頭文字 海へ行こうね、とか言う思い切った約束をしたのはいつだったかな。いや、忘れもしない、五月、テスト前の放課後。
机をくっつけることすらせず、ただ、微妙な六十センチばかりの距離を保って座っていた。本当は勉強なんて家でやれば良いんだけれど、そんなこと言ったら、この時間はおしまいだった。まだ未熟な関係性には、二人で居たい以上の最もな理由が必要だった。何か代入して掛け算すればいいってとんでもないけど、解法だけはあともうちょっと、集中すれば思い浮かぶところまで来ている。簡単でもなければ特段難しい訳でもない数学のワークの上で、シャープペンシルをぐるぐる回す。隣の君が若干朝よりだれたネクタイを垂らしながら真剣な眼差しで問題を見つめているから、話しかける訳にもいかなくて、またペンを一回転させた。
「あっ」
思ったより強い力で回してしまって、左斜め前、君との間に落ちる。
「あれ、……はい」
あんなに集中していた君が僕より早く拾えたのは何故だろう。僕が遅すぎるのか、それとも、本当は……。
「ありがと」
爪の先がほんの少し触れ合ったのが気がかりで視線を上にあげると、その大きな目とかち合う。
「全然わかんないね」
全然分からないのは君だけなのに、ね、と首を傾げるから、僕も分からないふりをして同じような仕草をする。そうすると同時に彼女の視線はぐるっと床を通って机に置かれたスマートフォンに着地した。すぐさま点灯する画面と素早く往復する指に一抹の寂しさを感じる。ただ、やたらかわいい動きをしてしまって少し恥ずかしい気分だったから助かった。同じようにスマホの電源をつけてSNSをチェックする。
「あ、いいなー。海行きたい、海」
全然知らない加工の強い子達の写真だった。猫耳みたいなエフェクト付き。
「中学の時の友達。お洒落だね、羨ましい」
それがお洒落かはよく分からなかったけど。でもいいなーと呟いて画像を拡大している君が楽しそうだからそれで良かった。適当に相槌をうって、ピンチを繰り返す柔らかな指と弧を描く目の縁を交互に見やる。
「あーあ、私も海行きたいなあ。いつから行ってないのかな」
ぎぃ、と小さな音と共に君は仰け反る。その軽そうな身体が後ろに倒れてしまわないか心配で組んでいた脚を直す。杞憂に終わった代わりに終着点を失った動作は接近に変わり、二人の距離はさっきの二分の一にまで縮まった。
「わ」
わ、だって。近づいてきた僕に吃驚したみたいだけれど身を引くでもなく、ただ、わ、と発音しただけにも見えた。それがかわいくて。……いやだな、かわいいだってさ。自然発生した感情にひとりで勝手に動揺してしまう。
「……海行きたいの?」
「……うん」
焦って飛び出した馬鹿みたいな質問だった。そりゃさっきからそう言ってるんだから、行きたいに決まってるじゃんか。それを君はなにも突っ込まず、ただ肯定するだけ。
「……まあ行っても何もないけどね。泳ぎたいとかでもないし」
なんだか僕の質問でそう言わせてしまったみたいだった。本当に海に行きたいの、信じられない、というようなニュアンスに聞こえたかも、なんて反省する。
「なんか羨ましがりなだけかも」
いつも若干ニヒルな事ばかり言うからこれもそのうちかもしれない、けど。心做しかしょんぼりしている気がした。僕は君ではないので正解の気持ちを知ることはないのだけど。
「……いつか一緒に行こうよ」
少し声が裏返った気がした。ああ、僕はやっぱり馬鹿だ。拒絶も怖いし、でも、このまま傷つけたまま日が沈むのも怖くて。毎晩続いている連絡がぎこちなくなるのが嫌で。でも僕が君のことをきっと好きなんだと言ってしまうのも怖かった。回避、回避のコンフリクトだとぼんやり思った。それに重ねて、君が言う。
「え……?!いいの?!私全然海行ったことないんだよ」
なんて優しい言葉なんだろうと思った。君だけはクラスで誰のことも茶化さないんだ。冗談も真剣な顔して聞いて、そういうところがいいと思ってるんだ、僕は。
君と海辺を歩く。じゃりじゃり言う足元で、小さな小さな砂の粒が幾つも重なっていて、それらがコンソールによって下に押し下がっている、という想像をする。うっすら肌の透けたストッキングに、青い海辺に映えるベージュのミニスカート。君が波に合わせて蛇行するたび大振りなプリーツがひらひら揺れた。あれから六ヶ月の月日がたった。僕達も大人になった。夏の間、挫折、友情、それぞれ別の場所で大きくなった。連絡も頻度が減った。それでも、久々に席が隣になって、君はまだ約束を憶えてくれていた。涼しくなってきたからさ、海行こうよ。覚えてる?そう、部活のない水曜日の放課後に、窓際で。お互い頭を突き合わせて、カレンダーのアプリを見せあった。あの頃よりずっと多くなった塾。唯一空いていたのがテスト一週間前の日曜日の夕方で。それで今、お互いトートバッグやらリュックやらを持って夕日の沈みかけた浜辺を歩いている。
「ここが一番綺麗だ!」
六ヶ月前と変わらない柔らかな指が夕日を指さした。そして君は波打ち際から数歩下がって、こっちに手をひらひらやる。しゃがみ込んだ君に数メートル離れていた僕はゆっくり近寄った。
「上出来」
何が上出来かと思ったら、砂浜に大きく書かれたアルファベット一文字。書き始めと終わりがくるりと巻かれていて、筆跡は力強く、かつ綺麗だった。
「私の!」
私の、私の……、イニシャルか。この言葉足らずな不器用さも好きなんだ、今だって。
「書く?ねぇ、ほら」
初めに話した時は大人っぽいと思ったんだけどな。それから六ヶ月と少し、君は随分子供だったね。
「書こうかな」
リュックの紐に砂がつくのは構わないと思った。十五センチの距離の方が今は大切なんだ。靴先が軽く触れ合う程度にほんの緩やかに角度をつけてしゃがみ、自分の頭文字を隣にゆっくり書く。君のよりも随分不格好だけど、それで良かった。
「上手だね」
本当に本当に上手だと思ってくれている声色だと思った。だから、どんなに不格好になってしまっても良いのだと思えた。ずっとこうしていたい、いたいけど。僕達にはもう分かりきっていた。二人は同じ道にはいられない。浜辺には誰もいなかった。今ここで過ちを犯しても、それを誰も知らない。でも、怖くて出来なかった。回避と接近のコンフリクトだった。君を傷つけたくないから。いや、君に嫌われたくないんだ、僕が。結局最後まで臆病だった。君の優しさや柔らかさに頼っておきながら、大事なところでは信じきれなくて。さようなら。アルファベットと言うのは細くて、優雅で、何年も前の人々にすこしありがとうと思った。くるりと端の巻いた二人のイニシャルは絡み合っているように見えた。一際大きな波が近づいてくるのを遠くに見て、僕は立ち上がった。君との決別だった。
「もう帰る?」
「暗いしね」
リュックに付いた砂を払った。君もトートバッグに付いた砂をしきりに払っている。お互い、大事な教材が入っているから。帰ってお母さんに海に行った跡が見つかったら嫌だから。波はすぐ近くまで迫っていて、あまり濡れていない砂浜に書いたイニシャルにも届きそうな勢いだった。もうじき潮も満ちて、このイニシャルも消えるだろう。物理には詳しくないけど、僕らの砂粒に押し付けたエネルギーの行方を案じて切なくなる。保存の法則とやらで消えていくはずもないから、波に飲まれてしまうのか、砂粒の微かな移動に変わっているのか。君に聞いたら教えてくれるだろう。でももう聞いたとて、二人のかすかに甘い時間は戻ってこない。
「帰ろう」
肺に残っていた分の空気で一息に言った。早く言ってしまわないといずれ僕らの暮らしはばらばらになってしまう気がした。
「駅までは一緒?」
「……お母さん、車で迎えに来るんだって」
「そっか」
ごめんね、と手を軽く合わせて首を引っ込める動きも、もう何度見たことか。
「そこまで送るね」
君に迎えが来るのだから、僕が本来そう言ってあげるべきなのに。にっこり笑顔で傾けた首につられて揺れるポニーテールに申し訳なさを感じる。
「ありがとう」
「……気をつけて帰ってね」
車はまだ来ていないらしかった。でももう二人で待ってもいられない。僕と君はお互いに違う道へ進まないといけなかった。
「じゃあね」
これまで何回も繰り返したじゃあねと少しも変わらないじゃあねが言えて良かった。きっとそろそろイニシャルは波に飲まれて、もうただ平坦な砂浜に戻ったのだろうな。明日も明後日も君とは学校で会うけれど、もうそれはただ、朝おはようと言って夕方さようならという、仲のいい友達としての関係になったのだと思った。
頭文字 レエモン・ラディゲ
砂の上に僕等のやうに
抱(いだ)き合ってる頭文字
このはかない紋章より先(さ)きに
僕等の恋が消えませう
堀口大學 月下の一群より