炊飯器を買う話流氓の総帥を降り、春日一番とその仲間たちのアジトであるサバイバーの二階に趙天佑が転がり込んで数週間。
狭くて古い部屋も、日によって増えたり減ったりするメンバーも、薄い布団も建て付けの悪いトイレにもすぐ慣れて、ボディガードのいない生活は何も問題もなく、快適なくらいだ。
ひとつ問題があるとすれば、台所と食生活である。
台所自体は別にいい。古いがシンクも広いしお湯も出るし、ガスコンロも二口のちゃんとしたものだ。
だが、主にここで寝泊まりをしている春日とナンバはそこを台所として使ってもいない。
無造作に部屋の隅に置かれた段ボール箱にはカップ麺が詰め込んであり、各自好きな物を食べる。
朝からだ。
そうでなければコンビニのおにぎりや菓子パン、時には朝は何も食べないこともある。
昼夜は基本外食で、部屋のわりに広い台所が使われるのは、せいぜいお湯を沸かす時と、洗面所代わりに歯を磨いたり顔を洗ったりするときだけだ。
そんな毎日の食生活に、誰も疑問を持っていない。
良くも悪くも寄せ集めの集団だし、それぞれがこれまで過ごしてきた環境もある。
人それぞれだ、と思いつつも趙はその不健康な食生活に、早々に根を上げた。
「ねえ春日くん、炊飯器買ってよ」
「炊飯器?…って、米炊くアレか?」
日曜日の朝、のんびりと目を覚ました春日に乗りかかる勢いで趙が言うと、寝ぼけているのか掠れた声で、当たり前のことを聞き返してくる。
「そう。居候の分際で言わせてもらうけどさぁ、俺って朝はちゃんと食べたい派なんだよね」
「食ってるだろ?」
「違うよ、ちゃんとお米炊いて、お味噌汁作ってっていうご飯が食べたいんだよ」
「おっと意外だな。ずいぶん日本食じゃねーか」
横から口を挟んだのは、春日よりも先に起きて、歯を磨いていたナンバだった。
「そりゃずっと日本で暮らしてるしね。梅干しも納豆も食べるよ」
「いいねえ、ザ・朝ごはんって感じで」
歯ブラシを咥えながらモゴモゴと言って、ナンバは台所へ向かう。ここでは、台所は洗面所の役割もしている。
目を覚ましたものの、趙に上から抑え込まれた春日は身動きできないままキョトンとしていた。
「…朝ごはん、作ってくれんのか?趙が?」
「居候させてもらってるしね、それくらいはするよ。だからさ…」
「居候じゃねえだろ」
思いがけないほど強い口調で言葉を遮り、春日はのし掛かる趙ごと体を起こす。
「居候じゃねえよ、もう仲間だろ。俺はそのつもりだぜ?違うか?」
変な寝癖と枕の跡のついた顔で、それでも真剣で強い眼差しを向けてくる春日に、趙は思わず言葉に詰まる。
「…違わないね」
両腕をしっかり掴んでまっすぐに目を覗き込んでくる男に、なんとか言葉を返す。
朝だからと油断せず、サングラスを掛けていてよかった。
なぜかそんな思いが趙の脳裏をよぎる。
「じゃあ決まりだな」
ニッカと笑ってそう言った春日は趙の腕を離すと身軽に起き上がり、ナンバに並んで歯磨きを始める。
「今日は会社も休みだし、後で買いに行ってくるぜ。何がいいとかあんのか?」
「ないよ、フツーのでいいよ」
「うっし、楽しみだなぁ、趙の朝ごはん」
「だからご飯とお味噌汁だけだってば。変に期待しないでよ」
次第に浮かれだす春日の様子にくすぐったくなってそう返すと、先に歯磨きを終えたナンバまでが楽しそうにしている。
「味噌汁いいねえ〜。ところで具は何が好きよ?」
「ふぁへほんほ…」
「いいから早く磨いちゃいなってば」
その後歯磨きを終え身支度を整えるも、しばらく味噌汁の具論争に時間を取られ、昼に近い時間になって、ようやく春日が家電量販店に出かけて行った。
一緒に行った方がよかったかとも趙は一瞬思ったが、大の男2人でと言うのも変な気もしたし、特に誘われもしなかったので大人しく見送った。
ナンバと二人残された部屋で、元々置いてあった段ボールを漁って使えそうな鍋や食器を探す。
マスターからは好きに使っていいと言われていたので、見つけた鍋と茶碗を使わせてもらうことにする。
「…あいつ一人で大丈夫だったか」
春日が小一時間経っても戻って来ないことに、ナンバも同じ思いを持っていたようで、心配そうに眉根を寄せている。
「まあ、子供じゃないし、大丈夫でしょ」
趙が軽く返すと、ナンバは真剣な表情を向けてきた。
「…あんた、アイツの生い立ちは?」
「…コミジュルの情報程度には知ってるよ。本人から聞いてはいないけど」
その重い質問に、趙も真摯な態度で返す。
「俺だってそんな知ってるわけでも、聞いたわけでもねえよ。でもよ、アイツの人生で、ご飯とお味噌汁なんて朝ごはんが出てくるなんてこと、そんなになかったろうなと思うわけよ」
「…だろうね」
ごく当たり前に、母親が朝食を用意して起こしてくれる生活を送ってこれなかった者など、流氓の中にも多くいた。ブリーチジャパンの連中が「グレーゾーン」と呼ぶ中で生きてきた者達などほとんどがそうだろう。
だがそれを考えても、春日の生い立ちは壮絶だった。
「…だから、趙が朝ごはん作ってくれるって言った時、俺嬉しくってよぉ…」
「ちょっとやめてよナンバ、俺まで泣いちゃうじゃん!」
「いや俺は泣いてねえよ」
とんでもなくしんみりした雰囲気になりそうなのを、なんとか誤魔化したところで趙の携帯電話が鳴る。着信の相手は春日だ。
趙とナンバは目を見合わせて、スピーカーにして通話を開始した。
「はあい、春日くん」
『趙!フツーがわかんねえよ!』
それを聞いて、なんとなく心配していた予感が的中した趙とナンバは大笑いをした。
『笑い事じゃねえよ!俺がムショ入ってる間にどんだけ増えたんだよ!マイコンだのIHだの、果てはダイヤモンドとか書いてあるぞ!米炊くのにダイヤモンドなんかどうすんだよ!」
「適当でいいよ、取りあえず五人分くらいのお米が炊ければ」
半ばパニックのように捲し立てる春日に二人で腹を抱えて笑いながら、趙はスマホに向かってのんびりと言った。
『五人分?なんだよ余計わかんなくなったじゃねえかよ!五人分なんてどこにも書いてねえぞ』
「店員さんに聞きなよ」
『聞いたんだけど結局どれがいいのかがよくわかんねえんだよ。もう面倒くせえ、一番高いの買っていけばいいか?』
「そんな高いのいらないよ!も〜わかったよ、今から俺も行くから、待ってて」
そう言って趙が電話を切ると、ナンバがニヤニヤと笑っている。
「趙は一番に甘いなあ」
「ふふん。まあね。炊飯器、買ってもらっちゃうしね」
ナンバの指摘に内心どきりとしながらも、ニヤリと不敵に笑ってそう告げて、趙は足早に春日がいるであろう家電量販店へと向かった。
「いや〜助かった!来てくれてありがとうよ、趙!」
炊飯器の入った段ボールを大事そうに両手で抱え、サバイバーまで戻る川沿いの道を歩きながら春日は上機嫌だ。
「何言ってんの。元は俺が買ってってお願いしたんでしょ」
そう答えた趙は片手に米、片手に味噌を抱えている。
「持つぜ、米」
「いいから。炊飯器落としちゃうよ」
「そりゃ大変だ」
そう言って、派手な作りの顔をくしゃくしゃにして笑う。
「ご機嫌だねえ」
あまりに嬉しそうな様子に、趙が思わず苦笑する。
「俺、ガキの頃から家庭の味ってもんに縁遠くて…家で作ったカレーとか、肉じゃがとか…。実家の嬢の姉ちゃんとか、荒川のおやっさんとかに美味いもん食わせてもらったことはあったけど、そういう…金払っても食えないメシってどっかに憧れあったんだよな」
暮れかけてきた日差しに澱んだ水がキラキラと反射する川面を見ながら、聞いているだけで胸が痛くなるようなことを、懐かしそうに春日が言う。
「だから、炊飯器なんての買ったのも初めてだし…嬉しくってよ。ありがとうな、趙」
「やめてよ〜。大したもの作らないし、そもそも買ってもらっておいてお礼なんて恥ずかしいよ…。あ、でもぉ、これからは春日くんの家庭の味、俺のご飯になっちゃうけど、いいんだね?」
真摯な感謝がくすぐったくて、その内容にしんみりしそうになるのを誤魔化すように茶化せば、いつものような快活な返事があると思ったのに。
春日は瞳を僅かに揺らしてさっと首筋を赤くする。
「…ん?んん?そっか、そうなるか…そうだな、うん」
明らかに動揺して照れたようなそのリアクションに、趙は言葉選びを失敗したと焦る。
気の利いた返しもできず、ムズムズする雰囲気のまま歩き続け、サバイバーに到着してしまった。
2階に戻るとナンバの他に足立もいて、「ヤクザとマフィアが炊飯器と米抱えて帰ってきたよ」と言って大笑いし、春日がそれにうるせえよと笑顔で返して、ようやくいつもの空気に戻る。
その夜は買ったばかりの炊飯器で米だけを炊き、コンビニで調達した惣菜をおかずに足立を加えた4人で再び味噌汁の具の論争をし、酒を飲み、翌日春日が仕事ということで日付が変わる前にお開きとなった。
「そんで結局、味噌汁の具は何にすんだよ、趙」
各自布団に入り、電気を消そうとしたところで、春日が聞いてくる。
「え〜?だから明日起きてからのお楽しみって言ったでしょ」
「足立さん、本当に朝来ると思うか?味噌汁のために」
「どうかな〜」
「自分で最近年取って朝早いとか言ってたから…」
「おい一番、いい加減寝ろ。遠足前の小学生じゃねえんだから」
ナンバの辛辣な言葉に趙が笑い、春日が何かブツブツ言う。
「おやすみ」と笑い含みの声で趙が言って、明かりを落とした。
翌朝、春日はピーピーという聞き慣れない電子音で目を覚ました。
スマホのアラームでもないその音の出どころを探そうと身じろぎすれば、ふわりとあたたかくて柔らかい匂いが部屋中に満ちていることに気づく。
寝転んだまま、頭だけを台所に向けるといつもの格好のまま台所に立つ趙が見える。
鼻歌混じりで朝ごはんの支度をしている姿に、頬が緩む。
おたまから小皿に味噌汁をすくって味見をする姿なんて、ドラマの中でしか見たことのなかった光景を目の前で見て、春日は軽い感動すら覚える。
ドラマのような割烹着をきた優しげな女性ではなく、ギラギラしたシャツにサングラスをかけた男という、そのあまりのギャップがおかしく、思わず吹き出してしまった。
その声を聞いて、趙がのんびりと振り返る。
「春日くん、起きた?」
「…おう、おはよう、趙」
「おはよ〜う。ちょうど出来たとこだよ。ご飯も炊けたし」
先程の電子音は、炊飯器からの音だったようだ。
「…味噌汁の具は?」
布団に潜ったまま聞けば、趙は呆れたように笑う。
柔らかく部屋に差し込む朝日と、部屋に満ちた幸せな匂い。そして、そのふわりとした雰囲気に全くそぐわないような趙の姿に、なぜか春日は幸せな気持ちになる。
「あ、ご飯多めに炊いたから、お昼におにぎり持って行く?」
のんびりと趙が繰り出す言葉は、今までの人生で一度も聞いたことのないような家庭的な言葉ばかりで、春日はこれは夢なんじゃないかと思う。
「春日くん…?」
近づいてくる趙の足音に、どうか夢じゃありませんようにと祈るような気持ちでいたら、思い切り布団をひっくり返された。
「俺はオカーサンじゃないからね。ちゃんと自分で支度して」と言われ、思わず折り目正しく「はい」と返事をすると、趙とナンバが、声を上げて笑った。