そばにいること3「ねえ、あの後どうなったの?」
「どうって、何が?」
サバイバーのカウンター、趙は出来れば今一番絡まれたくない紗栄子に捕まっていた。
「浜子さんとこ行ったでしょ?一番と2人で」
やっぱりバレていたか、と思いつつ、趙は平静を装ってウイスキーをひと口なめる。
「ああ、あの時ね。おいなりさんお供えして、浜子さんと店の女の子と4人で花札して帰ってきたよ」
「…それだけ?」
「それだけ」
嘘ではない。
浜子の店は、それまでいた女の子達が青木の策略で強制送還されてしまった後も、同じような境遇の子を受け入れて営業を続けていた。
春日と訪れたあの日は、まだ慣れない女の子達のフォローもあって浜子が珍しく店にいたのだが、早い時間で客足が少なく暇だったからなのか、春日と趙を花札に誘いに来たのだ。
あの時、浜子が二階に来なければどうなっていたのだろう。
あの日、手を引かれてサバイバーを出た時から、趙はなぜか気持ちがふわふわして落ち着かなかった。
なんだか浜子の店に辿り着くのがもったいなくて、朝焼け通りの店の女の子達に声を掛けられては話し込んだり、時間稼ぎのような真似をしてしまった。そうしたら、焦れた春日に手を引かれて。
あの時の、ちょっと不機嫌そうな顔が可愛くて、また気持ちがふわふわしたのを今も覚えている。
いなり寿司を供えて春日の伸びしろの話をしたら、何かを思い出しているような切ない顔をしていた。おおかた荒川親子のことだろうと察しはついたから、追求することはしなかったが、春日が「いつか話す」と言ってくれたことは嬉しかった。
問題はその後だ。
板の間に2人で転がって、とりとめのない話をしているうちに、春日の低くて滑らかな声が心地よくてついうとうとしてしまった。
春日が身じろぎした気配に目を覚ますと、思いのほか間近に思い詰めた表情をした顔があった。
目を覚ます直前、話しかけられていたのはわかったが、内容までは覚えておらず、ごめん寝てたと言おうとしたら唇を重ねられた。
触れるだけの口づけを何度か繰り返されて、突然のことに驚きはしたが、気持ちは意外なほどに凪いでいた。
重なった体、自分にも春日にも、下半身には性的な兆しをまるで感じなかったことに安心していると、肩口に顔を埋められる。
大型犬のようなその仕草とキスをされた意図がわからずに、趙は自分に覆いかぶさった男の背中をあやすようにぽんぽんと叩く。
どうしたの、と趙が聞こうと口を開くと、壁の薄い隣の部屋から、わざとらしいほど大きな女の子の喘ぎ声が聞こえてきた。
どうやら、女の子たちの『お仕事』が始まったらしい。
「…始まっちゃったね」
流石にこの状況は気まずいかな、でもナンバと二人でここを家にしていた時期もあったわけだから、平気なのかもとつらつら考えていると、春日が再び体を起こした。
「…いんだよな?」
「うん?」
覗き込む熱っぽい瞳に、今更ながら自分はすごく大事なことを聞き逃したのではないかと気づく。
「ね、春日くんさっき…」
なんて言ったの、そう聞こうとした言葉は再び聞こえた盛大な喘ぎ声と、階段を上がってきた浜子の声にかき消されてしまった。
結局そのまま聞けずじまいで、浜子と店の女の子と花札をしてお開きになってしまった。
「それだけで、ソレ?」
趙が紗栄子には言わなかったことを思い返していると、呆れたように紗栄子が『ソレ』を顎で差した。
その先には、大輪の百合の花が入った大きな花束。
普段から春日は、仲間達や仲良くしている女の子たちに花束をあげている。
「紗栄子ちゃんも貰ってるでしょ」
「熱量が違うじゃん」
間髪入れずに返す紗栄子に、趙は返す言葉がない。
そうなのだ。
明らかに、今までもらったことのある花束と大きさから豪華さまで違う。
「ちなみにソレ作ったのは俺じゃねえからな。俺がレクチャーして、春日が自分でアレンジして作ってたぜ」
マスターが追い打ちをかけるように言って、趙は盛大なため息をついて顔を覆う。
「…正直、俺もよくわかんないんだよねえ。こんな大きな花束もらう理由…」
普通に考えれば、例えば相手が紗栄子なら、キスされて大きな花束を渡されたとなれば、そういうことだとわかるだろう。
でも自分は男で、相手は春日だ。
「…紗栄子ちゃんはさあ、俺より長く春日くんの仲間をやってるよね?」
「そんな変わらないじゃない?」
「まあでも、俺が仲間になる前の色んなことを知ってるわけじゃない。もちろん、春日くんのこともさ」
「まあ…」
嫌な予感がする、と言わんばかりに眉間に皺を寄せ、紗栄子が曖昧な返事をする。
「春日くんって、よくわからないとこ、ない?」
「ああ…まあ、そうよね…」
思い切って聞いた趙の質問に、紗栄子はため息混じりに同意する。
明るく、優しくて、困っている人を放っておけないお人好し。
義理人情に厚くて、こうと決めたら曲げない信念があって。
春日を表するなら、そんなイメージになるだろう。
しかし、そんなものは、彼の表層に過ぎないと趙は思っていた。
その思いを強くしたというか、確信したのは青木遼と対峙するためにミレニアムタワーに赴いた時のことだ。
行き当たりばったりに見えて計算高いところや、組織の論理やその矛盾を突くようなしたさかさもさることながら、青木遼もとい、荒川真斗への感情の発露を目にして。
青木が刑事を盾に逃走し、春日と2人で対峙した時のことを、詳しくは知らない。知っているのは、春日が後にポツリポツリと語ってくれた断片的は事実だけだ。
あの時の春日は、まるで見知らぬ人のような、そんな印象を受けたのを覚えている。
異人町に来てから出会い、関係を深めていった人達や、仲間にも見せたことのない表情と、言動。
人は相対する関係によって見せる顔は違う。それは趙も同じことだ。
流氓の部下に見せる顔と、春日達に見せる顔が同じのわけがない。
言うなれば、オンとオフのようなものだろう。
しかし、春日のあれは、まるで違う。
馬渕と決別した際に見せた顔を、春日は本当の趙を見ることが出来て嬉しかったと言った。
しかし趙は、同じように荒川真斗と対峙した春日に、とてもじゃないが違う顔が見られて嬉しかったなどとは言えなかった。
むしろ趙は、春日のことをまるで理解していなかったのだと愕然としたのだ。
だから正直、あの事件のあとに、春日が異人町に残るという選択をすることに確信は持てなかった。
義理や受けた恩を大事にして、それを返すことに重きを置いている男だとわかっている。
それでも、春日には、底の知れない部分が多すぎて。
だから、先日のキスの意味も、この盛大な花束の意味も、どう受け止めていいのかわからない。
「…まあ、いっちゃんが何考えてるかわかんない、ってのはわかるわ。じゃあさ、趙は?」
「へ?」
「趙は、その花束もらって、どう思ったのよ」
虚をつかれたように、趙は言葉が出なかった。
花束を受け取った時、その意味にばかり気を取られていて、受け取った自分の感情など、考えてもいなかった。
そもそも花束よりも以前に、キスをされた時は?
嬉しいとか、嫌だとか、ドキドキするとか、どんな感情だったのだろう。
自分のことなのに、まるでわからなくて。
この、バカみたいに大きい花束を差し出したとき、春日は何を言って、どんな表情をしていただろう。
そんな大切なことも、ちゃんと見ていなかった。
「…俺、びっくりしすぎて、ちゃんとお礼言わなかったかも」
「ええ?いや、そんなこと聞いてるんじゃなくて…。ああもう、焦れったいなあ、趙はどうなの、一番のこと、好きなんじゃないの?」
好き?
好きって、そりゃ、仲間だし。
命の恩人でも、この町の恩人でもあるし。
そもそも紗栄子は、なぜ自分が春日を好きかなど聞くのだろう。
「…好きって、どんな気持ちになったら好きなの…?」
呆然と呟く趙に、紗栄子どころかマスターまでが驚きのあまり絶句する。
空気の凍りついたサバイバーには、BGMのジャズだけが静かに流れていた。