可哀想な人(泥庭医 ※学パロ) 施設育ちのピアソンが、少なくとも両親の揃った中流階級以上の生徒が多いその学園に入学することになった経緯は、ある種“お恵み”のようなものであった。
そこには施設へ多額の寄付したとある富豪の意向があり、また、学園側にもその富豪の意向と、「生徒たちの社会学習と寛容さを養う機会として」(露悪的な言い方になるが、要はひとつの「社会的な教材」として)という題目があり、かくして国内でも有数の貧困問題地区に位置するバイシャストリートの孤児院から、何人かの孤児の身柄を「特別給費生」として学園に預けることになったのだ。
当然、そこには選抜が必須であり、学園側からの要求は「幼児教育の場ではない」のでつまりはハイティーン、少なくとも10代の、ある程度は文章を読み書きできるもの(学園には「アルファベットから教える余裕はない」のだ)であり、その時点で相当対象者が絞れてしまった――自活できる年齢になると、設備の悪い孤児院に子供がわざわざ留まる理由もない。彼らは勝手に出ていくか、そうでなければ大人に目をつけられ、誘惑ないしだまし討ちのようにして屋根の下から連れ出されるものだ。あとに残るのは自分の下の世話もおぼつかないウスノロか、自分の名前のスペルだけようやっと覚えた子供ばかり――兎も角、そういうわけでそもそも数少ない対象者の中で、学園側が課した小論文試験を通ったものの内の一人がピアソンだった。
彼の他に選抜された孤児、いずれも元々自分の家があったものの、不慮の事故といった不幸な巡り合わせや経済的な事情により、施設に預けられるにあたって初等教育を断念したものとは違い、彼は生粋の路上育ちであったが、同じような境遇を持つ者と同様に生存に貪欲であり、その中ではいたって頭の出来が良かった。少なくとも彼は、孤児を人間より羊のようなものとして見ている施設の中でも割合に学のある方だった。何せ彼は幼いころ、物乞いとして糊口をしのぐ一方、工場学校(工場で歯車として働く子供に対して社会主義者が気まぐれに開講していたものだ)に紛れ込んでスペルや簡単な計算を覚え、さらには熱意あふれるそこの講師から本を“失敬して”文字の練習をしていた程だった。腕っぷしが強く、暴力沙汰になればまず彼には勝ち目のないような連中の腰巾着として、例えば銀行から金を引き出すために必要な手形のサインを偽装したりという小手先の仕事を請け負うためであり、それは彼の生存戦略だったからだ。
そういうことを繰り返している内に警察に捕まったが、年齢が低すぎるということで刑務所の代わりに孤児院に預けられることになった彼にとって、出資金を募るための文章を適当に書き連ねるというのは得意分野でもあった。かくして、彼は自分の体の丈に合った服というものを生まれて初めて与えられたが、それに対して感じることと言えば、有り難みよりもむしろ窮屈さであった彼は、与えられた制服を、上流階級からするとひどく「みっともない」着崩し方をして、堂々と出歩いた。
施設から来た数名の転入生は、諸々の配慮のもと、転入時期は新入生の入学時期と併せて、彼らがそれであるということは生徒たちに大々的に宣伝されるようなことはなかったものの、着こなしや振る舞い方、言葉遣いに始まり果てにはささやかな仕草の癖から、生徒たちは鋭敏に異物を感じ取り、近寄れば臭いが移ると言わんばかりに遠巻きにする者が少なからずいた。また、彼らと積極的に関わろうとする“寛容な”生徒の中にも「孤児院から来た連中」という認識はあるからか、些細な言葉尻からかえって転入生側の不興を買い、騒ぎになることも多かった。
元々はそれなりの家でそれなりの教育を受けていたところから零落した子供たちですらそうであったのだから、路上で生まれ育ち、身なりについても大した指導を受けていないピアソンは余計にそうであった。生徒側から彼に悪意を向けるものも勿論あったが、そもそも彼の方も学園に元から在籍している富裕層の子供もとい「お上品な連中」への敵愾心がいたって強く、親切から差し伸べられた手に唾を吐きかけ、並びの悪い歯を剥いて嗤って見せるようなことをするから乱闘になるのである。
また、特にピアソンの場合、路上で磨かれた彼の手管――その手癖や、潜行の才能――は、そもそも学内に存在したよからぬ連中の隆盛を招いた。不良の子供というのはどこにでもいるものであり、ここでの彼らは秘密裏に外の盛り場との連絡路を持ち、学内に禁制品を持ち込んで売買することで利益を得るような連中であったが、それらの面子の中に犯罪歴という意味では生え抜きの者が加わることで、彼らが扱う商品の中にはさらに盗品が加わることとなった。つまり、「特別給費生」の受け入れは、異物の参入によって学内に融和的なムードが醸造されることを期待した学園側からすると、却って治安の悪化を招いたという面白くない結論に終わったということだった。
彼らはあらかじめ選抜試験を通過しているとはいえ、学業の面でも当然ギャップを抱えていた――教員側も入学時点で異なる試験を設けられ、多くの生徒とは異なる学習背景を持つ施設出身者を受け入れる体制が出来ていない中での転入だったこともあり、施設出身の転入生のほとんどは授業についていくことを諦め瞑想の時間と割り切るか、招いておきながら雑に扱いやがって面白くないと思ってか、やたらに妨害を試みることもあったし、時には授業に出ること自体を放棄する者もいた。
その日の午前中は机の上に脚を載せて高いびきを搔いていたが、午後になって座って居られる気もしなくなったピアソンは午後の授業を放棄することにし、すがすがしい秋空の下、他の教室やグラウンドなんかで授業を大人しく受けている連中に見咎められないよう潜行しながら学内をうろついていたところ、構内にあって今は黄色の落ち葉を大量にこしらえている林の程近くを迂回するための、整備はされているが人気のない通路の側に丁度いい茂みを見つけたので、その下に潜り込んで一眠りすることにした。
ピアソンが息苦しさを感じて目を開けてみたとき、寝ぼけ眼に白い塊が見えた。胸の上に重く温かい柔らかな石が乗っているようだ。例の白猫だろう。それはこの学園で珍しいことでもない。誰が世話をしているのか知らないが、構内では栄養状態も毛並みも良い猫が我が物顔で歩き回っているのだ。忌々しい気分で口角をひん曲げたピアソンが、胸の上にのっしりと座っていた猫を平手でぶつように追い払おうとすると、ふてぶてしい面構えの猫はそれをひらりと交わすと、どこか不満げにふすふすと鼻を鳴らし、自慢の長毛に草や泥を跳ねさせながら茂みから出ていく。
「あら、こんなところにいたの?」
猫を見送ってから(やれやれ毛だらけにしやがって)とうんざりとした溜息を吐きながら制服の胸元を手で払いかけていたピアソンは、思いのほか近くから、予想だにしていなかった他人の、それも、女の声が聞こえて来たことに気付いた驚きから、咄嗟に息を殺した。近くに林ぐらいしか無いものだから誰も寄り付かないのだろうと思っていたが、来るやつは来るらしい。
一体こんなところに、どんなやつが来やがったのかと彼が音を立てないようにそうっと身体を起こして、茂みの影から外の様子を恐る恐る覗いてみると、制服を着て手には工具箱をぶら下げている茶髪の女子生徒が、円らな緑の目で、明らかにピアソンを見返してきていた。
「っ!?」
まさかここにいることがバレているとは思っていなかったピアソンが茂みの中をがさがさと後退ったのを見ると、彼女は円らな目をぱちぱちと瞬きながら「あっ、ちょっと、待って!」と茂みに向かって声をかける。
「これ、あなたの帽子じゃない?」
彼女が持っているのは、ピアソンにも見慣れたチェック柄のハンチング帽だった。入学時には破れもほつれもない新品を制服として与えられたのだが、習い性で物陰に隠れたり乱闘騒ぎに巻き込まれたり、後はうっかり尻に敷いて座ったりしている内に早くも型崩れして少し破れているそれは、間違いなくピアソンのものだった。彼がそれでも用心深く、念のため自分の頭に手をやってみると、そこに被っている筈の帽子がない。寝ている間にズレたものを、例の猫が持っていったのだろう。
「…………。」
例えるなら、年甲斐もなくかくれんぼに励んでいたところを赤の他人に見つけられたような、どうにもバツの悪そうな様子でむっつり黙り込みながら、自身の顎髭についた枯草を指で取り払いつつすごすごと茂みから出て来たピアソンを見ても、彼女は顔色を変えなかった。彼のしている見るからにみすぼらしい下層階級の着こなし(彼はそれを意図してやっているというわけではなかったが、意図せずそのに所作が染み込んでいるというのが、この国にはびこる階級社会のグロテスクな側面であった。)を見るだけで、さながら目の前で尻を捲られたかのように眉間に深くしわを寄せて不快感を表明する生徒というのは少なくもなかったのだが、彼女は感じのいい柔らかな微笑みを浮かべたまま、土や葉を払うのもそこそこのピアソンに向かって帽子を差し出すと、「アレキサンダーさんが持ってきちゃったのね」と言った。それがピアソンを敷布団にしていた白猫の名前らしい。
「っこ、こいつ……ね、猫の癖に、ず、随分、た、大層な、なっ、名前を、し、してやがるもんだ。」ピアソンは彼女に礼を言うでもなく猫を睨みながら悪態をついたが、少女はその口ぶりの意地の悪さをあまり気に掛ける様子もなく、「新入生の人なの?」とさらに会話を続けようとする。
それ自体、ピアソンにとってはやはり、どうにも異常な事だった。彼を見て二言以上会話をしようとする連中は、禁制品に興味があるか、それとも禁制品の流通路に興味があるか、あるいは、学園において目にすることができる最底辺の出自を持つ人間をにやにや見下しに来た者かのおおよそ三択だったが、目の前の女子生徒は、明らかにそういったことと関わり合いにはならなさそうなそれだった――彼女は校則から一字一句違わず制服をきちんと着こなしている訳ではなく、シャツの第一ボタンを開けている程度の「許容範囲」の着崩しをしているが、どこか垢抜けない印象の女子生徒だった。履いているチェックのスカート丈は膝よりも僅かに長く、何よりその顔立ちはいかにも無害に可愛らしい。健康的な肌色をして、ガラス玉のような丸い目で、化粧っ気の殆どない、ともすれば、あどけない程の顔立ちをしていた。
彼はこの手の少女からまともに、それも、過剰に怯えられることなく扱われるのは初めて(そもそもそういった類いの人間は、まず路地裏には寄り付かない)のことであり、かえって彼の方が、これにどう言葉をかけるべきか迷って結局何も言い出せずにいた。やたらと何かもの言いたげにはするものの、結局モゴモゴと口籠るピアソンを前に何か事情があるのだろうと思うことにしたらしい彼女は、愛らしいその微笑みのまま、「それじゃあね」と言って去って行った。
その晩、禁制品の取引を終え、ろくに清掃義務を果たさないので早くも荒んだ雰囲気のある荒れ果てた寮の部屋に戻り、孤児院のものと比較すれば遥かに柔らかく快適に軋むベッドに潜り込んだ彼は、久しぶりに夢を見た――夢に見た夕方は涙が出るほどきれいで、金色に輝いていた。新しく買った自分のための家の屋根は煌々と光って、さながら宮殿のように見える。その家の中で、夕方に会ったあの少女が、編み物をしながら彼の帰りを待っているというものだった。つまりは一目惚れだった。
彼女がエマ・ウッズという名前で、園芸部に所属しているということは、程なくしてピアソンの知るところになった。翌日に早速例の茂みに隠れて彼女らしい人影を待ち伏せし、偶然を装って声をかけたピアソンが、呼び止めておきながら視線をあちこちにやって、これ見よがしに落ち着かなげにソワソワしつつ、「きっ、きき、昨日の、っれ、れれ、礼を、礼を言いたかったんだ」とどもりどもり絞り出すように言うことに、「お礼なんて、エマは何もしてないもの……」と、彼女の方から名乗ったからだった。
「え、ええ、エマ エマっていうのかお前、い、いや、ききっ、君、は、……」
ピアソンはしきりに目を泳がせながらも、気を抜くと不躾になる口調を、わざとらしい調子になることも構わずに意識して改めた。その方がより「紳士らしい」ことだと理解していたからだ。女はそういうものが好きなんだろう。
「……エマ・ウッズなの。」
何かしらの考え、もとい企みのあるように見えるピアソンの仕草を少し怪訝に思って(しかし、相変わらず顔にはそれと出さず、無害そうに柔らかく可愛らしい微笑みと共に)彼の様子を伺いつつも、エマは屈託のない声でそう答え、さらに普通の会話らしく、「あなたは?」と、名乗りを促しさえした。
「わわわた、私は、クッ、クリーチャー・ ッピ、ピアソン、と、い、言う」
「そう」
制服を着ている(だから少なくとも、この学校に籍を置いていることだけは確かではある)とはいえ、どうにも緊張し通していて挙動不審な男から、さながら女衒のする値踏みめいて上から下までじろじろ見られながらも立ち話に応じるエマの両手には、昨日の工具箱ではなく、花を生けた水入りのバケツがあった。まるで彼女の立ち姿でも確認しようとしているのかという勢いでエマの周りをぐるぐると歩き回り、四方から彼女の姿を、彼女が被っている白い麦わら帽子に巻かれた紫色のリボンから、少し履き古された黒っぽいブーツの先までじろじろ目線で舐め回しているピアソンが「なんだそれは」とバケツを指さして聞いてみると、二回顔を合わせただけの、それも、身なりと振る舞いからして、あまりまっとうではなさそうな男に近付かれて自然と萎縮するように首を竦め、一歩だけ後退りかけつつ、彼の動向を伺い見ながらその場に立ち止まっていたエマは、「先生に頼まれて、お花を持っていくところなの」と答えた。
何でも、園芸部で育てている花は時々、主に教員からの要望に応じて、学内の各所に供出される。彼女は見事な庭の作り手らしく、それ故に、園芸部は部活の既定人数を満たしていないものの、多少お目こぼしを貰って部として存続を続け、予算も別枠で宛てられているのだそうだ。
「な、なあ、ウ、ウウ、ウッズさん、その、ち、ちょっと、む、むこ、向こうで、はっ、話さないか」
エマが(これ以上話すこともないし、適当な挨拶を言って立ち去ろう)と思っていたそれを実行に移すよりも早く、ピアソンは程なくして、妙にわざとらしく明るく装うような調子がやけに耳につく言い方で、そんなことを言い出した。
というのも、彼からすると最早これ以上の言葉を交わす必要もなく、将来の為お互いをよく理解する為に〝次のステップ〟に進むべきだろうという確信があった。彼からすれば、(ここまで俺に話しかけて来て嫌な顔ひとつしないんだから、この女はクリーチャーに気があるに違いない)と思い込むのに十分だったのだ。それと同時に、昨日恋に落ちたばかりの彼の頭はとんでもなくおめでたい仕上がりになっており、普段であれば認知こそ歪んでいるものの、多少はまともに回る筈の頭が全く回っておらず、目の前で可愛らしくしているエマに晒され続け、一も二もなく飛びついたとも言えるが――兎に角、そんなことを言い出したピアソンは、平生は生活苦の沁み込んだようにやや血色の悪い顔色を熱っぽく染めながら、手汗の滴る程の手で彼女の右手首を掴んで、自分の方へ引き寄せようと強く引っ張った。
「エマ、お花を持って行かないと……」
それまで愛想良くしていたエマはそこで初めて、連れていかれることを拒むように両足を踏ん張ってその場に留まろうとしながら、怯えるように声を揺らしたものの、ピアソンにとってそれは(そもそもの問題として、エマが拒否をしたところで止まるような品性のある男だったかどうかは疑問ではあるが)赤信号になり得なかった。
「っあ、後で、あとで届ければ、い、いいだろ? そんなの」
「でも、先生に頼まれてるの」
わかりやすく不機嫌に言い捨てられたピアソンの言葉に、エマはなおも懸命に、それでいて丁寧であろうとする態度で応じながら、掴まれた腕を遠慮がちに振って、ピアソンの手を振り払おうとする仕草をした――そのささやかな抗いが、ピアソンの目には、とんでもない侮辱であるようにも映っていた。
最初から応じる気がないのであれば、これ見よがしにいい顔なんかして、声なんかを掛けてくるべきじゃない。これは、お前の行動がもたらした結果だろう! だというのにこの女はまるで、勝手に思い込んだクリーチャーに迫られて、自分が乱暴をされていると言わんばかりに怯え、それでも自分を惨めだと思う心があれば手を離すだろうという慢心があるのか、自分の力ではどうしようもない罠にはまったことを察した小動物めいたおどおどとした様子でクリーチャーの顔を伺い見ながら、「だから、ピアソンさん、手を離して。」と、ささやかな程の声で訴えてくる。その程度で、一体何を拒めるっていうんだ? ここは人通りがないのは、今に始まったことじゃないだろうに。
「いっ、いい、いいから、来いよ!」
苛立ちからついに声を荒らげたピアソンが、握り締められた彼女の手首の関節が華奢な手応えを返してくるのも構わずそこを強く握り込みながら、エマを茂みの中へ引っ張り込もうとすると、(貧困の只中で成長期を過ごしたピアソンは、決して身体の作りがしっかりしている訳ではなく、骨の目立つ痩せ型の身体をしていたが、それにしたって)男の力で手加減なしに引っ張られたエマはすぐさまバランスを崩し、「きゃっ」と哀れな悲鳴を上げながらその場に転んだせいで、切り花と水の入っていたバケツが、重みのありながら呆気ないぐらいの音を立ててひっくり返り、中に入っていた水と花とが、茶褐色に整備された道の上にぶちまけられて、急ごしらえの模様を作った。
「あ、お花が……!」
通路に散らばった花を拾い集めようと屈むエマが悲痛な声を漏らしているのも構わず、ピアソンは彼女の手首を掴んだまま、無慈悲に引き摺って行こうとする手を緩めなかった。実際、花に手を伸ばそうと藻掻きながらも腕をしっかりと掴まれている彼女は、ずるずると薄暗いところへと引き摺られて行きつつあった。
しかし、そうやって必死に指先を伸ばしてなんとか手繰り寄せた一本の切り花を手に取ったエマが、彼女を物陰に引っ張り込もうとする男の力に抗いながら、花の茎の切り口を男の顔に向けると、「いや!」と拒絶の声を上げて投げた刹那、それまで手の感覚がなくなるぐらいの強い力でエマの手首を掴み、それを手がかりにしてエマを引き摺っていた男の手が、急に緩んだ。
それまでその力から逃れようと強く踏ん張っていたせいで、急に手を離されたエマはかえってその場に尻もちをつき、制服のスカートを水で汚した。勿論、ここでこのチャンスを逃す手はなく、今すぐにでも逃げるべき局面だということは彼女にも理解できていたものの、対応の変化があまりに急なことだったので、エマの方も少なからず驚いていて、(何かあったのかしら)と、つい直前まで彼女に暴力を振るおうとしていた男の様子――まるで頬を張られでもしたかのように背中を丸めて俯き、うめき声を漏らしていた――を伺ってみる。すると、顔を隠している彼の手には、エマがついさっき投げた切り花が、見ていて花が可哀想になるぐらいの強い力で握り潰され、折れ曲がって、早くも萎れているように見えた。花をバケツに集めた時、せめて飾られるにしても、水を良く吸い込んで少しでも長持ちするようにと斜めに鋭く切りそろえた茎の断面から、赤黒い血がぼたぼたと滴っていた。
もしかすると、切り花が目に刺さったのかもしれない? もしもそうなら、エマの状況にとってはこの上もないことだった。すぐに怒りだしてエマを怒鳴りつけて、拳を振り上げるようなことはしないだろうから――彼女はその連想に少し安心して、先刻バケツをぶちまけたせいでできた水たまりから立ち上がると、水の沁み込んでしまったスカートを絞り、それから、先程のピアソンによる乱暴のせいで通路に散らばった切り花を拾い集めて、今は空になったバケツに入れて行った。
そして一通り花を拾い終え、花の入ったバケツを片手に下げたエマは、余程深く刺さったのか、未だに自分の目を押さえてついにその場に蹲り、うんうんと唸っているピアソンに向かって驚いたことに近寄っていくと、「ピアソンさん、保健室の場所はわかるかしら?」と、まるで先程の狼藉が無かったかのように、カナリヤの囀るような可愛らしい声で、親切なことを言った。
何事も無かったかのような態度で微笑みを浮かべながら手を差し伸べてくる彼女のその態度に、ピアソンは一瞬憎しみさえ感じて顔をいたく顰めたものの、先刻丁度茎が刺さったところの傷口が顔に皺を寄せたせいでじくじくと痛みだし、またおそらく目の中で出血でもしているのか、視界がいっそう赤く靄のように濁る気配が広がったため、慌てて小刻みに頷くと促されるままに彼女の肩を借りて、保健室へと連れていかれた。
「目に小枝が刺さっちゃったみたい」と言って、施設からの転入生を(それも、片手で目を覆って呆然としている男子生徒に肩を貸すようにしながら)連れて来たエマに対して、保健室を預かる養護教諭は特段何も言わなかった。何せ、彼女が連れて来た男子生徒は明らかに眼球が傷ついており、部位が部位ということもあって速やかに専門医を受診する段取りをつけるべきで、彼の方が緊急性が高いのは明らかである以上、彼を連れて来たエマの制服のスカートが多少汚れていることに気付いていたとはいえ、それに敢えて声をかける程の余力はなかった(それに、仮に何かが起こっていたとしても、被害者が加害者を手ずから救助するとは考えづらい)。
しかし、養護教諭の不在中、その職務の一部を委員活動として代行するよう保健室に呼び出され、校則の一字一句に従いかっちりと制服を着こなした姿でやってきた保健委員のエミリー・ダイアーは、汚れた自分の制服について、「水たまりを踏んで、転んじゃった」と手を後ろに組んで何食わぬ顔で証言する彼女の後輩であり、親しい友人であるエマの手首に、(彼女自身がそれを片手で覆って隠しているので、はっきりと何かが見えたわけではないが)赤黒い色をした痣が残っていることを見逃さなかった。
「エマ、その……何かあったの?」
養護教諭と男子生徒が連れ立って部屋を去った後、エミリーはそのまま部活動に戻って行こうとするエマを呼び止めると、診察用に丸椅子に座らせつつ彼女の右手を手に取り、泥に汚れたフィンガーレスグローブを丁寧に外した。
そうすると、先刻まで彼女の手首をきつく握りしめていた男の手指の痕が、エマの白い手首に食い込むように残っているという、グロテスクなぐらいの様相が、遮るものもなく、はっきりと明らかになっていた。
「……あの人は、施設からの転入生よ。こういうことは、あまり言わない方がいいけれど…………〝普通〟の素行の悪さじゃないの。ちょっとおかしいのよ。とんでもない「趣味」を持っている人かもしれない……何か問題があったなら、ちゃんと報告しないと」
ほっそりとした柳眉の眉尻を下げ、端正な顔を不安げに曇らせながらそう続けるエミリーに、エマは普段と何ら変わるところのない柔らかな、それでいて屈託のない親し気な微笑みを見せて、「エマは大丈夫よ」と言った。
「エマが転んじゃった時にね、あの人が助けてくれたの。ピアソンさんは、見た目は怖いけど、いいひとよ」
エマがまるきり普段通りの穏やかで柔らかい、やさしいばかりの声で続ける言葉に、エミリーはつい疑義を呈したくもなった。一体どこでどうやって転んだら、こんなに強い痣が付く程手首を握って助けることになるのか。それこそ、高いところから落ちかけたとか? それはそれで、色々と不安になることだわ。しかし、エミリーは何かと思うところがあったとはいえ、形の整ってふっくらとしているその唇を閉じ、逡巡するようにその場で黙りこくってから、「そう……」とだけ返事をした。
相手の言い分を無闇に疑うべきではないというのは、彼女の性分でもある。押しも押されもせぬ模範生である彼女が、あくまで個人的な意見としてもそれらしい疑念を呈すると、彼女を信頼する生徒や教師たちの間で、それがあたかも真実であるかのように扱われる傾向があることを、彼女は模範生として自覚しているからだ。
例の転入生に限っては、かえって疑念の段階で排除してしまった方が、今後の憂いもなく学内の治安維持にも貢献することになるのではないか、というようなことを思わなくはなかったものの、そもそもここに入ってきた経緯が特殊な生徒であるからして、素行が格別に悪い「という疑惑がある」といっても一筋縄に行く話ではないのかもしれないし、その中で「エマが標的にされた」という話が出回ること自体が、可愛らしく心優しい一学年下のこの友人にとって、特に望ましくないことだろうということも、エミリーには察しが付くことでもあった。
「……でも、痣になっていて、凄く痛そうよ。だから、包帯だけ巻いてもいいかしら?」
あとは、冷やすぐらいしかできないけれど、と申し訳なさそうに続けられるエミリーの提言に、エマは一も二もなく頷き、「お願いしたいの!」と明るい返事をしながら、手首の具合をよく見る為にエマの手に添えられていた彼女の手を両手できゅっと握った。
***
それから三日後、二人の園芸部員と一緒に構内の中庭で掃除をしている最中だったエマの前に現れた例の転入生ことクリーチャー・ピアソンは、片目に眼帯を付けていた。彼はあからさまにむくれた調子でずんずんと近付いてくると、「やっ、やあ、ウ、ウッズさん」という、エマにだけ話しかけるにしてはやけにわざとらしい、恐らくは彼女の周囲に向けたものと思われる――全くの他人としていきなり絡んでいる訳ではなく、こいつとは知り合いで、俺は正当な用があって話しかけているんだという不機嫌な宣言に聞こえなくもない――これ見よがしな挨拶の後、声を低く顰めると、「あああの時、お、俺の目に刺しやがった、あ、あの、はっ、花の名前、を、おお、教えろ」と、随分とふてぶてしい態度で続けた。何でも外部の医者から、よりによって有毒植物が組織を傷つけているので、予後の為にこの植物が何だったか確かめて来るように、という話があったらしい。
「あ、ああ、あんたのお陰でさ、俺はしばらく、っこ、これを、つつ、付けていなきゃ、いい、いけなくなったんだぜ」
そう言って片目につけた眼帯をうざったそうに親指で弾きつつ、「こっ、このまま、ク、クリーチャーの目が潰れたら、あ、あんたさ、どうしてくれるんだ?」と若干茶化すような気配のありながらも、はっきり恨み言めいて刃物のように向けられた言葉に、エマはつい目を丸くして、「だってピアソンさんが、すごく乱暴なことをするんだもの」と、非難するにしてはあっさりとした、ただ驚いただけというような声で応じた。
「っさ、最初から、おおお、お前がっ! クッ、クリーチャーに、おお、おとッ、大人しく、つっ、ついてくればいいだけだろう!?」
多少は申し訳なさそうな顔ぐらいするだろうと予想していたところから、あまりにもはっきりとそう言い返されたピアソンは目を尖らせて、爆発する寸前の爆弾がするような不穏な揺れのある調子で声を震わせながらまた声を荒らげかけたものの、中庭には彼女の他に園芸部をはじめとした何人かの生徒が居り、目に見えた不良が女子生徒に絡んでいるように見える状況に向かって、目を逸らしながらも絶えず不審げな眼差しをちらちらと送っているということは頭から抜けていなかったようで、一瞬声を荒らげかけた彼は、すぐさま周囲をせわしなくきょろきょろと見回した後、聞くからに情けないようなささやかな舌打ちを打って引き下がると、「ち、ちょっと、な、〝仲良く〟したかっただけなのに、クソッ あんた、お、大袈裟だな……」などとぼやくように言い、不満のありそうに唇を尖らせた。
「あなたって、可哀想な人ね」
唇を尖らせていたピアソンに向かって、エマは目を丸くしたまま、悪気の無さそうにそう言った。
「はは…………ウ、ウッズさん、あんたは……ず、随分、の、のびのびと、そだ、育てられたみてえだな?」
エマのあまりにもはっきりとした言葉を喰らったピアソンが口角を引き攣らせ、威嚇めいて黄ばんだ歯を剥きながら(それは遠目には、薄気味悪いにやにや笑いにも見えた)低い声で威圧するようにそう続けたところで、エマはおどおどと怯えるような様子もなく、少し困った風に眉を下げるばかりである。
ピアソンには、彼女の怯みもしない、余裕めいたその態度が、一体どこから来るものなのか、よくわからなかった――この女が薄らボケたおめでたい頭をしていて、何も考えていないからこうも屈託なくニコニコしているのか、それとも、自分の優位性を疑っていない(聞くところによると、この女の父親はこの学校で教鞭をとっているらしい)上、どうせ衆人環視の場では何もできないと高を括って、あろうことかクリーチャーを挑発してきているのかの判別がつかなかった。こういう甘やかされて育ってつけあがった女には、「男に対する口のきき方」というものをしつけてやる必要がある。だが、これ以上教師に目を付けられても、面白いことは何もない…………。頭に血の上がった状態のままろくに考えも回らず、次の行動を決めかねたピアソンは、憤りから拳を強く握り締めながらも罵声と共に振り上げるという決断もしかねて、結局「ははは……」とわざとらしい笑いを零して誤魔化し続ける。
「手伝ってくれたら、教えてあげてもいいのよ」
こうしてわけのわからなくなっているピアソンが、眉間に皺を深く寄せながら引き攣り笑いを繰り返しているのを、エマは暫くきょとんと眺めていたが、彼がいっこうにそれを辞めないのを見ると流石に様子がおかしいと思ったのか、例の如く円らな緑の目で不思議なものを見るように彼をじっと見たあと、そう言って、他でもない、先日彼女に無礼を働こうとした張本人の男に見せるにしてはあまりに呆気なく、にこっと笑いかける。
つい先ほど、(彼にとっては)挑発めいた言葉を返された分、返事には少なからず悪意らしいものを想定していたところで肩透かしを食らうような提案を受けたピアソンは、呆気なく微笑まれたことに出し抜けに高鳴り締め付けられるような痛みを覚えた胸元を押さえ、自分の首に直接まいてぶら下げているネクタイを余裕なく握りしめながら、まるきり胡乱なものを見るように(または、片目の視界が封じられていることもあってだろうが)茶色く濁ったような色をした目を眇めて彼女を睨んだ。しかし、睨まれたエマはそれを大して気にした様子もなく、相変わらず手首に包帯の巻かれた右手を上げると、中庭の隅にある手押しの運搬車とそのそばに積み上がった数袋の堆肥の方を指さして、「重いのがいっぱいあるの。ピアソンさんが運んでくれたら、とっても助かるわ!」と、屈託なく続けた。