香水の話探している素材があるという春日に付き合い、趙は異人町のあちこちを半日かけて文字通り駆けずり回った。
流氓の総帥だった頃は、縄張りの問題もあって足を踏み入れたことのなかった場所にも行った。全てを知っていると思っていた町の全く知らなかった一面を知ることもあり、春日一番という男と一緒にいると退屈する暇がほとんどない。
お目当ての素材とやらが見つかったのは、とっぷりと日も暮れた時間になってこのことだった。
手近な店で簡単に食事を済ませ、バーで飲もうと話しながらサバイバーに戻ると、店内は今まで見たこともない程の盛況ぶりだった。
どこかの会社の送別会の二次会で流れてきたのか、団体客が店内を埋め尽くし、賑やかにカラオケに興じている。
カウンターの中で忙しく立ち働くマスターに目をやると、悲壮なまでの顔つきで「二階へ行け」と目線で促され、春日と趙は大きな体を小さくしてコソコソと階段を登る。
見慣れた部屋の明かりをつけたところで、どちらともなく大きくため息をつく。
「…あんな混んでるの初めてみたぜ…」
「本当にね〜。マスター死にそうな顔してたよ…」
思い出して二人で笑い合い、走り回って疲れた体を畳の上に投げ出した。
「飲みっぱぐれちゃったなあ…」
とてもあの中に入る気にもなれず、かといって他の店に行ったり、コンビニに酒を買いに行く気力も体力ももう残っていない。行き倒れのような姿勢で趙がため息をつくと、隣で同じように転がっていた春日が何かを思い出して起き上がる。
「思い出した!確か、足立さんの買い置きのワンカップがあったはずだぜ」
「怒られるよ…」
「ちゃんと買って返しておくよ。確か、台所の下に…あったあった!」
ガサガサとシンク下を漁っていた春日が、ニッカリと笑って飾り気も何もないカップ酒を差し出す。
とりあえず受け取ったものの、趙がいつまでも起き上がらずにいると、春日は焦れたように肩を揺すってくる。
「なあ、飲もうぜ、趙」
拗ねたような甘えたような言いようが可愛くて、緩む口元を隠すように顔を伏せると、実力行使とばかりに脇に手を入れられて引き起こされた。
「わあ!ちょっともう、変なとこ遠慮ないね」
「いいじゃねえか、ほら、飲もうぜ」
「わかったから、離してよ」
羽交い締めにするように抱きつく春日をかわそうとして、趙はほのかな香水の匂いに気づく。
「あれ、春日くん。香水つけてる?」
「ん?ああ」
「いい匂いだね。春日くんにすごく合ってる」
趙が素直な感想を告げると、春日は照れくさそうに頬を緩める。
「そうか?若い頃にもらったの、ずっと使ってるんだけどよ」
「プレゼント?へえ、センスいいね、その女の子」
「いや、女の子じゃねえよ。若にもらったんだ」
『若』という単語を口にした途端、すっと表情を無くした趙に春日は苦笑する。
「そんな怖い顔すんなよ。ほんっとに若のこと嫌いだな」
「何も言ってないでしょ」
普段飄々として何を考えているかわからない趙が感情を露わにしたことが嬉しくもあるが、若のこととなると複雑な気もして、春日は言葉選びに迷う。
すると、それを見通していたかのように趙が下から覗き込むように春日の目を真っ直ぐにみる。
「確かに俺はあいつが嫌いだよ。でもそれは俺の問題。春日くんの気持ちは否定しないよ。香水のことだって、大切な思い出なんでしょ」
「趙……」
「でも俺はあいつのこと嫌いだけど」
「2回言うなよ」
お笑いのようなやりとりをしてくつくつと笑い、肩を並べて座り直す。
カップ酒の蓋を開けて、小さく乾杯をすると、春日が小さくありがとうな、と呟いた。
趙はそれには何も答えず、春日の肩口に顔を寄せて香水の匂いを確かめる。
「ねえ、香水の思い出話聞かせてよ」
春日はあまり過去の話をしない。話してくれるかは賭けのような気分だったが、春日は気負いなく懐かしそうに目を細めて口を開いた。
「そんな大したことじゃねえよ。荒川組に入ってしばらくして、若の身の回りのお世話を任されたんだ。そん時に『お前汗臭いからこれでもつけてろ』って渡されて。それからずっと使ってるってだけで」
じっと春日の様子を伺いながら聞いていた趙は、その短い話からあることに思い至る。
「それってさあ…」
「ん?」
趙は言おうかどうか、躊躇う。
「香水選ぶのって、結構大変なんだよ。見た目じゃわからないから、実際色々匂い確かめて、好みの香り見つけるまで時間もかかるし。車椅子だったんでしょ?昔。それでも出かけて春日くんに合う香りで、お世話してもらう自分も好きな香りをちゃんと探して選んだんだな、とか思ったんだけど…」
春日は趙の言葉に虚をつかれたように目を見開き、何も言えないでいる。
「まあ俺が勝手にそう思っただけで、本当は違うかもしれないけどね。そこらへんにあったの買っただけかもしれないし」
不機嫌そうに趙がそう言うと、春日はようやく息だけで笑った。
「そうかもな…。どっちにしても、俺、深く考えたことなかったなあ…。俺のために選んでくれたのかもしれないとか…全然考えたことなかったぜ…」
「深く考えないとこが春日くんのいいとこでしょ」
「へへ…ありがとうな、趙。ほんとお前のそういうとこ好きだぜ」
「でも俺あいつ嫌いだからね」
照れ隠しのようの即座に言う趙に笑って、春日はふと思いついた疑問を口にする。
「そういや趙は、香水つけねえのか?」
先程自分がされたように肩口に顔を寄せる春日に、趙は「料理するからねえ」と笑いながら答える。
「ああでも若い頃、オラついた感じの香水つけたら馬淵に『くせえ』って言われてムカついてソッコー捨てたことあったなあ」
ふと思い出したことを口にすると、春日が『馬淵』の名前を聞いたところで盛大に眉間に皺を寄せ、心底嫌そうな顔をした。
先程の自分も、同じような顔をしていたんだろうか。
嫉妬のような、独占欲の剥き出しの顔を。
「あっは!春日くんは本当に馬淵のこと嫌いだねえ!でも俺も春日くんのそういうとこ好きだよ!」
ざわついた感情を胸にしまって、趙は努めて明るくそう口にした。
「じゃあ今度、春日くんが俺に似合う香水選んでよ」
「俺がか?」
「そう。そうしたら、久々に使ってみようかな」
部屋に漂う安酒の匂い、春日の香水の匂い。そこに自分の香りが加わるのは、とても悪くないことに思えて趙は小さく笑った。