一曲分(泥庭) 大勢の招待客(サバイバー)を招待し、顔も見せずに長らく荘園に閉じ込めている張本人であるのだが、その荘園主の計らいとして時折門戸を開く公共マップと言う場所は、所謂試合のためのマップを流用した娯楽用のマップであり、そのマップの中にもハンターは現れるが、それらと遭遇したところで、普段の試合のように、氷でできた手で心臓をきつく握られるような不愉快な緊張が走ることもないし、向こうは向こうで、例のような攻撃を加えてくることはない。
日々試合の再現と荘園との往復ばかりで、およそ気晴らしらしいものに飢えているサバイバーは、思い思いにそのマップを利用していた――期間中頻繁に繰り出して、支度されている様々な娯楽を熱狂的に楽しむものもいれば、電飾で彩られたそれを一頻り見回してから、もう十分とそれきり全く足を運ばないものもいる。荘園に囚われたサバイバーの一人であるピアソンは、公共マップの利用に伴うタスク報酬と、そこで提供される無料の飲食を目当てに時折足を運ぶ程度だった。無論気が向けば、そのマップで提供される他の娯楽に興じることもあったが、公共マップ内に設けられた大きな目玉の一つであるダンスホールに、彼が敢えて足を踏み入れることは殆どなかった。当然二人一組になって踊る社交ダンスのエリアは、二人一組でなければ立ち入ることもできないからである。
そこには「条件を満たさない立ち入りを防ぐため」にというように、周囲にぐるっとロープを張りめぐらされている訳でもない。ただ円形の赤い絨毯を敷かれたステージがあるだけである。しかし、そこにどういうからくりがあるのか、どうしたって、その赤い絨毯の内側に、一人で立ち入ることはできないのだ。一方で、ひとたび双方合意の上でペアを組んでその内側に入れば、ワルツのステップどころか三拍子の音の取り方も知らない連中であっても、〝自然に〟身体が動くらしい。それらの話を聞き、或いは体験した上で、そこにはおそらく荘園主の仕掛けが働いているのだろうと予測することは難しくもない。つまり二人一組でなければエリア内に侵入できないという制限は、その仕掛けが理由ではないのか、と、エリアの脇に頭を寄せ合って何かと難しい顔で考え事をする連中もあったが、ピアソンはその仕組みには、大して興味も無かった。兎に角、社交ダンスエリアの外側で、手を差し出して相手を誘い、相手がその手を取ればペア成立。晴れて二人でエリアの内側に入り、どこからともなく流れてくる曲に合わせて一曲興じるという仕組みがあるというだけの話である。
なお、社交ダンスのペアになるかならないか、一曲分の誘いに乗るかどうかというのは、ただ誘われた側だけに決定権があり、手を差し伸べた側は、うっかり間違えて、目当ての相手の隣にぼーっと突っ立っている者を誘ってしまったとしても、差し出した手を引っ込めることは許されていない。これも、試合で爆死や墜落死、果ては失血死したような連中がそのまま荘園で生き返るようないんちきな仕掛けを持っている荘園の中では、そこそこ可愛らしいぐらいの仕掛けではあるが、まあ、不気味な話であることに変わりはなかった。兎角、決まりは決まりであり、ペアになってダンスを踊ろうと誘う側は、ひとたび手を差し出したところから、その手を引っ込めることができないという強制力が働くらしい(また、手を差し出したと勘違いされてその強制力に絡めとられ、そのままダンスホールに上がらざるを得ない状況に陥る者もいる――ホールの端で死にかけの虫のようにみっともなくひっくり返っている酔っ払いに、哀れみの気持ちから手を貸すというのも、誤解され得る振る舞いの一つだ。)。
ピアソンは基本的に他人を誘うことはしない(声を掛けてみたところで、公衆の面前で無下に断られでもしたらみっともないし、どうせ自分の誘いでは誰も乗ってきやしないだろうということも、それなりに理解をしているからであった。)が、誘われれば、まあ、相手をしてやるのもやぶさかではないというスタンスであったが、わざわざ彼を選んでダンスに誘うような物好きはそうそう居ない。
以前身も世もなく酔っぱらっていたバーメイドが、社交ダンスのステージを取り囲むようにしてあるベンチからひっくり返りかけていたのを、たまたま近くにいた彼が酒瓶を掴んだ女の腕を引っ掴んで、一旦ベンチからの落下を食い止めてやった時、それまでほろ酔い気分で目を閉じていた彼女が急に目を見開くと、『なんだいあんた、アタシと踊りたいのか!』と、ルージュで縁どられた唇でもっていかにも女傑めいて豪快に笑いだした女にそのまま腕を掴まれ、酒臭い上にとんでもない千鳥足の社交ダンスに持ち込まれたことがあるくらいである。一等航海士とも似たようなことがあった。また、彼自身が酩酊状態で大騒ぎをしている時に、近くに佇んでいた不運な相手の腕を引っ掴んで、千鳥足のステップに付き合わせたこともある(とはいえ、酔っぱらった彼に腕を引っ掴まれて、誘われた側には明確に断る権利があるにも拘わらずそのまま引き摺られていくのは、どうにも押しと自我らしいものの弱い幸運児か、社交ダンスのステージ近くで暴れる酔っ払いを回収するヒーロー役を請け負い、酔っぱらって誰彼構わず手を差し出すようになった〝おっさん〟を憐れんだオフェンスぐらいであった。これがカウボーイや、調香師あたりから小銭を積まれて酔っ払いの追い出しを依頼された探鉱者辺りになると、最初から回収に縄を使ったり、まず鳩尾に一発拳を喰らわせて意識を飛ばした後、屑鉄よろしく担いでどこぞに放り投げたりというやり方をするので、手を差し伸べたと勘違いをされて社交ダンスに引きずり込まれること自体起こり得ない。)が、ピアソンは酔っぱらった時の記憶を早々に無くす性質でもあったので、「迷惑な奴らに付き合わされたこと以外は全く覚えがない」としかめっ面で言えばそれまでであった。
ピアソンはそうやってダンスホールに身を委ねて踊るというよりもむしろ、社交ダンスホールを取り囲むベンチに行儀悪く片膝を立てて座って、手持無沙汰に弄んでいた煙幕や泥の玉という余興品を、踊っているペアの連中に向かって投げつけ、はやし立てる遊びをする側であり、そうやって他人を冷やかす彼を窘めるものも居れば、彼と一緒になってはやし立てるようなものも居た。特に「誘う相手を間違えた」ケース――例えば、四六時中例の女学者にべっとりくっついている患者の男が、誤って学者の背後に立っていたマジシャンに手を差し伸べてしまい、ベンチに座ってつまらなさそうにしていた「少女」相手に小ネタを披露していたマジシャンの側も、そうやってよそ見をしていたからか、急に差し出されてきた男の手に対して、あまり物を考えた風もなく、さながら握手を求めるファンの手を握るような調子で握り返したことで、(おそらくは荘園側のからくりによるものであろう、言うなれば)場の強制力が発動し、彼らの本意とはまるでかかわりなく、二人手を取り合って社交ダンスのステージに入場していく一組のペアとなってしまった時、オイあれは浮気なんじゃないかとピアソンが声高にはやし立てながら指をさすと、近場で例のように酔っぱらって箸が転がるだけでも面白がっているような連中がどっと笑って、明らかに鼻白んでぷんとそっぽを向いて見せている心理学者の周りにぞろぞろと集まっては、そこから「ロミオ様!」と踊る患者相手をはやし立てたりする。その騒がしさの中で、一緒になって下品に笑っている時、ピアソンは場の空気をある意味で支配したことへのうっすらとした満足感と、多少の楽しみを覚えないこともなかった。最終的に煙幕や泥の玉、時に花火が飛び交う中で、彼らはあまり面白くもなさそうに、しかし一曲分はきちんと踊り切り、顔を寄せて見詰め合わなければいけなかった――そのステージに立たされたら最後、一曲分は踊らないと解放されないのだ。
そうだ。手を差し出したら最後、誘った側は動けなくなる。手を取るかどうか、誘いに乗るか断るかどうかは、誘われた側が持つ権利だった。そういうからくりが働いている場所なのだ。ベンチに座って面白くもなさそうにダンスホールを見遣っていたピアソンに差し出された女の白い手は、彼女が着ている衣装に合わせて爪も手入れされつやつやとしており、それを差し出された彼自身、明らかに(あ、こいつ間違えたな)とわかる程であったし、裕福な子供が着る服のようにあどけなく膨らみ、リボンやフリルの所々にいかにも子供っぽいデザインのワッペンを付けられてるようなフリルスカートを履いて、それと揃いのピンク色のリボンで二つ結びにした髪の上に、ふわふわした猫耳の付いたヘッドドレスを被っている(彼女に贈られる衣装はそういった具合のものが妙に多く、それを見る度に、ピアソンは「荘園主は彼女の年齢を14、5かそこらだと勘違いしているんじゃないか」という疑惑を深めるとともに、憤りに近い感情すら覚えていた。どうせ華美なものを寄越すなら、彼女の〝年相応〟に露出が多いもの、言うなれば「大人っぽいもの」を寄越してやったってバチは当たらないだろう。そんなひらひらしたガキっぽいスカートを履かれるぐらいなら、普段のようなパンツスタイルで丸い尻の輪郭を晒してくれた方が、余程クリーチャーの目の保養になるのに、ということだ。)エマは、彼に手を差し出しながら明らかに(あ、間違えちゃったの)と言いたげに、普段から愛想のいい微笑みを浮かべているばかりの唇をきゅっと噤んでいた。
彼女が違う相手を誘おうとして間違えたんだろうということは、その時点でピアソンもとうにわかっていた――その理由として、「彼女は照れ屋なので、このような他人から大っぴらに見られるところでクリーチャーを誘うような、そういう大胆な真似はできないんだ」ということもできたし、「とんだ恩知らずのこのクソ女は、私があれだけ良くしてやったことをすっかり忘れて何かとクリーチャーを邪険に扱いやがるんだから、俺を誘う訳がない」ということもできた――が、敢えてその気持ちを勝手に慮って断ってやるのも癪だったので、彼は承諾を示すようにニッと笑うと、差し出されたエマの、衣装に合わせて爪の先まで整えられた白い手を取った。
丁度まだ素面だったピアソンとしては、そこで「社交ダンスの場に似つかわしい爽やかな笑い顔」を取り繕ったつもりではあったが、間違いだったとしても執心の相手から誘われたことを喜ぶように早速赤らんだ頬に薄ら笑いを浮かべ、黄ばんだ歯をむき出して浮かべている表情は、まるきり下心が透けて見えているような、気味の悪い薄ら笑いというところが関の山だった。
そうやって差し出された素手を取った時の彼は、せめてこの機会に最大限〝良い思い〟をさせてもらおうと企み、彼女の細いウエストに手を回して引き寄せることが公認されるその瞬間を待ちわびていたのだが、手を取って赤い絨毯の敷かれたところにペアとして入場しながら、自分がたった今握っている、普段は軍手に覆われている彼女の素手の、自分のものよりも一回りも小さく見える、思いのほか白くて柔らかい、暖かな程の手が、節くれの目立つ自分の荒れた手を、まるで応じるように柔らかく握り返し、時に手の平同士をそっと触れ合わせて、さりげなく指を絡めてくるその仕草を、まるで信じられないような心地で見ている内に、曲が終わっていた。
定められた一曲を終え、荘園の奇妙な仕組みによる社交ダンスの強制力から回復したエマが、ピアソンと手を取り合い見つめ合っているという格好を「恥じている」というには素早く手を引き、名残惜しいような気配もなくその場からさっさと立ち去ろうとする様に、ピアソンは意識の上で気付いてそれに目くじらを立てて、そんなに俺が嫌いかよなどと癇癪を起すよりも早く、離れかけた彼女の手をつい握り締めた。
反射に近い動きで手を握られたエマは、非難するようにというには柔らかく、ただ少し驚いた、と言いたげな表情で(というのは、彼女が咄嗟に怒りをあらわにして他人を睨みつけられる程強い気持ちを持っていないというだけのことであって、それによって「彼女がピアソンを憎からず思っている」ということには成り得ないのだが)ピアソンの顔を見たが、つい手を握った彼の方も、自分が何をしているのかまるきりわからないという風にきょとんとして毒気のない顔をしていたため、その様子でどうやらわざとやった訳ではないらしいと知れたエマの方も、もしかすると何か用があるのかしらという具合に、きょとんと彼を見返してしまって、二人して手を握り合ったまま、一瞬その場に立ち尽くす。
しかし、程なくして、例のように場外で場の成り行きを見ていた酔っ払いたちの「とうに一曲終わったんだから、さっさとハケるんだよ!」とけたけた笑う声と共に飛んできた煙幕の玉が、ちょうどピアソンの被っているキャスケット帽の鍔先に当たって爆ぜ、咄嗟に彼の手の力が緩んだ隙を見て、エマは手汗の酷い手で握られていたせいでしっとりと湿った自分の手をそこから引き抜くと、足早にその場を後にした。