口紅の色(エマエミ+泥棒)「ち、ちょっと、っこ、濃いんじゃないか?」
「おい、なあ、ウッズさん。」と聞こえるように呼びかけられてしまったので、仕方なくエマが振り向くと、振り向きざまに、痩せて骨ばった、それでいて指の節に毛の絡んでいる不衛生な印象の男の手を出し抜けに伸ばされていて、そのまま頬に触られそうになっていたので、普段から浮かべている習い性の微笑みも、思わずひくりと引き攣った。
不幸中の幸いにも、それは混沌試合の試合待機席についていたときのことで、エマがそれとなく身を躱して、隣り合った席から身を乗り出して、思いの外近くまで伸ばされてきていた男の手から少し距離を取ったところで、それは全く自然な動きであったし、自分たちを除いて他に六人の環視があるところで声を荒げるほど、彼は度胸がある人じゃない。エマは、そういうことをきちんと心得ていた。
触れそうなところまで近づけた手をわざと避けられたことは察したのか、彼女を呼び止め、その頬に触ろうと手を伸ばしていたピアソンは、いかにも不機嫌そうな様子で露骨に顔を顰めて見せたものの、エマの読み通り、声を荒げるほどのことはしなかった。彼はその代わりに、猿の威嚇めいて、黄ばんだ歯を剥き出して見せるような醜い笑い顔を見せながら、「こ、ここが」と言いつつ、自分の口元を指差す。
「ま、まあ、わっ、悪くはない、と、おお、思うぜ、お、女らしくて……っで、でもさ、それは、その、っと、年増の色だろ? あ、あんたには、もっと、うす、薄い、い、色のほうが……」
ピアソンさんが何かよくわからないことを言いだす、というのは、今に始まったことじゃない。けれど、(この人、今日も何を言っているのかよくわからないなあ)と思いながら、エマが自分の顎に手をやって首を傾いだところで、ひとつ思い出して、エマはつい、「あっ」と声を漏らしてしまった。そうやってひとつ思い出してしまうと、ますますそのことしか考えられなくなって、自分の頬が勝手に熱くなっていくのがわかる。
そうして、彼が何を言っているのか、どうして自分がそんなことを言われたのか今はっきりと理解したエマは、その原因を指摘してきた男の前に晒しているのもきまりが悪いものの、敢えてそれを拭ってしまうのも惜しいと思いながら、両手で自分の口元をぱっと隠しながらもじもじとしてしまう。それを見たピアソンさんは、何とも厭らしい感じに細めた目でニヤッと猥りがわしく笑って、また何か、エマにとっては嫌な、下品で、何か汚らしいことを言って来ようとした雰囲気があった。けれど結局、彼が何か言ってくるよりも先に試合が始まったので、エマは開始早々、心からほっと胸を撫でおろしたのだった。
その試合は、参加したサバイバー全体としては負けてしまったけれど、脱出には成功した。いつもと同じ、晴れの気配が微かにうかがえる白っぽい曇り空の荘園に戻ってから、エミリー先生の部屋で手当てを受けている最中、試合前にあったことを、エマがエミリーにひっそりと教えてあげると、彼女は白粉を綺麗に塗った顔をぽっと赤くしてから、蒼褪めた額にほっそりとした柳眉を寄せて、いっそう困った顔をしながら(だから駄目と言ったでしょう!)と言いたげなとがめだてする眼差しを、エマの顎のあたりに向けたけれど、彼女が続けて言葉にしたのは「……日中は、そういうことを控えるべきね……」という、柔らかい言葉でしかなかった。彼女はそう言いながら、まるで何かを思案している風に目を細めて、自分の顎に片手を宛てているけれど、本当は自分の顔を覆って、その場でおろおろと足踏みしながら、外聞もなく恥じ入りたいと思っているのを我慢して、それとなくそっぽの方を向いている。
考え事をしているフリをしているときの先生の、きれいに口紅を塗られたくちびるが少し尖って見えるのが可愛いと思って、エマがそこに顔を寄せて口付けようとすると、エマが近づいてくるのを予想していなかったみたいなエミリーは、驚いたように身体をぎくりと少し硬くしながら、患者さんが座る椅子から少し腰を上げて、彼女にキスをするために顔を近づけたエマの肩に触ると、手の平で軽く押してくる。まるで、(駄目よ)って言うみたいに。でも、彼女のやさしいブラウンの瞳をエマがじっと見つめながら、「だめかな?」と尋ねると、彼女は息が上手く吸えなくなるような苦しそうな顔をしてから、エマを止めたがる手を下ろしてくれるのを、エマはちゃんと知っている。だから、良いの。先生はエマを嫌がっているんじゃなくて、エマのために、いろんなことを考えてくれているだけだもの。
柔らかくて少しひんやりしている先生の唇に唇を押し当てて、そのかたちを確かめ合ってから、ぽかぽかした気分でエマが離れると、エミリーはすぐに、テーブルの小物入れに入れていた綺麗なガーゼを、急ぎだからと指で抓んで取り出してくると、慌てたようにガーゼを取り出してくる彼女に少し驚いて、ぽかんとしているエマの唇をきゅっと拭う。
「あ~っ!」
勿体ない! と、エマが思わず残念がってあげた声をよそに、先生は口紅のついたガーゼを机の下にある小さなゴミ箱にそっと捨てると、それからすっかり恥じ入るように、両手で顔を覆ってしまった。