えているのが意外だった。というか、現時点でミレイユとお付き合いをしているわけだから、仮にも恋人の前でいつかの結婚の話をするということは、つまり、そういうことなのではと期待してしまう。
「そう、結婚ね……」
まさか、霧香に限ってそんなことないわよね。霧香のただ、子供みたいな好奇心がたまたま結婚に向いただけよね。ミレイユは高鳴る心臓を落ち着けて、ストロベリーティーを口に含む。この前霧香が店先で興味を示したので買った少し高級なものだった。なんだか最近好みも似てきたみたいで、かなり美味しい。ああ、また霧香のことを考えてしまう。水面に映るミレイユの顔は心做しか赤く、乾燥苺のチップがふらふらその上をさまよっている。
「ミレイユ?」
結婚ね、と意味深に言ったきり黙りこくってしまったミレイユの顔を、ティーカップ越しに霧香は見つめている。あ、上目遣いがかわいい。ミレイユはまたどきどきし始めて、慌てて視線を逸らした。
「……なんでもないのよ。ほら、この前あんたが飲みたいって言ってた紅茶」
我ながら下手な誤魔化し方だとミレイユは心の中でため息をついた。霧香は出会った頃から今日までずっと素直だから、言われるままに紅茶に口をつける。ミレイユの淡い期待に霧香は気がついていない様子だった。
「美味しいね、ありがとう、ミレイユ」
「……口の端に苺が着いてるわよ」
そう言って、軽く何度かキス。二人の間で同じ風味が行き交う。ふやけた苺の味が何度か舌先を掠めた。そのまま、霧香の手がミレイユの背中に回り、ミレイユは手に持っていたティーカップを机に置く。腹部がくっついて、体温が混ざりあった。
「ミレイユ、大好き」
そのままがたがた椅子やらソファやらにぶつかりながら、ベッドにもつれ込む。
「あたしも好きよ」
霧香はくす、と微笑んだ。
「……やっぱり買おう、あの指輪」
窓を叩く風にかき消されそうな微かな声で霧香はそう言った。ミレイユの目がぐっと大きく開かれて、それから霧香からのキスが一つ。ミレイユはその唇を舌でちょんちょんつつかれても受け入れることができず、ただしびれるような感覚に襲われている。ミレイユは霧香が指輪を手に入れる、即ち結婚を決めたことにひどく動揺していた。そして、自分に当ててそう言ってくれたことの、その温かな意味に気がついて、信じられなくて、霧香の細い肩に手をつき、ゆっくりと顔を離す。
「霧香……?」
「ミレイユ、結婚しよう」
そう言いながら幸せそうに霧香は笑って、大きく頷いて、またキス。霧香と暮らすようになってからより豪華になった調度品のうち、最近買った柔らかなシーツが上から降ってきた。
「病める時も……健やかなる時も……」
霧香の想いはついに言葉を必要としなくなり、ただ、ミレイユを抱きしめる。瞼を閉じれば、シーツを通した昼下がりの白い光を感じた。耳をすませば、ミレイユの心臓の音が聞こえてくる。
「とっくに……誓っているのに」
やっと落ち着いてきたミレイユが、それでもまだ掠れた声で言う。目には涙の膜が張っていた。そして、二人静かに誓いのキス。まだほのかに苺の香りが漂っている。ミレイユは幸せな温度に浮かれながら、ああ、これから霧香と家族になれるんだ、その実感がふつふつわいてきて、無性に嬉しくなって、霧香をきつく抱きしめた。
数時間前、川べりで絵を描いていた霧香は見つけた。ここで度々見かける男女の薬指に銀の指輪がきらめいている。左手の薬指は結婚の証、そうミレイユは言っていたっけ……。前にどこかの公園で見た花嫁を思い出す。幸福そうに笑って、花婿と腕を組んでいた。あの二人、それから目の前の二人は死ぬまで同じ家で暮らすのだろうか。死ぬまで一緒、そう思うとミレイユと霧香も同じような関係に思えた。いつかしくじって、あるいは撃ち殺されて、あるいは奇跡的に老衰して、そのいずれでもどちらかが死ぬときまで離れ離れになることはないだろう。霧香は筆を止めて、左手の薬指をじっとみつめる。ここにミレイユとお揃いの指輪があって、それが最期の最期までここにあって、終いにはお墓にしまわれることを考えると、ちょっと安心した。ミレイユも、同じ気持ちだったらいいな。霧香は絵筆を片付け、二人で暮らすアパートに帰ることにする。確かミレイユが買っているアクセサリー店の雑誌には毎月結婚指輪特集があったっけ、それを読んでみよう。勢いあまって今日プロポーズしてしまっても構わない。親の記憶なんてちっともないから結婚のいろはもわからないけれど、きっと霧香からプロポーズしても結婚はできると思ったし、ミレイユは喜んでくれると思った。それでミレイユが受け入れてくれたら、私達二人だけの秘密の関係がまた一つ増える。恋人とか相棒とか、それから家族。誰もそれを知らなくたっていい。ただ、二人が繋がっていられたらそれだけでいい。霧香は立ち上がり、寒空の下、ミレイユの待つアパートの一室へ駆けて行った。