「もうそろそろ雨も止みそうですけど、足元が悪いので今日の体育は自習にしますね。体育館は3年生が使っているし、保健の授業も特に遅れてないし……」
私もテストの採点終わってないし。そうボソリと言い残して体育教師は部屋を去った。どう見ても自らの体裁を守るためだけに「何かあったら職員室まで来てね」と声をかけることも忘れずに。
「あーあ、サッカー楽しみだったのにな」
「いいじゃないですか遊馬くん、今週は宿題が多いし、この1時間でできるとこまで片しちゃいましょうよ」
教師不在の教室はあっという間に賑わいを取り戻す。しかし、こういう事の度に皆喧しくして隣の教室の担任が乱入してくるということが度々なので、最近はどの生徒もその辺りの塩梅を弁えているようである。遊馬がちらりと見た先で小鳥は既に課題に取り掛かっているようであり、それならと鉄男の方を見ても同じく。放課後の時間を確保するためなら真面目にこの空き時間を有効利用しようということらしいが、遊馬にはそのやる気がとんと湧いてこない。隣にやってきた真月は自分のノートを机に出した上で、遊馬の鞄の中を問答無用で漁る。
「……遊馬、ノートは? あと教科書」
「えー? 引き出しかなあ。引き出しにねえならねえや、ロッカー使ってねえし」
「お前米の塊だけ鞄に詰めて登校してんのかよ、とんだ税金の無駄遣いだな」
「デュエル飯な。あとなんで税金?」
「……いや、いいわ……」
国のお金で勉強できてるのに随分ナメた態度ですよね、が言外に伝えたいメッセージであったが、真月は深追いを諦めた。遊馬を理解できたことなど、これまででただの一度もないのだと改めて思い起こす。
真月がまだ片付けられていないのは国語の課題であった。授業で何度も音読させられた物語について、漢字だの、目的語だのをひたすら答えるワークシート。実際はそこまでは済んでいて、問題は裏面である。
「傍線部の『ぼく』の気持ちについて……。字数制限なしかよ」
「なにそれ」
「『少年の日の思い出』。授業で読んだでしょう」
「んー……?」
さては、クラスメイトのシャープペンを滑らせる音で眠たくなっているな。真月は今の遊馬を分析したが、敢えて起こすこともしなかった。確かに今のうちに課題を消化しておくのが最善であるが、やる気の向かないときにやらせても意味はない。どうせ提出日の朝に慌てて取り掛かるのだろうが、それでも自発的に取り組める方が幾分健全とも真月は思った。
「蝶の標本の話。泥棒しちゃうんですよ」
「なんで……?」
「羨ましかったから。珍しい蝶が」
「それで?」
「それで、って」
「タイホされんの?」
「……逮捕は、されませんけど」
物語の中の「ぼく」にしてみれば、逮捕のほうが恐らく気が楽だろう。「逮捕」という単語から「真月警部」「遊馬巡査」を思い出し、真月は軽い目眩を覚えた。
どうにも自分と「ぼく」を重ねて見てしまう。「ぼく」はエーミールによりめいっぱいの皮肉でこき下ろされて意気消沈し、贖罪のつもりか何なのか、手持ちの標本を粉々にしてしまうのであるが、真月についてはその機会すら奪われてしまった──九十九遊馬によって。この事実が真月の根の深くにベットリとこびりつき、思考が粘ついて、エーミール……つまり自分で言うところの遊馬の気持ちなど、到底考えられるはずもなかったのである。
「泥棒したなら、謝んねーとな」
遊馬の至極当然のひとことは勢いよく、鮮やかに真月の胸を打ち抜き、掻っ捌いた。泥棒。泥棒だろう。真月は遊馬の「人を信じる心」を盗んだ。盗んでも盗んでも、遊馬だから間欠泉のようにとめどなく溢れただけで、だからいま隣に真月が生きているのであって、真月は一度、本来であれば「あの」遊馬を殺していたのだと思う。
実は今に至るまで一度も遊馬に謝罪をしたことがなかった。許されたとも思っていないのだが、殊更距離を置いても却って遊馬の目につくと思い、「真月零」の皮を被って今も学校に通う。
その「真月零」がこうまで遊馬の隣にいたがること。反面、ベクターとして生きた頃の口調が転び出てしまうこと。何もかもが境を失った甘えであった。蝶を盗んだ「ぼく」は自分の最も情熱を注いだものを潰さずにいられなかったのに、「ベクター」は本当の記憶を取り戻し、その上で「ベクター」を捨てきれず、ありのまま接することもできず、中途半端なままで遊馬の隣にいる。あまりの調子の良さに自分で反吐が出る。ひたすらに、自分の隣を空けることが怖かった。遊馬以外の人間がその隙間を埋めることがあれば、そのとき真月はきっとおかしくなってしまう。
「謝る……ね、そうですね」
すうっ、と息を吸って、勢いのままに言ってしまおうかとすら思った。思って、何を謝ればいいのかも分からずまた口を噤む。遊馬はペラペラと真月の教科書をめくっていた。
「ちょうちょ、潰しちまうんだ」
ややトーンの低いその声をどう解釈したものか、ベクターは困り果てた。遊馬は「ぼく」の物語中の行為について、これくらいして当然と思ったろうか。本気で悪いと思っているなら、大切なものなど何一つ抱えるなと思ったろうか。
オレは、九十九遊馬のもとを離れるべきだろうか。
「……つ、ぶしちゃうんですよね。悪いって……思ったんでしょうかね、エーミールに」
きっと教師はこう答えてほしいのだろう。実体の損傷を贖罪と読み取る感性を育みたいのだろう。遊馬もいっそその通りに育ってくれと真月は思った。真月に何もかも壊させて、それでもまだ真月を憎んでいてくれたりしたら、もしかしたらそのときやっとこの心象の根を引き抜いて、死んでしまえるかもしれないのに……。
「いや、んなの分かんなくね。だって『ぼく』に話聞いてねえしさ。エーミールもこんなんしてほしかったの?」
……遊馬。お前ってオレのこと、どう思ってんのかな。もしかしたら、なあんにも分かんねえままオレの隣にいてくれたりすんのかな。遊馬って、オレにしてほしいこととかねえのかな。金輪際目の前に現れるなとか、死ねとか、ねえのかな。
ねえんだろうなあ。
「……遊馬くん」
「あん?」
「……僕ね、ひとつだけ、遊馬くんにお願いがあって……」
たまらず視線を逸らしたとき、窓の向こうで雲の切れ間から陽が差していた。あーやだ。あれ遊馬だ。オレのことぶった斬ってくれる方の遊馬。現実じゃない遊馬。
断罪してくれって、めちゃくちゃエゴだよなあ。
今のオレに何を願える。生きてるだけで損失のオレに、何を願える。
「なに?」
宿題おわんねー。こうやって要らんこと何度も思い出して、自分のじくじく痛むとこ抉りたくなるからおわんねー。
「オレさあ、ずうっとここにいてえや……」
真月は軽い調子で、しかしまたしても最も自分を傷つけない、辱めない言葉で遊馬に将来を約束させようとした。正しく訳せば「ベクターは九十九遊馬の隣にいたい」なのだが、この期に及んでまだ言い出せない。一応まだやる気はあって、「ぼく」で言うところの蝶を潰すことをやってのけたいとは思うのだが、何を考えても遊馬が先行して、思考が行き詰まる。
せめてこれを気取ってほしい。ベクターが九十九遊馬のことで四苦八苦し、日々をどうにか食いつなぐ、哀れな獣と知ってほしい。