嫌いなもの:全ての香水の匂い(広義のウィラマサでエブマサ) チェス盤から逃れることを望んだ駒であった彼女は、空を飛び立つことを夢見た鷹の姿に身を包んでこの荘園を訪れ、その結果、煉獄のようなこの荘園に囚われることとなった。そこにあったのは、天国というにはあまりに苦痛が多く、しかし地獄というにはどうにも生ぬるい生活の繰り返しである。命を懸けた試合の末に絶命しようとも、次の瞬間には、荘園に用意された、自分の部屋の中に戻される――繰り返される試合の再現、訪れ続ける招待客(サバイバー)、未だに姿を見せない荘園主、荘園主からの通知を時折伝えに来る仮面の〝女〟(ナイチンゲールと名乗る〝それ〟は、一見して、特に上半身は女性の形を取ってはいるものの、鳥籠を模したスカートの骨組みの下には猛禽類の脚があり、常に嘴の付いた仮面で顔を隠している。招待客の殆どは、彼女のそれを「悪趣味な仮装」だと思って真剣に見ていなかったが、彼女には、それがメイクの類等ではないことがわかっていた。)――彼女はその内に、現状について生真面目に考えることを止め、考え方を変えることにした。考えてみれば、この荘園に囚われていることで、少なくとも、あのチェス盤の上から逃げおおせることには成功している。
「君は何故、その名前を使い続けるんだ?」
翼をもつウロボロスの環、その中央に下向きの三角と点が一つ入った、恐らく古代風の紋様の入った目隠しを常に付けている占い師からのその質問に、〝マーサ〟は、いかにも優秀な軍人らしい誠実な眼差しを、逡巡する具合に僅かに細めてから、カーキ色の軍服に袖を通している腕を所在なさげに組んだ後、「他に、仕様がない……」と、喉を絞られているかのように押し殺した、それでいて、幾分苦し気な声色で答える。
何でも予知能力者であるらしいこの男には、彼女が知らない「彼女の本名」さえも、見透かしているのかもしれない。しかし、それは〝マーサ〟のあずかり知るところではなかった――チェスの盤上で生き続けていた彼女は、何者にでもなれるからだ。偽装に長け誰でもある彼女は、つまるところ誰でもない。「誰でもないもの」に成ることはできない。彼女が荘園を訪れたその時は、まさにそれこそが、彼女の致命的な欠点となったが――兎も角、彼女は荘園を訪れた(もしくは、そこに「潜入した」)その時の身分を、そのまま使用し続けた。当初彼女と同じ試合に参加した占い師だけが、明らかな偽の身分を使い続け、その役柄を演じ続ける彼女を何かと気にしているようであったが、他の二人は特段気に掛けている様子もなく、何となれば、彼らは最初の試合で致命的な問題となった「彼女は本来〝マーサ〟ではない」ことも、すっかり忘れているような様子でさえあった。
チェス盤から逃れた彼女、もといマーサの荘園での暮らしは比較的穏やかに過ぎて行ったのだが、それでも彼女はある時から、睡眠に問題を抱えるようになった。軍規に則し共同生活の中で、得てして規則正しい生活習慣を保持するという「軍人らしさ」のイメージと、一見して神経の問題であるように考えられがちな「不眠」の問題という取り合わせは、なかなか似つかわしくないように思われたものの、敢えてそこに目くじらを立ててマーサを苛む上官のような人間はここにはいなかった。
彼女の変調に気が付いた人間は何人かいた。目の下にくっきりと浮かんだクマを厚化粧で誤魔化そうとしたマーサに声を掛けた医師は、「無理もないことだわ」と、いかにも「こういったこと」に慣れている(つまり、何らかの要因によって神経を痛めつけられた人間の扱いに慣れている)ような穏やかで冷静、それでいて、献身的にやさしく響く柔らかな調子の声で言った。
「あんな恐ろしいことを、延々と繰り返さなければいけないんですもの……」
文字通り「命がけ」であることに間違いない試合の再現の場では、運よく皆がゲートから荘園に戻ることもあったが、全く振るわずに全滅し、次の瞬間荘園に〝戻されている〟ことや、目の前で誰かの脱落――つまり、一時的なものではあるものの、損壊される人体――の場面を見ることも、そう珍しくはない。試合の場でサバイバーを追いかけ回す化け物である「ハンター」の気質も様々であった。
ここで起こりうるあらゆる残忍を心得ている風にブラウンの思慮深い眼差しを向ける医師は、彼女に対して睡眠薬の処方を提案したが、マーサはそれを、「まずは自然な形での入眠を試したい」というようなことを言って断った(し、医師もそれを特段問題視することはなく受け入れて、規則正しい暮らしと適度な運動等、睡眠の質を高める為の有用と考えられるいくつかのアドバイスをした。)が、それは実のところ、言ってしまえば、口からでまかせの言葉であった。彼女は睡眠薬が自分に作用しないことを知っていたから、敢えてこれ以上処方されたところで意味がないと考え、断ったのであった。組織では新入りに対して、まずそういったものへの耐性を付けさせるものだった。
とはいえ、表面上は医師のアドバイスを受け入れることにしたマーサは、まず生真面目な彼女らしく、ウィンターガーデンの奥に広がる雑木林でランニングを試み、それから眠りの床についたが、その日も眠れなかった。「極端なストレスは、睡眠の質を損なうわ」と言う医師は、著しく行動を制限されるこの荘園では難しいことだけれど、という前置きをしつつ、まずは自分のストレスを特定して、そこから少しでも、それを軽減する手がかりを見つけるという「状況の分析」という手法を彼女に勧めたが、分析も何も、マーサには心当たりというものがなかった。ただ、眠れない。それだけで、その理由が何故かはわからなかった。
このひどい不眠を〝マーサ〟ならばどうやり過ごすか、というプロファイリングの手法も、この問題の前に用をなさなかった。そもそもマーサは、このような極端な状況に置かれて、長く耐えられるような人格とも思えない――或いは、彼女はどんな残酷な状況の元であろうと、仲間の助けになることを糧に、この日々をヒロイックにやり過ごすかものかもしれない。しかし、仲間をよく助けることに成功した日すら、彼女に安寧の眠りが訪れることはなかった。
〝マーサ〟ではない自分など、そもそも存在しない。存在しないそれをどう振舞えばいいのかわからないから、彼女はあくまで、マーサであり続ける他なかった。眠れない。医師は憔悴する彼女の様子を見て、「まずは眠りの周期を整えることを優先しましょう」と、しきりに睡眠薬を勧めるが、マーサはあくまでそれを拒んだ。平行線をたどる医師との会話の後、どこからともなく現れたバーメイドは、まるで気が置けない友人に路上でばったり遭遇したという大層な気安さを持って、心なしか襟の寄れたカーキ色のジャケットを着ているマーサの肩に腕をがっしりと回してくると、続けざまに彼女の自信作であるらしいドーフリンを勧めたが、酒精の臭いが鼻につくその提案も、マーサはきっぱりと断った。
マーサは己を律していた。それに彼女の実際の年齢も、飲酒可能年齢ではなかった。勿論、駒として動く為にそれが必要であれば、彼女は飲むこともできる。しかし、〝マーサ〟はそうではないだろう。眠れない。寒ければ上着を着込むように、必要に応じて、必要な衣服を着込み、何者かになることはできる。何者にだってなって見せる。そうではない時に、何者ではない彼女は、何をすればいいのか? 何であれ、生活の為には、服を着る必要がある。この場で彼女に与えられた衣服は〝マーサ・ベハムフィール〟のそれだけだった。眠れない。
「君はまだ、それを続けるのかい?」
薄暗く、客人を通す部屋というよりはまるで倉庫のように埃っぽい冷たさのある試合前待機室で試合準備を待っている最中、長机の上に忘れられたように置かれ続け、すっかり乾燥しきったパンを眺めていた彼女に、占い師が声を掛けた。紺色の頭巾を被り紋様の入った布で目元を隠しているこの男の表情から、何かを読み取ることはできない。
「まあ、無遠慮だこと!」
彼の真意を探るように目元を隠している男の顔をおずおずと見遣るマーサに、彼がさらに続けて言った「私たちをもう少し信頼して、君の本当の身分で行動することが、問題の解決に繋がるのではないか」という、ある種の宣告とも何らかの助言とも取れる言葉を、マーサが彼の方に顔を向けたまま、茫然と聞き流していた――ここには一つきりしか着られる服がないのに、それを否定されては、どうしていいものか――ところ、気取ったような女の声が、占い師の続ける言葉を遮った。
その声の主である調香師は程なくして、マーサと占い師の間にあった空席に、身体を滑り込ませるようにして優雅に腰を下ろす。彼女の身のこなしに合わせて、女らしく甘やかで、しかし、どこか冴え冴えと冷えた香りが漂う。席に着いた調香師は、ミステリアスな、或いは喪に服しているかのような黒色のヘッドドレス越しに透けて見える、日差しの側にある翳りのような暗い色をした目を、牽制めいて占い師に向けるでもなく、かといって、それを同情めいてマーサに向けるでもなく、彼女はただ真直ぐに前を向いたまま、「レディの詮索なんて下衆なこと、私の前では止して頂戴」と、どちらとも突き放すような調子で言った。
「貴女、化粧が下手くそなのよ」
試合後、「荘園に戻された」マーサの部屋を訪れた調香師ことウィラ・ナイエルは、試合での脱落状態から意識を取り戻したマーサが、来客のノックの音に答えるよりも早く部屋のドアを勝手に、それも自分の部屋に入るような堂々とした立ち居振る舞いで優雅に開けると、唐突な、それも予期しない来客に何も言えないマーサが、ひとまず「荘園に戻された」格好のままベッドに寝そべっているのは止めてベッドの上に座っているのを見て、美しく繊細ながらやや神経質な程細やかに描かれた柳眉を不快そうに顰めすらしながら、挨拶よりも先にそう言い放った。
「何でも厚く塗ればいいってものじゃないの。」
そして、ある意味ではたった今、試合の場での〝死〟から〝蘇生〟したばかりのマーサが座っているベッドの脇まで、ウィラはヒールの靴底をかつかつと鳴らしながら何ら憚りなく堂々とやってくると、細い腕で腕を組み、「まずは、顔を洗ってきなさい」と、まるで不機嫌な姉のような態度で言い出したのだが、マーサがそれに、敢えて異を唱えることはなかった。彼女は、さながら高慢な姉に、それも起き抜けに指示をされて、渋々というぐらいの様子で、まずカーキ色の軍服のジャケットを脱ぐとハンガーに吊るしてから、客室に併設されている洗面台に顔を洗いに行き、そこから戻ると、マーサの挙動がとろいことを責め立てるように細い眦をにわかに上げて、彼女を睨んできているようにも見えるウィラの眼差しに晒され、彼女はいっそう恐縮するように肩を丸めながら、机の前に腰を下ろし、それまで机の脇に追いやられていた化粧鏡を取り出した(どれも、荘園の客間に置かれている備品である。)。
勿論、チェス盤の上を駆ける駒として、何にでも成ることができる彼女が、今更、他人に化粧を教わる必要等無かった――実際のコンディションはどうあれ、顔に現れる寝不足の兆候を隠すことなんて、彼女にはおよそ容易いことだった。しかし、今の彼女は〝マーサ〟であるので、「寝不足のマーサ」は、化粧で疲れを綺麗に取り繕って見せることも無ければ、どういう風の吹き回しか、彼女に下地の塗り方を指南する高慢な女を追い出すということもしなかったのだ。
化粧品の扱い方を一通りマーサに教え込んだ後、ウィラは「それと」と、相変わらずどこか不機嫌でいながらにして妙に気安い、いかにも虫の居所の悪い姉というような仏頂面のまま口を開いた。
「寝るときには、これを使いなさいな」
そう言うウィラが渡したのは、ほんの小さな香水瓶だった。ウィラ・ナイエル。職業は調香師、出身階級は貴族階級だが、調香師として成功した彼女の周りで語られる華やかなエピソードは、どれも彼女の生育環境に絡めたものではなく、すべて彼女が調香師として大成した後の話であるからして、おそらく、没落貴族の娘というところが妥当だろう。彼女の作品である「忘却の香水」は、荘園で繰り返される試合の再現の中で使用されることもある――これのレシピを完全なものにするために、彼女はこの荘園を訪れた。つまり、彼女の調香師としての技術は、一級品のものであるということだ。臭いは記憶に作用する――これは〝マーサではない彼女〟が、チェス盤の上に置かれた駒としてよく叩きこまれていることであった。不用意に香りに触れるべきではない。
「いや、私は……」
そして〝マーサ〟も、軍人としての身分から、そのような〝浮ついた〟ものへの拒絶反応を持ってしかるべきだと思えた。しかし、彼女が差し出されるというにはあまりにも素っ気なく、まるで猫に餌を寄越すような調子でウィラの指に抓まれている香水瓶を受け取らない為に、手の平を出してそれを制してみたところで、ウィラは、優美ながら神経質そうな細いラインを引かれた片眉を面白くなさそうに引き上げながら、シュッと音を立てて、香水を吹いた。微かに甘いベリーと、木のぬくもりのにおい――マーサが覚えているのはそこまでだった。
それからどれほど時間が経った後か、彼女はいつにない充足感と共に、ベッドの上で目を覚ました。その頃客間には誰も居らず、机の上には、例の小さな香水瓶が置き去りにされていた。
かくして、自らの身体でその効果を思い知ることになったマーサは、結局ウィラ・ナイエルの手によって作り出されたその香水に助けられる形で、健やかな眠りのリズムを取り戻した。年齢相応の快活さで試合に臨む彼女を見ると、ウィラは普段通りの、美しくはあるが、冷たくつんとすました無関心そうな表情を崩さないどころか、その美しく細い眉を、少し鬱陶しそうに眉を顰めて、マーサをうっすら睨みすらしていたものの、「ありがとう、久しぶりによく眠れた……ウィラのお陰だ」と面映ゆそうに言う(何せ〝マーサ〟は「香水」の効能について甚だ懐疑的だった。それがこうも容易く掬い上げられてしまうと、決まりの悪さの一つや二つあるというものだ。)マーサからの言葉を受けると、彼女は筋が通って形の整った小ぶりな鼻をフンと小さく、それでいて高慢な様子で鳴らし、「当然でしょう?」と言うばかりであった。
その時にウィラがマーサに与えたそれは、いわば、忘却の香水の変奏曲と言うべきものでもあった。効果(ノート)を長く留めることのできない忘却の香水を、少しでも改良できないかと苦心する中で仕上がった一つの作品であり、効力としては、「軽い催眠と鎮静の効果」に過ぎない。それが期待される効力を持つ香水であったのならば、まずは〝ウィラ〟本人がそれを使用していたに違いないが、作り手である彼女にしてみれば残念なことに、それ自体に、忘却の作用は殆ど存在しないものであった。
一方、この香水に残された「催眠」の作用が、〝マーサ〟の特殊な事情には、殊の外よく効いた。香水の作用によって健やかな、それでいて深い眠りを取り戻した彼女は、次第に自分が疑いなく、マーサ・ベハムフィールであると感じるようになっていった――マーサは幼いころから乗馬や射撃が得意で、騎兵隊に加入し上尉の軍階を得た。陸だけに満足せず、飛行機操縦技術の基礎を学び始め、すぐに夢中になった。その後、彼女は騎兵隊の職位を放棄し、空軍に加入したが、望み通りのパイロットにはなれず、代わりに地上で信号誘導をする仕事をあてがわれた。家のものは彼女が心から愛することを「忌々しいこと」と言って、憎々し気に語った――「彼女はなんであんな忌々しいことを止められないのかしら? 男の服を着て、あんなみっともないことをして!」軍内部にも、女の身でありながら軍に加入する彼女を悪し様に言い嘲るものも少なくなかった。しかし、彼は違う。1枚のグライダーの設計図。面白みのない仕事。私は制服を着て待ち、ただ微笑むだけの仕事なんてイヤ。抜け出した方が良いのかもしれない。霧の発生した飛行場で何が必要かわかるだろう? 信号銃を忘れるな! マーサ・ベハムフィールの人生として描かれた全てが、微かに甘いベリーと木のぬくもりのにおいと共に、〝マーサ〟の骨肉にしっくりと染み付いていくようであった。
「君は……」
一時期陥っていたアイデンティティの危機からその頃にはすっかり〝立ち直って〟いた彼女は、目隠しで常に顔を隠している占い師からの気遣わし気な声掛けにも、何ら動じなかった。
「何か?」
明るいブラウンの瞳に真直ぐ見据えられた占い師は、「いいや、気にしないでくれ」と言い残し、彼女にそれ以上、益体もない問いかけを向けることはなくなった。
***
またある日、マーサたちが囚われている荘園に、新たな招待客が尋ねて来た。縁の広いウール帽、光の当たり具合で淡いブラウンやプラチナに近い金髪にも見える、パーマの掛けられたベージュのショートヘア。襟元にファーをあしらった贅沢なコートに、グレーの絹手袋、いかにも上品な貴婦人といった佇まい。彼女の来訪に、マーサは、特段の疑問を感じることはなかった。どういう訳か、荘園には様々な人が訪れる――誰しもが予期せぬところで、人生の苦境に陥ることがある、ということに過ぎないだろう。荘園に囚われている誰しもと同様に、マーサはそれを、そこまで真剣に捉えていなかった。
その日すぐ、試合前待機室で初めて顔を合わせることになった新入りの貴婦人相手に、マーサは「マーサ・ベハムフィール、空軍よ。」と月並みの、それでいて、特段心証の悪くもない挨拶を口にしながら、表面に粉糖を塗され、いかにも手の掛けられた砂糖菓子のような立ち姿の貴婦人を若々しい瞳で見つめつつ、握手の為に手を差し出した。しかし、同じだけ月並みな返事と共に、マーサの手を取ることを期待された絹手袋の手は、次の瞬間、マーサの襟首をがっちりと掴んだ――それは些細な力だったが、ヒールを履いている足で一息に距離を詰められる素早い身のこなし、そして、いかにも優美な彼女の姿を咄嗟に突き飛ばすことを本能的に躊躇ったことで対応できなかったマーサは、予想外としか言いようのないその振る舞いに、締め上げられた喉を微かに動かし、どうにか息を呑む他なかった。
「……あなたのことは、マーサと呼ぶべきかしら」
甘たるく華やかな、しかし、ヒステリックの予兆めいた感情と鋭利な息遣いを内包する女の声が、実に慣れた調子で彼女を呼ぶ。マーサの襟を掴み、勢いよく顔を寄せ、鼻筋の触れ合う程の距離から彼女の目を覗き込む柔らかなブルーアイズがそこにはあり、涼し気な貴婦人は今や、憎悪というには親し気な、しかし、あまりにも好意的ではない形相で、〝マーサ〟を睨んでいる。
「この匂いは、一体どういうつもり? 教えたでしょう。香りは記憶に作用する。それらはあくまで演出。決して、不用意なことをしないようにと……それも、忘れたのかしら?」
その時、他の参加者がやってきたのだろう。待機室の扉が開く音がするや否や、それまでマーサの襟をぎりぎりと締め上げるように握り締めていた絹の手袋は速やかに離れ、あまりに唐突な展開に呆然とするマーサだけを残して、例の砂糖菓子のような新入りは完璧に着席していた。彼女は先刻マーサを睨みつけた憎悪と親しみの同居する混沌とした気配のない、すっきりとした眼差しでそちらを見遣ると、「あなたとは、お初にお目に掛かるわね」と、先刻までのことはまるで素知らぬ調子の柔らかく甘い、それでいて聞き心地の良い涼し気な声を向けた。
「エブリン・モレーよ、どうぞよろしく。」