風邪を引いた話。平日の昼間、趙がふらりとサバイバーに顔を出すと、開店の準備中だったマスターが声も出さずに階段を顎で示した。
趙の方もそれだけで意味がわかってしまい、それでもこんな昼間に?という疑問を拭えないまま、ゆっくりと階段を上がる。
そもそもは春日一番と仲間達のアジトとして、その後は趙と春日とナンバの三人の居候先として落ち着いた部屋の扉を開けると、押し入れに体半分を突っ込んで何かを探している春日がいた。
「珍しいねえ、こんな昼間に」
趙が声をかけると、モゾモゾと押し入れから這い出して来た春日の手には薬箱が抱えられていた。
「ん?趙?あ〜まあ、ちょっとな」
明らかに見つかりたくなかったという顔をして、春日が頬を掻く。
「怪我した?」
さりげなさを装って薬箱を隠そうとするのを見逃さずに趙が聞くと、春日は一瞬きょとんとした顔をした。
無防備なその表情をかわいいなと思ったところで、趙はその顔が僅かに赤らみ、目が潤んでいることに気づく。
「…ん?熱あるね?」
「…やっぱり、そうだよなぁ…」
観念した春日がため息をついて、薬箱を開く。
「えりちゃんにも熱あるんじゃないかって言われて帰されたんだよ。大丈夫だとは思ったんだけど、まあ寒気もするし、関節も痛いような」
「それ完全に熱あるでしょ。会社に体温計くらいないの?」
「計ったらもう駄目だろ」
なんだかよくわからない理屈を言って、春日はようやく風邪薬を探し当てた。
いつもより動作の緩慢な春日の隣に腰を下ろし、その顔を覗き込む。
律儀に見返して来たその首筋に触れると、やはりいつもより熱い。
「お前の手、冷たくて気持ちいいな」
すっかり気を許して甘えるような仕草を見せてくれることに喜びつつも、趙は苦笑しながらその額にも触れる。
「外から来たからね。春日君が熱いんだよ」
不満げな唸り声をあげるのに笑って、再び首筋に触れると気持ちよさそうに春日は目を閉じる。
思いのほか熱も高いし、怠そうにも見えるので、実はかなりしんどいのかもしれない。
「…病院行った方が早いんじゃない?」
咳や喉の痛みと違って、熱なら注射や点滴などで早く治すことも出来るかもしれない。
そう思っての提案だったが、春日はわかりやすく眉を顰めた。
「そこまで重症じゃねえよ」
「でもきっと治るのは早いと思うよ」
尚も趙が食い下がっても、春日はうーんと小さく唸って、探し当てた市販薬の箱を開け始めた。
こりゃ行く気はねえな。
苦笑する趙の前で、春日は錠剤を手に取り出す。
「あ、ちょっと待って。春日くん、ご飯食べた?」
「あ?いや、朝に食ったきりだな…」
いよいよ面倒くさそうな応対をする春日にめげず、趙は薬を持った手を掴む。
「胃の中空っぽじゃん。そんなんで薬飲んだらダメだよ」
「いや大丈夫だろ。今から飯とか面倒くせえよ」
思わしくない体調と、このやりとりに苛立って、春日は珍しく投げやりな態度を取る。しかし、趙の方も諦めずに、顔を近づけて額を重ね、至近距離で目をじっと見た。
「…早く治してくれないと、チューも出来ないから言ってんの」
「……ッ」
息を飲んだ春日の顔がより赤くなったのに気をよくして、趙はするっと立ち上がる。
「お布団入ってな。簡単なものすぐ作るから」
「食欲ねえ」
子供の拗ねるような甘えた口調がくすぐったくて、趙は口の端が緩むのを堪えながら「うるせえ」とわざと乱暴に言った。
炊飯器に残っていた冷ご飯を小鍋に入れ、水を足して火にかける。その間に搾菜を細かく刻んで、ふつふつと煮立ち始めた鍋に入れて軽く混ぜ、味見をする。塩気が少し足りなかったので顆粒の中華だしを入れさっと混ぜて茶碗に入れ、結局畳の上に座ったままぼんやりと趙を見ていた春日の前に差し出した。
「…お粥か?」
「まあもっと簡単なものだけどね。食べやすいし、あったまると思うから。ほら、布団行きな」
「だからそんな重症じゃねえって」
根負けしたのかふわりと漂う匂いに食欲が湧いたのか、春日は苦笑しながら茶碗を受け取って、さらに手渡されたレンゲでふうふうと冷まして口に運ぶ。
「…あ、うめぇ」
「はは、そりゃよかった。それ食べたら薬飲んで少し寝なよ。ちょっと寝るだけでも良くなるから。じゃ、俺は出かけてくるから」
元々ちょっと休憩をしようと思って立ち寄っただけだったので、趙はそのまま踵を返した。
自分がいない方が休めるだろうと思ってのことだったが、春日は趙の言葉に戸惑うように小さく「え」と呟いた。
「ん?」
「あ、いや…今日は帰ってくるのか?」
「うん。そんな大した用じゃないし、すぐ戻るけど」
「そっか…」
茶碗を持ったまま、ここに来て心細いという様子を隠すこともしない春日に、趙は扉に向かっていた足を止め、春日の目の前に座り直す。
「わーなに、待って春日くん」
「何だよ」
拗ねたような警戒したような硬い声でそう言った春日が僅かに顎を引くので、趙は逃げられないようにその肩を掴む。
「俺がいたら休めないんじゃないかなあって思ったんだよ。実は俺もさぁ、あんまり寝ないまま店の仕込みと昼営業やって、疲れたからひと休みしようと思ってここに来たんだ。いてもいいなら、俺もちょっと寝てもいい?」
半分嘘を織り交ぜながら、趙が捲し立てるように言うと、春日はさすがに苦笑した。
「構わねえよ」
嘘など見抜いて、それでも受け入れてくれた春日に趙も緩く笑って「ありがと」と短く答える。
春日の手から茶碗を取り上げ、趙はそのままするりと抱きつく。
頬を寄せた首筋がいつもよりも熱くて、やっぱり熱っぽいなと改めて思ったところですり寄るように抱き返される。
「…あったけえ」
ぼんやりと呟かれた言葉はどこまでも無防備で、趙はなぜか泣きたい気持ちになるのを誤魔化すように、茶碗と一緒に持ってきていた水のペットボトルを手に取る。
「はい、薬飲もう」
「はいはい、わかったよ」
体を離して苦笑しながら水を受け取った春日が、手にした錠剤を水で流し込んだ。
「ほら、飲んだぜ」
あ、と口の中を見せてくる春日に笑って、趙はその頭を軽く撫でてから抱きしめ、後ろの万年床に倒れ込む。
思いがけず押し倒される形になった春日が、戸惑いと、ほんの僅かに期待を滲ませた目で見上げてくるのに趙はぞくりとして僅かに身を震わせた。
「…誘惑しないでよ」
額を小突いて呟いた声は思いのほか低く掠れて、そんな声を出してしまったことに趙も苦笑する。
春日が何か言い返すよりも先にその頭を抱き込んで、足で器用に掛布団を手繰り寄せて二人の体の上に乗せる。
もちろん、春日の体ににしっかりと覆い被さるように。
もともと熱もあってぼんやりとしていた春日は、されるがままで趙の胸の中で安堵したように深く息を吐く。
抱え込んだ腕の隙間から、とろりと眠そうに下がる瞼が見えて、趙は茶化すことなく静かにその瞼が閉じていくのを見守った。
「…ナンバは子供の頃って、具合悪いの隠すタイプだった?」
「いやあ、俺は37度の熱で大騒ぎするタイプだったな」
「あはは、そっちかあ」
密やかな話し声に目を覚ました春日が頭を巡らせると、布団から少し離れた場所に置かれた小さなテーブルを挟んで座る、趙とナンバの姿があった。
部屋には暖かく甘辛いような匂いが漂っていて、時折、話の合間に麺を啜る音がする。
「具合悪いと、親が心配したり世話焼いてくれるだろ?うちは弟がいたから、そんな時だけ独り占め出来るみたいで嬉しかったし、単純に学校休めるのも嬉しかった」
「確かにね。学校休めるの嬉しかったな」
「おまえはどうだったんだ?」
「俺?俺もまあ、ほんとに小さい頃は具合悪くすると大人が右往左往してチヤホヤしてくれるの楽しかったけどさ、そのうち具合悪いの隠すようになったね。家が家だから」
「あ〜、そうか、そうだよな…」
ほんの少し間があいて、趙が「春日くんはさ」と小さく呟く。
「あいつは隠しただろ」
間髪入れずに言葉尻を継いだナンバに趙は「だよね」と言って小さく笑う。
大勢の大人に囲まれて、その誰もが忙しそうだったり自分よりもよっぽどしんどそうだったりした中で、物心ついた頃にはもう誰かに甘えるなんてことは出来なかった。
時折、育ての親に「もっと甘えていいんだぞ」と言われたけれども、そもそも甘え方がわからなかった。
きっと、趙もナンバもそんな春日の幼少期を想像出来ているのだろう。
それぞれが思いを巡らせたような沈黙の後、趙がふっと息だけで笑った。
「なんか、だからさ。こうやって、ちょっと具合悪いって気づけるようになってくれただけでも嬉しかったんだよね」
「ん?」
言葉の意味を図りかねたようにナンバが聞き返すと、趙がこちらに視線を寄越すそぶりを見せたので、思わず春日は目を閉じる。
「…色々あったじゃん、ずっと。多少の具合の悪さなんて感じる余裕もないくらいにさ。けど、ようやく『熱っぽい』とか『だるい』とか気付けるくらいに普通の生活できるようになったし、ちょっと休もうって思えるようになったんだなって」
「ああ…」
ようやく合点がいったとナンバが相槌を打って、呆れたような笑いを漏らす。
「お前、ほんと…一番がごく普通の生活すること喜ぶよなあ」
「はあ?ナンバは嬉しくないのかよ」
明らかに照れ隠しのような拗ねた口調になる趙をナンバは笑って「別に」と気のない返事をする。
そのあと再び麺を啜る音がして、その音に釣られるように春日の腹がぐうと音を立てた。
「…二人で何いいもん食ってんだよぉ」
恨みがましく寝転がったまま春日が言っても、ナンバは驚いた様子もなく「やべ、バレた」と笑う。
「起きた?熱は?下がった?」
趙はすかさず春日を覗き込んで、熱を確かめるように首筋に触れた。
それを見たナンバが呆れた様子で「母ちゃんか」と突っ込むが、春日も趙も、母親の看病というものを知らずに育った身だったので、戸惑うように首を傾げる。
「あ、おう、なんか悪かったな…」
ナンバが顔を引き攣らせて言うのに笑って、趙は再び春日に向き直る。
「ちゃんと春日くんの分もあるよ。食べられそう?」
「おう。腹へった。なに食べてんだ?」
春日が起き上がりながらそう聞くと、額からヒラリと落ちたものがある。
「なんだこれ?」
青いジェルが付いた湿布のようなものを不思議そうに手にした春日に、ナンバは呆れたように「冷感ジェルだよ」と言った。
「春日くんが熱出したって連絡したら、ナンバが帰りに買ってきてくれたんだよ。あと、鍋焼きうどんもね。天ぷらと餅があるけど、どっちがいい?」
「…天ぷら」
「オッケ〜。玉子も入れちゃうよ」
鍋焼きうどんがどんなものだったか思い出しているうちに、趙は自分の分は食べかけのまま、立ち上がって台所に向かう。
「食ってからでいいんだぞ」
立ち上がるのが何となくだるくて、横着をして布団の中から声を掛けると、趙はただ手をひらひらとさせる。
堪らず立ち上がって、古い小さな台所のコンロの前に立つ趙の横に並ぶ。趙は少し笑って、それでもどこか嬉しそうに「寝てていいのに」と言いながら、うどんと具材が詰められたアルミの鍋を手にする。
「鍋焼きうどんってこれか…。なんか懐かしいな」
「そうなの?俺初めて見たよ。便利だねえ、これ。洗い物も出ないし」
水を入れて火にかけるだけで出来上がる簡易鍋は、子供の頃からよく食べていた。事務所の隅にあった給湯室。腹にも溜まるし体もあったまるので、いつのまにかひとりで作れるようになっていた。
荒川組の組員になってからも、寒い日にはよく作って食べていた。
「俺が唯一出来る料理だぜ」
遠い昔の苦い記憶を誤魔化すように自慢げに伝えれば、趙は「これ料理っていうの?」と笑う。
「ガス使えば立派に料理だろ。コツはかき混ぜないでじっと我慢することだな」
「なるほどね」
愉快そうに笑って、趙は具材とうどん、だし汁を全て鍋に入れて火にかけた。火がついたのを確認してから台所を離れ、食べかけだった自分の鍋を持って戻る。
どうするのかと春日が見守っていると、鍋つゆと具材の残った鍋に、ご飯と玉子を入れて火にかけた。
「物足りなかったから、雑炊にしようと思って」
「お、いいな」
パッと顔を輝かせる春日に笑い、二つの鍋の火加減を見守る。
「俺、お前のそういうとこ好きだなあ」
「ん?」
深い意味は無さそうに呟かれた『好き』に趙はどきりとして、思わずナンバにチラリと視線を向ける。ナンバはまったく何も気にしていないように、うどんを啜っていた。
「なんつーか、食べることを楽しむっていうかよ…。腕があるからなんだろうけど、アレンジ?とか出来るのすげえなって」
「…食い意地が張ってるんだよ」
素直な賞賛がくすぐったくて、照れ隠しにしか聞こえないことを言えば、そんなことはお見通しの春日が頬を緩める。
「顔色良くなったね。もう大丈夫?」
「おう」
「それはよかった」
二人で顔を見合わせてヘラヘラと笑っていると、テーブルの方からナンバが「おい、鍋!」と呆れたように声をかけてくる。
吹きこぼれそうになっている鍋に慌てて火を緩め、また二人で笑う。
「趙、俺の分も雑炊作ってくれよ」
「え〜?自分でやりなよ」
「くっそ、この差!」
趙のつれない返事にナンバが吐き捨てるように言って、趙はけらけらと笑う。
春日はどこかくすぐったいような顔をして、鍋の仕上がりを確認して火を止め、自分の分を持ってそそくさとテーブルに向かう。
「いや、素手で熱くねえのかよ!」
「平気だろ、こんくらい」
ケロッと告げて、ナンバが予め敷いていてくれた雑誌の上に鍋を下ろす。
その後ろから鍋つかみをちゃんと使った趙が自分の鍋をテーブルに置き、ナンバの鍋を取り上げ、台所に戻る。
「悪いな」
「すぐ出来るから大丈夫だよ」
結局ナンバの分も雑炊をつくって、趙がテーブルに戻ると、春日が手をつけずに律儀に待っていた。
「先に食べててくれてよかったのに。冷めちゃってない?」
「一緒に食いてえだろ。鍋が熱いから冷めてねえよ」
照れくさそうに告げた春日はいただきます!といつもの調子で言って、勢いよくうどんを啜り、アッチと短く声を上げた。
たわいのない話をしながら食事を続けて、春日が最後にずずっと出汁を飲み干し、手を合わせて「ごちそうさまでした!」と切れよく告げる。すると趙とナンバが顔を見合わせてるので、春日は首を傾げた。
「いや、うん…雑炊、いらなかった?」
趙が空になった鍋と春日を見比べながら気まずそうに聞くと、春日はああっと悲痛な声を上げる。
「しまった…!」
「具は何にもないけど、玉子おじやでも作ろうか?」
この世の終わりのように絶望する春日をナンバと趙が笑って、慰めるように趙が聞くと、春日はパッと瞳を輝かせて返事をしようと口を開いたが、徐ろに咳き込み始めてしまった。
その咳が咽せたなどという音でないことをしっかり感じ取ったナンバが「なんだよ悪化してんじゃねえかよ」と心配を隠して呆れたように口にする。
苦しそうにしながら首を横に振る春日の首筋に趙が素早く触れて、「あ〜熱あるわ」と呟く。
「ゲホッ…な、んでもねえよ!」
「夜になって上がってきたのかもねえ」
「歯ぁ磨いて薬飲んですぐ寝ろ、一番」
ナンバが押し入れに薬を取りに行き、趙が台所から水を取ってくる。
まさに至れり尽くせりの状況に、春日は照れ臭さもあって「なんでもねえって。咽せただけだっつうの」と抵抗を見せる。
趙はイタズラを思いついた顔をして、春日の手を掴んだ。
「ほらほら、一番君は、お薬飲んでねんねしようね」
子供に言うようなふざけた口調。
でも趙のその声で、『一番』と呼ばれたことで、春日の顔がぶわっと赤くなる。
「やっぱり熱あるね」
「ちが、これは…」
「いいから早く寝よ」
「う…わかったよ…」
観念したように布団に移動した春日に薬と水を差し出したナンバが、にやにやと面白がるような悪い笑みを浮かべている。
それに苦虫を噛み潰したような顔をして春日は薬を受け取り、一息に飲むと、頭まで布団を被る。
不貞腐れたような態度を笑ったナンバと趙の二人は、静かにテーブルの上を片付けて、自分達も寝支度を始めた。
布団の中で軽く咳き込んで目を閉じた春日は、人の生活音を聞きながら眠ることがこんなにも心地良くて安心してするものなのかと改めて思いながら、ほんの少し寒気のする体を丸めて眠りに落ちていった。
翌朝、額に保冷ジェルを貼って眠る春日の画像がナンバから送られてきた仲間たちは、各々バナナやプリンを持って、お見舞いという名の見物にやってきた。
冷やかそうと仲間たちが戸口から部屋を覗くと、布団の中から身を起こした状態で、趙からお粥を食べさせてもらっている春日の姿があった。
そのアホらしいほど平和な様子に仲間たちが死んだような目を向けるのを、ナンバだけが爆笑していたのだった。