自分の人生において「泣く」というのはかなり大きな出来事ではあったと思うのだが、その認識とは裏腹に聖臣は30分も経たないうちにあっさりと泣き止み、しかしスマートフォンの画面に映った自分の目を見て小さく絶望した。
「腫れてる」
そしてそう呟いた自分の声がずいぶん鼻にかかっており、二重に驚く。「うあー、もう」続けた声もえらく間抜けでもはや笑える。
腫れた目をどうにかごまかそうと自室にあるものを思い浮かべたが、保冷材の類はない。時刻は22時、もうどの社員も自室でくつろいでいる時間帯であると踏んで、聖臣は開き戸を押した。
「お、佐久早ぐうぜーん……あれ?」
右手で戸を押し開いたところへ、冗談じみたタイミングで木兎が左からやってくる。寮の大浴場を使っていたらしく、まだ短髪は湿り気を帯びていた。
「……んすか…」
あ、声でバレる! そう聖臣が思ったとき。木兎はあっさりと聖臣の目線を射抜いて、今さらでもどうにか目元を隠そうと持ち上げられた腕をひっとらえた。
「……ちょっとこっち」
「うわっ」
木兎の手はさほど大きくはないのだが、妙に分厚く、やたら力を込めて聖臣の腕を掴んだので、どうにもそれに逆らえる自信が湧いてこず、聖臣は素直に引っ張られることにした。行き先は談話室。「え、え」と聖臣がどもるのも構わず、木兎は首だけを伸ばして談話室を覗く。
「誰もいねーわ、ほら」
入ってて、と言い切る前に木兎はどこかへ駆けだし、聖臣がのろのろ居場所を見つける間にさっさと戻ってきた。その腕にはタオルが山盛り積んである。談話室には簡単なキッチンスペースがあるのだが、木兎はタオルを適当な机に置き、2枚だけ取ってシンクの水道で濡らした。
「目ェ腫れちゃったときはさー、濡れタオルのあったかいのと冷たいの代わりばんこに当てたらいーんだって。ケッコーがソクシンされるらしい」
そこまで聞いて、聖臣は「顔から火が出そうな」という月並みな表現を自分の身でしかと実感した。もともと泣いていて、額の中心が熱いような重いような独特の不快感は抱えていたのだが、それどころではなかった。身体のどこともつかないところから熱が発生し、首も顔も耳も、なんならうなじや頭皮のてっぺんに至るまで聖臣を燃やし尽くした。
あの木兎光太郎に、この上ないほどスマートにフォローされてしまった。
取り損ねたレシーブのフォローということであれば数えきれないほどにさせているが、よもやあの木兎がコート外でもこれほどまでに相手を慮り行動できることに聖臣は心底驚いたし、何より自分がそうまでして丁重に扱われている事実に眩暈すら起こしそうな勢いである。
木兎は固く絞ったタオルのうち1枚だけを聖臣に渡し、もう一つはレンジに入れた。数回電子音が鳴る。
「……ざす」
「慣れっこよ」
「え?」
「あかーしたまに泣くから」
あかーし、の音が聖臣の中ですぐには変換されなかったのだが、ああ赤葦か、と特に聞き返さずに冷えたタオルで目元を押さえる。
「考えるのが得意なやつって、なんかすげー難しい。俺に理解できないことが、そいつの中ではとんでもなくでかい話になってたりする。だから俺は佐久早の話聞いても分からんと思うし、聞かないつもりなんだけど、いい?」
「……俺はあなたも相当難しいなと思いますよ……」
「なにがあ?」
「……」
自分のことをどれほど木兎に理解されているのだろうと聖臣は恐ろしくなった。木兎が「聞かないつもりなんだけど」と確認を取ってきたのは、聖臣が泣いているのがバレーとは関係のないことが理由であると察したからだと思う。それであれば聞いても聞かれても双方にメリットはないので木兎の提案は正解であったのだが、何を理由にこの判断に至ったのだろうと思う。バレーのことで聖臣が泣かないこと、バレーで気になることがあるなら絶対に寝かせずにすぐに解決しようとすること。そういう聖臣の思考の癖をこの数年で木兎にもしっかり知られていて、その上で先ほどの確認に行きついたのだと思うと妙に居心地が悪かった。
酸欠による頭痛と、羞恥による顔の火照りが徐々に濡れタオルに吸い込まれていく。少しぬるくなってきたかというところでレンジが鳴ったので、今度は木兎には取りに行かせず聖臣は自分で立ち上がった。
「あかーしがさ、前、めっちゃ前ね、話してたときに」
「……ハイ?」
「木兎さんは周りの人とかに影響されやすいから、気持ち切り替えるのにルーティンとか決めといた方がいいんじゃないですかって言ってて」
「はあ」
タオルは想像以上に温まっていた。聖臣は一瞬触れて手を跳ねさせた後、元々目に当てていた方のタオルでレンジに入っている方を掴み直す。
一方で木兎はおもむろに立ち上がり、聖臣が温まりすぎているタオルに四苦八苦しているのを尻目に、太い長い腕を目いっぱいブン回して手を打った。パァン、と馬鹿でかい音が談話室に響く。
「うるっさ、何すか」
「俺はコレ! 佐久早はどーする!?」
「えっ」
「ルーティン!」
言われて、木兎の今の動きがサーブ前に観客へ手拍子を要求するアレだと聖臣は即座に気付いた。
「……今は特にないです」
「そーじゃなくってえ、決めんの! 今!」
考えたこともなかった。調子の良し悪しはあれど、聖臣はそれにも毎度必ず原因を見つけるようにしていたし、気持ちを切り替えるということにこだわってこなかった。強いて言うなら普段通り過ごすこと、その全てがルーティンである。木兎は恐らくそれでは解決できない不調が自身にあるので、赤葦のアドバイス通りにルーティンを設定することで解決を試みたのだろう。もう赤葦がバレーに関わっていないらしいことは聖臣も知っていたが、赤葦はどれだけ木兎に影響を与えているのだろうと思う。
今度は熱い濡れタオルを目元に当て、じゅわ、とその温度が皮膚へ染みていくのを感じる。
「ルーティン、すか」
コート内のことではなく、今。原因ははっきりと分かっていて、それでも浮上してこない気持ちを引っ張り上げる方法。木兎のように表立って他人を巻き込んでいくことは恥ずかしい。かといって一人でできる小さな動きを日常に組み込んでも、自分の性格上結局考え込んでしまって大した意味をなさないように思う。
「……あ、じゃあ」
「決まった!?」
「……バレーしたい、です」
一瞬木兎は目を丸くした。それもそうだろう、バレーは毎日しているから改めて設定するルーティンとは言い難いし、何より、こんなにじめじめと考え込んでいるタイミングでも実践できる簡単なことにしておかないと実際には用をなさないのだと思うが、聖臣にはこれ以外なかった。
これが人生だった。
「じゃあ今やろ!」
「えっ」
また木兎は不躾とも言えるほどにまじまじと聖臣の目元を見つめる。先ほどより目は開くようになったと思うが、明らかに普段と顔は違うだろう。スマホを取り出して顔を映すと、やはり一重になっていた。
「……顔ちがいすぎる」
「俺以外見てねって!」
言うが早いか、木兎は使わなかったタオルをさっさと片付けて、聖臣を寮の中庭へ連れ出した。
聖臣らの暮らす社員寮というのはそれほど大きくはないが、築年数は浅く寮内の整備が行き届いている。コの字型に建てられた社員寮が中庭を囲うような形になっており、1階の庭に面する部分はガラス張りになっているので狭いながらも窮屈な印象はない。建物の壁際では今が時期なのだろう、スズランやネモフィラが花を咲かせている。木兎の「俺以外見てねって!」という言葉に反して中庭に点在するベンチでは他部署の社員と思われる男性が橙のランプの下で読書に勤しんでいたが、聖臣と木兎が来たとて気に留める様子でもなかった。
木兎は持ってきていたボールを放る。
普段の練習でもそうないほどの緩いボールだ。今がプライベートの時間で、これがバレーでありながらバレーではなく、聖臣の停滞する、あるいは逸る気持ちをフラットに持っていくための、手段としてのやり取りなのだと知らしめる。
「……すいません、夜に」
「いいよ」
木兎はそれ以上何を続けるでもなく、ひたすらに聖臣の返すボールに応じた。
皮膚とボールが触れる音、どこかから聞こえる虫の声、車の走る音、自分の呼吸。
ひたすらに平凡な環境音に混じって、つい数時間前に耳にした電子音が聖臣を襲う。
──なんでもうちょい放っておいてくんなかったの
あれを発話したのが元也であると信じたくなかった。聖臣は自分が常々元也に面倒を見させている自覚はあって、それでも進んで元也の方から駈け寄ってきたりするので、自分が疎まれているなどとは正直つゆほども思っていなかった。杏奈と別れたことをあの部屋に迎え入れてまで話してくれたこと、それが卑しくも聖臣の自信になってしまった。
あ、俺、元也の不幸で自分の心を満足させたんだな。
認めたくなかった事実がボールとともにストンと腕の中に落ちてきて、また鼻の奥が痛んだ。
自分があの時激励めかして吐いた言葉がすべてこの上なく軽薄なものに思えてくる。聖臣は元也と杏奈が付き合い始めたあの時にひとつ確実に失恋をして、あろうことかそこから立ち直った、などと元也に偉そうに話してしまった。実際は何年も何年もみっともなく抱えた思いを放り捨てたくて、元也を使った。
こんなに好きなのに、使った。
元也だけが人生の全てとは思わないが、いま聖臣がバレーで飯を食っているのは元也があのとき聖臣を体育館へ連れ出したからである。人生を築くきっかけが元也だ。
ああやっぱり、人生だった。
終わらない。何も終わらない。聖臣は明日も普段通り出社して、仕事をこなし、午後は練習に参加する。日常へと帰っていく。元也を想う正当性のない日常へ帰っていく。
その時、ボールが腕の少し外側に当たり、他所へ跳ねた。聖臣がそれを回収して再開しようとまた放ると、木兎はレシーブせずにそのまま両手で受け取った。
「タスクフォーカスだって」
「え?」
「人も環境も状況も、変えようと思って変わるもんじゃないから、とにかく目の前の、今できることに集中しろ! だってさ」
突然始まった話に、きっとそうだろうと思い聖臣は合いの手を入れる。
「……赤葦が」
「そう。いま集中してたか!? バレー!!」
「……して、なかったですね」
ふう、と聖臣が深く息を吐いたのを見て、また緩やかなボールのやり取りが始まる。
バレーをしても元也は振り向かない。どんなに良い成績を収めても振り向かない。
それでも明日も生きるし、昨日も消えない。
結果的に好きな人がくれたものに縋る形になっても、聖臣はその時が来るまで、BJでプレーし続けるだろう。
悲しみを昇華させるため?
好いていたことを忘れるため?
他事に熱中することで今限りなく低下している自己肯定感を誤魔化すため?
違う。どれも違う。
「……バレー、好きすね」
「うん? 俺?」
「ううん、俺」
貰いもの、という見方を超えて、聖臣は自分がバレーをする理由を見つけてみようと思った。
ボールを思い通りに操れること、思いがけず上手く操れること。視線。よろこび。歓声。
たくさん欲しい。せっかく好きな人に貰ったので、自分だからこそ意味のあるものだったのだと証明したい。
「木兎さん」
「あー?」
「ありがとうございます」
「おう! 俺ただのエースだから!」
何回聞いても分かんねえよ、とは思うのだが、「ただの」という部分に木兎光太郎の哲学が端的に表現されていることは分かる。
きっと誰しもこんなことを経験しているのだと思う。恋愛でなくとも、どうしようもなく立ち直れないときぐらい、誰にでもあるのだと思う。
木兎でも、日向でも、宮でも、明暗でも、トマスでも、犬鳴でも、バーンズでも。
くずおれてしまいそうなとき、人のあたたかさがどうしようもないほど救いになるとき。
誰かに還元できればいいと思う、今までのこと。今日までのこと。