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    saruzoou

    @saruzoou

    さるぞうと申します。
    🐉7春趙をゆるゆると。

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    saruzoou

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    仲間とごはんのお話、最後はジュンギになりました。相変わらず需要があるのかわからないけど、書いていた私は楽しかったです。あともう一本を書き下ろして、まとめて本にする予定です。

    ジュンギのおやつ帰宅ラッシュのタイミングとぶつかる形で電車に乗ってしまった春日が、うんざりした足取りでサバイバーへ辿り着き、扉を開けると、そこには珍しい先客がいた。
    ハン・ジュンギだ。
    「お、珍しいな。久々じゃねえか、ハン・ジュンギ」
    カウンターの端の席を陣取ってグラスを傾ける姿が、さすがに様になっている。
    端正な横顔と、誰もが似合う訳ではない銀髪。
    真っ黒なコートの下には体脂肪率一桁の立派な体躯が隠されていて、ゆとりのあるそのコートの中で背筋がピンと伸ばされているのがわかる。
    声をかけた春日に気づくと、切れ長で涼やかな目元がゆっくりと細められ、笑みの形をつくる。
    作りもののような男だと最初は思ったが、今ではだいぶ色々な表情を見せてくれるようになった。
    「あなたを待っていたんですよ、春日さん」
    イケメンは声までいいのかと思うような滑らかな低い声で呼びかけられ、春日は隣に腰を下ろす。
    「俺を?」
    「ええ。以前、春日さんにご協力いただいて、はぐれジングォン派の残党と対峙したのを覚えていらっしゃいますか?」
    「ん?おお、あんたを襲った連中だよな?なんだよ、まさかまた…」
    「先回りして慌てないでください」
    そう言って楽しそうに笑う雰囲気から、良からぬ報告では無さそうだと春日は安堵する。
    「わりい。つい心配になってよ…。で、あいつらがどうかしたのか?」
    「ええ。無事、異人町のコミジュルに合流することになりまして。先日、移住先なども決まってようやく落ち着いたものですから、ご報告に」
    「そうか、そりゃよかった」
    この男が、『ハン・ジュンギ』として生きる理由。
    そのひとつである、自分と同じように行き場を失った同胞を一人でも探し出し、居場所を与えたいという願いには、本当に頭が下がる。
    家族にも恵まれず、どのコミュニティにも受け入れてもらえず、ようやく手に入れた居場所を最悪の形で失って。失意の中、流れ着いたコミジュルで新しいボスを得て、ようやく生きる意味を見い出した。
    どこかでボタンのかけ間違いがあれば命を落としていただろうし、そして、同胞を憎み恨み、暗い闇の底に落ちていくこともあっただろう。
    以前、『自分はボスに恵まれている』と言っていたが、それだけでなく、彼自身にそう言った魅力的な人間に『側に置いておきたい』と思わせるだけのものがあるのだろうと、仲間になって尚のこと思うようになった。
    「異人町に来てから、あなたの正体を知って彼らは慌てていましたよ。謝っておいてほしいということで、伝言を頼まれました」
    「俺の正体?」
    「横浜一の企業の社長で、コミジュル崩壊の危機を救った人物だと」
    「はあ?何言ってんだ、そんな大したもんじゃねえよ。俺なんかどうでもいいから、コミジュルはまだまだ大変なんだし、しっかり支えてやってくれって言ってやれよ」
    「ふふ、あなたならそう言うだろうと思って、先に伝えておきました」
    「なんだよ、なんでもお見通しかよ…。ま、いいけどな。仲間に自分のことをわかってもらえてるってのは、悪い気はしねえからな」
    そう言って照れたように笑う春日に、ハン・ジュンギは困ったように笑い返し、「先日のお礼に、ここは奢りますよ」と言ってマスターにウイスキーを注文した。


    グラスを重ねるうちに、話題はなぜか幼少期の話になっていた。
    「俺はまあ…本当の親を知らずに育ったし、育ての親の父ちゃんや街の連中は何だかんだと良くしてくれたけど、ごく普通の家庭ってもんに憧れはあったよなあ。ちゃんと家があって、母親が帰りを待っててくれるっていう…」
    春日は、どこか遠くを見るような目をして呟く。
    ジュンギは、その薄くグレーがかった複雑な色の目に、懐かしさや寂しさのようなものが浮かぶのに気づいた。
    幼少期の境遇に、春日と自分には共通点は多かった。
    けれど、恵まれないながらも養い親の愛情を受けて育ったのはわかるし、街の人にも受け入れられてはいたのだろう。親がいてもその愛情を知らず、食べるにも苦労した自分には、幼少期は懐かしさの欠片もない、思い出したくない過去だ。
    けれど、春日よりも自分の方が辛かった、などと不幸自慢をしても仕方がないし、居場所のなさを覚えていた気持ちは同じだろう。
    「確かに、私も母親の記憶がほとんどありません。多分、酒浸りの父親から逃げ出したんだと思います。物心つく頃には、もういませんでした」
    「そうか…」
    「そうですね、ですから、母親のいる家庭というものに私も憧れはありました。同じ年頃の子供たちは、母親におやつを作ってもらっていたのが羨ましかったものです」
    口の中が苦くなってくるような記憶を辿り、それでもこうして語ることが出来るようになっただけ、進歩かもしれない。
    それにしても、今まで『ハン・ジュンギ』にもソンヒにも話したことのなかったことを素直に打ち明けてしまったのは、やはり春日の人柄のせいなのだろう。
    そんなジュンギの気持ちを知ってか知らずか、春日は我が意を得たりと言わんばかりに顔をぱっと明るくする。
    「そうなんだよ。俺もさ、ガキの頃に友達の家に遊びに行った時によ、そこん家の母ちゃんがホットケーキ作って出してくれた時は感動したぜ…。いかにも母親の手作りおやつって感じでな。スナックのママとか、実家の姉ちゃん達はチョコだのなんだの既製品のおやつはくれたけど、手作りって食ったことなかったからよ。韓国だと、家庭のおやつってどんなものがあるんだ?」
    「さあ、私は日本で生まれましたし、おやつが与えられる環境で育ってはいないもので…。家庭的なおやつというものはよくわからないですね」
    「あ、そ、そうか…。そうだよな…。わりい」
    「謝るようなことではありませんよ」
    すっかり肩を落としてしゅんとする春日に笑うと、それまでカウンターでグラスを磨いていたマスターが盛大なため息をついた。
    「ったく、なんて話をしてんだ、お前ら。基本的に客の会話に口出ししねえが、辛気臭くて聞いていられねえぞ」
    そう言うと、マスターはカウンターに玉子と牛乳、ホットケーキミックスをどんどんと置いた。
    「は?」
    キョトンと目を丸くする春日にフンと鼻を鳴らして、更にボウルと泡立て器まで用意する。
    「上で二人で作って来い」
    「は?いやいや、俺はホットケーキが羨ましかったって話をしてて、作りてえなんて言ってないっすよ。てかなんで、ホットケーキミックスってこんなもんあるんですか」
    呆れたような春日の目の前にある粉のパッケージには、美味しそうなホットケーキの写真と、家族の可愛らしいイラストが添えてある。ホットケーキを作るための粉とは、こんな専用品があるのかとジュンギは目を丸くする。
    「だから、てめえらで作って、記憶の上書きしろって言ってんだよ」
    記憶の上書き。
    その言葉はジュンギの胸に、すとんと刺さった。
    「春日さん、作ってみたいです」
    思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚く。春日も、マスターまでも目を丸くしてジュンギを見ていた。
    「マジか?」
    「はい」
    こんな風に、自分の意志を通そうとしたことなど数えるほどしかなくて、ジュンギは緊張と僅かな恥ずかしさに耳が熱くなってくるのがわかった。
    春日はまるで真意を探ろうとするかのように見つめてくるし、マスターは明らかに面白がっているしで、居た堪れない気持ちになりながらも引くに引けなくなっていた。
    「よし、わかった!ハン・ジュンギがそこまで言うんなら作ろうぜ、ホットケーキ!」
    にかりと春日が笑ってそう言ってくれたことで、ジュンギはようやく肩の力を抜いた。
    「マスター、作り方ってこのパッケージの裏に書いてある通りで大丈夫なんだな?」
    「難しいこたねえよ。粉に玉子と牛乳混ぜて焼いたら出来上がりだ」
    「それにしてもなんでこんなホットケーキミックスなんかあるんスか」
    「揚げ物するのにたまに使うんだよ」
    「揚げ物?ホットケーキミックスで?」
    「うるせえな、説明がめんどくせえ。趙が帰って来たら聞いてみろ」
    面倒くさそうなマスターに邪険にされて、それでも春日はひでぇなと笑いながら卵や牛乳を抱える。
    ジュンギも材料を抱えて二階に行くと、そこは以前よりもさらに生活感が増していた。
    「…ものが増えましたか?」
    「ん?あー…かもなあ。三人も暮らしてると色々増えたかも…。狭くてわりいな」
    「いえ、友人の家にお邪魔したようで、居心地がいい」
    少し照れくさそうにする春日に笑って告げると、そうかと笑い返された。
    マスターからもらった材料をキッチンのシンクの上に置き、春日が律儀に手を洗う。
    これはきっと、趙の教育の賜物なのだろう。
    「その格好じゃ粉まみれになっちまいそうだよな…。趙のエプロンあったはずだから借りようぜ」
    そう言って押し入れを漁り出した春日に、ジュンギは慌てた。
    趙は、異人町の中華マフィア『横浜流氓』の総帥だった男で、今はその地位から退き、春日の仲間として気楽な生活を送っている。とはいえ異人三の一角を担っていた、ジュンギからすれば雲の上の存在のような男だった。時折、極秘裏に行われた異人三のトップの会合に、なぜか自分だけが帯同を許されて護衛を行っていたが、あの時の緊張感はどうしても忘れることが出来ない。
    今はもう気楽な仲間なんだからと言われても、やはり未だに緊張してしまう相手ではあるのだ。
    「勝手に借りるのは…」
    「大丈夫だって、んなことで怒るような奴じゃねえよ。ほら」
    気軽に渡されたエプロンはきちんとアイロンがかけられていて、ジュンギは申し訳ない気持ちになる。
    「…怒られたら一緒に謝ってくださいよ」
    「はは、わかったよ」
    怒らねえけどな、と笑いながら付け足す言い方に家族のような親密さを感じて、ジュンギは思わず苦笑する。
    そして「さて」と言ったきり、こちらを見つめて動きを止める春日に、訝しげな視線を送る。
    「…私は作ったことなどありませんよ」
    そう告げるとあからさまに肩を落として「だよなあ」と春日は言った。
    「よし、じゃあレシピ通りに作るか…。まずは卵と牛乳を先に混ぜるんだってよ。100ミリ…リットル?って、どう測るんだ?」
    マスターに渡されたのは紙パックに入った1リットル入りの牛乳で、ここからの計量方法が既にわからない。
    「計量カップのようなものはありませんか?」
    「あ!あるわ。米炊く時に使うやつ」
    戸棚から迷いなく取り出すあたり、米を炊く担当は春日なのかと、慣れたその動きに思う。
    「ほら」
    そして春日が笑顔で差し出す計量カップを、作りたいと言った手前、覚悟を決めてジュンギは受け取った。
    手を洗ってからボウルに計量した牛乳を入れ、力加減に不安を覚えながら拙い手つきで卵を割る。殻が入らなかったことを春日がものすごく褒めてくるのでくすぐったかったが、悪い気はしなかった。
    卵を牛乳を混ぜるために使う泡立て器というものを初めて見たので、その不思議な形状をまじまじ眺めていると、「変な形だよなあ」と春日が笑った。
    「でもこれを使うとダマになりにくいんだってよ」
    「ダマってなんですか」
    「知らねえ。趙が言ってた」
    ケロッと受け売りであることを白状する春日に笑って、泡立て器で混ぜる。使い方が果たして合っているのかという不安もあったが、綺麗に混ざり合ってくれて安心した。
    そこにホットケーキミックスを投入し、お約束のように粉をこぼして春日と二人で慌て、また勢いよく混ぜすぎて粉が舞うという惨事も起きた。
    エプロンの意味などなかったほどに粉まみれになってしまったことに笑いながら、フライパンに火を入れる。
    説明書きの『熱したフライパン』がどのくらいの熱さがいいのか分からず、あまり熱くしてしまうのも怖いと日和った結果、超低温の状態で生地を流し込んでしまい、固まることなくてろりとフライパンの中を広がって行く。
    いつまでも『プツプツと気泡が出る』状態にならず、ガスの火力を上げると、途端に焦げ臭くなり、煙まで出始めたので二人は大いに慌てた。
    両面を焼くためにひっくり返さなければならないが、何を使って返すのかがわからない。
    春日が大急ぎで階下のサバイバーに戻り、マスターから『フライ返し』という新たな調理器具を受け取って戻ってきたので、それを使って返す頃には生地の端は黒く焦げていた。
    「やべえ、全然きつね色じゃねえ!いや、大丈夫だろ、まだ!」
    火加減を調節して、裏面はなんとかうまく焼けたのに安堵し、フライパンから皿に移す。
    2枚目からは少しずつ慣れて、パッケージにあるような『きつね色』に仕上げることが出来るようになった。
    二枚ずつ焼いたホットケーキの、最初の失敗したものを春日が自分で食べようとするので、ジュンギはそれを制して「自分が食べる」と言った。
    皿に乗せたホットケーキにバターを塗って、小さなテーブルに運ぶ。まさかビールと一緒にというのもおかしい気がして、残っていた牛乳をコップに注いだ。
    古く小さなテーブルに、不恰好な手作りのホットケーキと牛乳。
    「おお…こりゃ完全に子供のおやつだな…」
    「確かに…。そしてこんな夜更けにバーの二階で食べるものじゃないですね…」
    「はは、ほんとだな。しかもオッサンの食うものでもねえな」
    春日が愉快そうに笑うので、釣られてジュンギも笑い、二人で向かい合ってテーブルの前に座る。
    「いただきます!」
    ご飯なのかおやつなのか、よくわからない時間に普段料理をほとんどしない二人で試行錯誤して作ったホットケーキ。
    その記念すべき一枚目の焦げの目立つホットケーキを、ジュンギは口にする。
    サクサクを通り越して硬く、焦げた部分は苦いのに、白い部分は生焼けで、甘さも感じず、粉っぽい味がする。
    「…どうだ?」
    「焦げた部分は苦くて、真ん中は生焼けです」
    「マジかあ…。まあ明らかに失敗だよなあ、無理して食わなくていいぞ」
    「いえ…」
    「ん?」
    ぴたりと動きの止まったジュンギに、春日が不思議そうに首を傾げる。
    「私がコミジュルに保護されたばかりで腑抜けていた頃、ろくに食事も取ろうとしなくて」
    ぼんやりと、焦げたホットケーキを見つめたままポツポツと話し出したジュンギを、春日は静かに見守った。
    「ある日、ソンヒが、自らホットケーキを持ってきてくれたことがありました」
    「…わざわざソンヒが?」
    「ええ。それが、これと同じように生焼けで、なのに端は焦げていて。あまりに美味しくないので、思わず笑ってしまいました」
    組織のボスがわざわざ自分で運んできた、不恰好なホットケーキ。
    食欲などまるで湧かない中で、そんなものを差し出されても食べる気にはなれなかったが、さすがに無下にも出来ず、渋々口に運んだ。
    かさかさに乾いた唇と、感覚の鈍くなった舌に、それでも伝わった味。
    もう生きる意味などないと思っていたのに、『美味しくない』と感じた瞬間、自分はまだ生きたいのだと悟った。
    そして笑った。
    ボスを失ってから、初めて笑った。
    「…それって、ソンヒが自分で作ったんじゃねえの?」
    「今思うと、そうかもしれませんね。ふふ、その時に私は、面と向かって『美味しくない』と言ったんですよ」
    「マジかよ…。それでソンヒはなんて?」
    「『そんな贅沢を言えるなら大丈夫だな』と」
    「敵わねえなあ、お前んとこのボスは…」
    「ええ。私も、この人には一生敵わないと思いましてね。ついていくことに決めました」
    子供の頃の記憶ではなかったが、自分の中にホットケーキの思い出があったことに、胸がじわると温かくなる。
    「…春日さんのおかげです」
    「ん?何がだ?」
    「失敗したホットケーキのおかげで、大事なことを思い出しました。きっとこれが美味しく出来ていたら、思い出さなかったでしょう」
    「そりゃ喜んでいいのかね…」
    複雑な顔をして春日が首筋をなぞる。この男が、困ったり照れたときに見せる仕草だ。
    そんなことがわかるようになって、それだけの期間、この男と一緒にいるのだなとジュンギが小さく笑うと、扉を控えめにノックする音がした。
    春日とジュンギが顔を向けると、そろそろとドアを開けて顔を覗かせたのは趙とナンバだった。
    「ただいまぁ〜…。なんかさあ、マスターに上行って様子見て来いって言われたんだけど、何してんのぉ…?」
    恐る恐ると言った様子の二人に、ジュンギはにこやかに笑いかけて、一度言ってみたかった言葉を口にする。
    「おかえりなさい!」
    「お、おう、ただいま。元気いいな、ハン・ジュンギ…」
    趙の後ろから顔を覗かせたナンバが驚いたように返事をして、それに満足してジュンギが笑う。
    「ハン・ジュンギと二人でホットケーキ作ってたんだよ」
    春日が笑って答えて、経緯を説明する。
    上着を脱いだり、手を洗ったりしながら聞いていた二人は、なんとも言えない、マスターと同じような顔をしていた。
    「それで、上手に出来た?」
    ビールを片手にテーブルの前に腰を下ろした趙が聞いてきて、思わず春日とジュンギは目を合わせる。
    「いや、失敗した」
    「ホットケーキなんて混ぜて焼くだけだろ?なんで失敗するんだよ」
    「それは料理をしたことのある人間だからそう思うんだよ」
    不思議そうにするナンバに春日が口を尖らせて反論して、趙とジュンギが笑った。
    「じゃあ、俺が作ろっか?まだ材料残ってる?」
    趙の提案に他のメンバーが一斉に目を輝かせるが、春日があることに気づく。
    「あ、粉と卵はあるんだけどよ、牛乳使っちまった…」
    「そう?少しなら残ってる?」
    「どうだったかな…」
    そう言うと春日は立ち上がって台所に向かい、趙もそれについていく。
    出しっぱなしだった牛乳のパックを軽く振って中身が少しだけ残っていることを確認した趙は「大丈夫かな」と小さく呟いた。
    「こんなもんで足りるのか?」
    「いや、ホットケーキは無理だから、ドーナツ作ろうかなと思って」
    「ドーナツって作れるのか⁉︎」
    「作れるよ。それにしても派手に散らかしたねえ」
    シンクの中に残された、ホットケーキの残骸にまみれたボウルや泡立て器、粉まみれの台所を見て趙が呆れたように呟く。
    「片付けます!」
    サッとジュンギが立ち上がりキッチンに向かうと、趙は驚いたように振り返る。
    「大丈夫だよ、作りながら片付けるし。洗い物は春日くん得意だから。ね?」
    「う、はい…片付けます…」
    それでも逡巡するジュンギに、趙は労わるように笑いかける。
    「ドーナツ好き?」
    「ええ」
    「じゃあ、すぐ作るから待ってな」
    そう言って腕まくりをした趙が、ボウルを洗い直して軽く拭き、ホットケーキミックスと卵、そして少しだけ残っていた牛乳を入れ、ゆっくりと手を使って混ぜ始めた。
    その様子をジュンギと同じように横で興味津々で見ていた春日が、趙の手元を覗き込むように身を寄せると、そのままするりと腰を抱いて、肩に顎を乗せた。
    「泡立て器使わねえのか?」
    「ドーナツなら手の方がいいんだよ。前に餃子の皮作ったでしょ?あんな感じ」
    「ふうん。牛乳足りたのか?」
    「まあ足りなかったら、水でもいいし」
    趙は春日からのスキンシップに顔色ひとつ変えず、それどころかピクリとも反応せずに淡々と会話をしている。
    そのあまりに自然な様子に、ジュンギはどうリアクションしていいのかわからなかった。
    仲間内のスキンシップとして、このくらい密着するは普通のことなのだろうか。
    今まで、同胞以外に信頼のおける仲間などいたことがなかったから、判断が出来ずに戸惑う。
    側から見ても春日と趙には他の仲間達とは違う絆のようなものを感じたし、一緒に暮らしていれば、家族のような親密さが生まれるのは当然なのかもしれない。
    「おい、ハン・ジュンギが困ってるだろ」
    テーブルの前に腰掛けたままのナンバが呆れたように言って、趙が不思議そうにジュンギの方を向く。
    そこでようやく状況を理解したのか、趙は突然、春日に肘鉄を入れた。
    「いってェ…!」
    呻くように言ってよろけた春日を尻目に、趙はサングラスの奥の目を揺らしている。
    異人三の会合ですら、近江連合と対峙した時ですら平静だった男のあからさまな動揺に、いっそこちらの方が狼狽えてしまう。
    「エプロン似合ってるね」
    「は?え?あ…!申し訳ありません、勝手に借りてしまいました。洗ってお返ししますので…」
    借りたエプロンをしたままだったことに今更気付き、外そうとすると趙は首を横に振ってそれを制す。
    「いいよ。あげるから、それしてソンヒにもホットケーキ作ってあげなよ」
    「え…」
    春日が先程ナンバと趙に話した、ホットケーキを作る経緯の中にはソンヒの思い出の話は出なかった。その辺の気遣いの判断を春日らしいとは思ったが、なぜ趙がソンヒの名前を出すのだろうと少し胸がざわついた。
    「異人三の会合で、なんで君だけが帯同を許されていたか知ってる?」
    追い討ちをかけるように、趙が思わせぶりなことを聞いてくる。
    星龍会の髙部、横浜流氓の馬渕ですら知らされていなかった真実を、当時まだ異人町に来て日の浅い自分だけが知らされたのか。
    何も言えずにいると、趙がいつもの余裕を取り戻して笑う。
    「今度教えてあげるね」
    何も答えられずにいるジュンギの前に手を伸ばし、使ったまま放り出していたフライパンを手にして、軽く拭く。
    そこに油を多めに流し込んでコンロの火をつけると、懲りずに春日が近寄ってきた。
    「ドーナツって焼いて作るのか?」
    「違うよ。揚げるの。揚げ物用の鍋がないし、油が勿体無いからフライパンで代用。生地も本当ならリング状にするんだけど、面倒だから丸めて作るよ」
    「中華風か?」
    「いやなんでも中華風なわけないでしょ」
    「あれだろ。だって、サーターなんとか」
    「それは中国じゃなくて沖縄だね」
    春日とくだらない掛け合いをしながら、趙は器用に生地をどんどん小さく丸めたものを作っていく。
    フライパンに箸を入れ、何かを確認したと思ったら、小さな生地をそうっと入れていく。
    途端、ジュワッと油のはねる音と、周囲に漂う甘い香り。
    「あ、すげえ、ドーナツの匂いだ!」
    春日が子供のように喜ぶのを、趙が笑う。
    そんな、何気ないながら幸せな光景を間近で見て、ジュンギも思わず口元を綻ばせる。
    「ソンヒに持ってく?」
    油の中で何度か転がして、きれいなきつね色になったドーナツをキッチンペーパーを敷いた皿の上に移しながら趙が聞くのに、ジュンギは首を横に振った。
    「いえ。今度、私が作ります」
    「そう?」
    ジュンギの答えに、趙は面白そうな顔をしながら、それでもどこか嬉しそうだった。
    「はい。味見してみて。熱いから気をつけてね」
    そう言って、趙がドーナツを乗せた皿を差し出す後ろで、春日が不満げに口を尖らせている。
    少し優越感を感じながら手を伸ばし、一口サイズのドーナツを口に入れると、さくっとした軽い歯ごたえと、失敗したホットケーキからは感じなかった甘さを感じた。
    「なあ趙、俺も、俺も」
    子供が母親に纏いつくような拗ねた口調の春日を、ナンバが笑う。
    部屋に残る焦げくさく苦い空気を、甘く温かい匂いが覆っていく。
    苦しかった記憶は、消えることはないだろう。
    でも、それを上回る些細な幸せを、マスターが言うように上書きしていけたら。
    「どう?美味しい?」
    わかっていて聞いてくる趙に、ジュンギはいつもの自信を取り戻して、ようやく余裕の笑みを浮かべる。
    「悪くありませんね」
    「生意気だなぁ」
    そう言って笑った趙の後ろから、春日が皿に手を伸ばす。それを趙が目視もせずにパシンと音を立てて払い除けて、ナンバとジュンギは声を上げて笑った。



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