最後にその大きな背中が痙攣して十分ほど。もう落ち着いただろうかと俺がその横顔を覗いたとき、凛は少々罰が悪そうに白状した。
「いっしょーびん、は……開けた……」
「えっ嘘? 飲みすぎじゃねえ?」
「ちが、アイツが……飲むから……。二人で開けた……」
「ああ、そういう……。飲む量でまで競わなくていいんだぜ、凛」
凛を壁に凭せかけ、俺はあまり便器の中を見ないようにしながらトイレを流す。ただ、一応凛に配慮して視線を逸したわけだが、中を見たところでほとんど水のような胃液しか出ていなかった。
糸師冴と糸師凛。兄弟水入らずで飲みに行くというから俺までつい喜んでしまって、下手にちょっかいをかけるのも野暮だろうと放っておいたら見事に弟だけ潰れて帰ってきた。
「コイツが勝手にカパカパ飲むのが面白くて止められなかった、悪りぃな」
天下の糸師冴サマをして「悪りぃな」と言わしめる潰れっぷり。冴は話し口こそケロリとしていたけど、俺の家の玄関先で照明に照らされた顔は青白かった。凛に加えてもう一人泊められるほど俺の余裕はなかったものの、一応冴に帰宅の目処が立っているかを聞くと「さあ知らん、でもマネージャーとはツーカーだから」とのこと。信頼ゆえの惰性。冴のマネージャーには気の毒だけど、「ツーカー」との評価を信じて冴にはお帰りいただき、そこから一時間ほど、俺は凛が便器に張り付いているのを隣で眺めていた……いや、背中を擦るぐらいはしたけど。
「オラ、立て立て。あと上着も脱げ。話はそっからだ」
飲んで、酔って、吐いて、風呂に入るどころか着替えも済んでいない。自分がその状況になったらと想像するだけでゲンナリして、すぐに動き出せない凛の脇を抱えてやる。こうすると凛が嫌がって自分で立ち歩くのを知っていた。
「……った……」
「え?」
どうにか腰を上げた凛がボソボソと呟く。上手く聞き取れなくて身を寄せたら、素直にもう一回言ってくれた。
「腹減った」
その顔。思う通りにパスが通らなくてイラついてるときの顔。めちゃくちゃ綺麗で真剣な苛立ちの顔。
「わっはは」
「なに笑ってんだ」
「いややっぱ、お前それぐらい自由な方がいい。心ゆくまで野放図でいろ」
「誰が……」
「もう気持ち悪くねえの?」
「……ない」
「口ゆすいでろ、ちょっと冷蔵庫探す」
「え」
「俺も誰かさんの介抱で腹減っちゃったよ」
やり取りが途切れる。洗面所へつま先を向けた凛がこっちを見つめて黙っていた。
「……」
「いや別に怒ってねえから! 今のはボケ! やりづら!」
フン、と鼻を鳴らして今度こそ凛は洗面所へ引っ込んだ。
俺は俺で冷蔵庫を開けて中身を物色する。割と自炊はする方だ。栄養バランスが取れて、かつそれなりに運動する人間が満足に食べられる、そういう意味では自炊が一番安上がりで頭を使わない。
「鶏もも……」
皮を剥ぐのがちょっとめんどくさい。
「豆腐?」
もう少しパンチのあるものがいい。
「卵焼き……」
作るのが難しい割にすぐなくなる。
コンビニ行ったほうが早いか? と早くも思考を切り替えかけたとき、戻った凛の腕がにゅっと冷蔵庫の中へ伸びた。
「シャウエッセン」
「うおー、ナイス図々しさ」
「あ?」
「いや、シャウエッセンたけーじゃん」
「年俸億あるヤツが何言ってんだ?」
「ちゃんと買い物してると値段の感じ分かるようになんの! 黙ってシャワー浴びてなさい!」
まあ、確かにちょっと高いけど、その高さゆえになんとなく使い所を見極めようとしてしまって賞味期限が近づく……なんていうのは割とよくある。いま凛に言われなかったらまた同じことをしていたかもしれないし、ここは素直にワガママに従っておこう。
それはそうと、凛にシャワーを勧めたはいいものの着替えを特に見繕っていない。既にキッチンを離れた凛に聞こえるように少し声を張る。
「凛、着替えさあ、俺の寝室漁って!」
「……」
「聞こえた!?」
「……聞こえた!」
破裂するかもと分かっていながら、ウインナーに切れ目を入れることはしない。その方が食感がいいし、何よりめんどくさくない。肉の焼ける匂いで溜まった唾を飲み込んだとき、凛がやや寸足らずのスウェットを着てまた戻ってきて、俺の真後ろに陣取りフライパンを覗き込む。ごくん、と凛の喉からも聞こえた。
「どーしよ、冷やご飯解凍しようかな」
「……」
「食べれる?」
「ん」
これは一人暮らしあるあるだと思うけど、俺も例に漏れず、一度に大量に米を炊いてしまうクチだ。今もちょうど冷凍庫にはタッパーに入れて凍らせたご飯がわんさとある。凛は冷凍庫らしき引き出しをいくつか開けてタッパーを探し当て、慣れた手つきで2つレンジへ突っ込んだ。500W4分。セットしたらまたすぐ俺の背後に張り付く。どんだけウインナー待ってんだよ。
「……オイ」
「あ? なに?」
「明日の昼飯」
脈絡なく言われて、一瞬考える。
「ああ、それで今日のこと手打ちにしろって?」
声に出しての返事はないが黙って頷いたようで、凛の前髪が俺の耳に触れた。
「別にいいよ。俺もたまに帰りそびれたとき泊めてもらってるし」
「でも吐いてねえだろ」
「元々そんな飲まんもん。てかお前もそうだろ。今日のはたまの体調不良ぐらいに思っとくよ」
凛の膝が俺の裏腿を蹴る。
「楽しかったんだろ? 今日」
「……まあ、んん」
まあ、の音に息が多くて、かすれている。
凛が冴とまともに話せるようになったのはそこそこ最近のことだ。俺も凛からしか聞いていないのでもしかしたら冴本人にはまた違う考えがあるのかもしれないが、いずれにせよ、この二人がいがみ合っていたのは強烈すぎる理想と行き過ぎた兄弟愛が原因なんだと思う。二人とも完璧主義のきらいがあるから、そのせいで兄弟としての自分たちと、サッカーをする自分たちとの境を上手く保てなかった。俺はそう解釈している。
これ以上は話したくなさそうな様子を凛から感じて、俺はウインナーの焼け具合を確認することで話を切り上げることにした。ほんのり焦げ目がついている。
「クッキングペーパーそこ、天袋」
何も言わない凛は素直にクッキングペーパーを取り、数枚重ねて差し出す。俺はそれを菜箸で受け取り、フライパンに滲んだ脂を吸わせた。その間にもなんとなく凛の視線を感じる。
「……今度はお前もって」
コンロの火を止めてずいぶん静かになった部屋に、凛のつぶやきがポロリと落ちた。
「え、冴が?」
「ん」
「三人で?」
「お前とアイツで二人とか、話すことねえだろ」
それは裏を返せば、凛と冴でなら話すことがあるということだ。ひいては、本当に三人で会うことになったら、凛が話題の橋渡しになってくれたりするのかもしれない。自然、口元がゆるむのが分かった。もちろん、サッカー選手として冴に興味はある。しかしそれより、兄貴のこととなると毎度毎度苦虫を噛み潰したような顔をしていた凛が、次とか、他人とか、余裕を含めながら冴について語る。
「よかった」
良さそうな焼け具合のウインナーを菜箸でつまんで、背後にいる凛の口元へ持っていく。凛は一瞬俺の目を伺い見て半分ぐらいを齧り取った。皮の裂ける気持ちいい音が鳴る。
「……大体、サッカーは『優しい兄貴』像を壊したくなくて続けただけだ。冴がもっと日本語上手ければこんなとこまで来てない」
最近の凛は冴のことを「クソ兄貴」でも「兄ちゃん」でもなく「冴」と呼ぶ。俺はそこに勝手に寂しさのようなものを感じていたけど、きっと杞憂だった。凛なりに、兄としての冴、フットボーラーとしての冴を切り分けたんだ。多分そこがぐちゃぐちゃになって、冴が遠のいていた。今日の凛が会ったのは「兄ちゃん」で、もし冴がもっと早いうちから「兄ちゃん」として会話をしてくれていたら、なんていうのが凛の文句なんだろう。つくづく主導権を握っているのは冴なんだと感じる。さておき。
「今の聞けたから今日のはチャラでいいや」
凛が齧り残した半分を口に運ぶ。夜中に食べて然るべき旨さ。風味が消えないうちにレンジからタッパーを取り出して白米を掻き込み、凛も食べるだろうと振り返った。ら、凛は眉間にギュッとシワを寄せている。まさに渋面。からかいすぎたかな、と若干身体を引いたら、ボソリと答えが落ちてきた。
「……やっぱ気持ち悪い」
「あー……」
俺は俺でシャウエッセン食いたいし、じゃあ凛は先に横になっとけよって言ってみても、まだやっぱりここは凛にとって「人の家」だから、コイツは自分一人ベッドで寝るのを遠慮して俺の服の裾を引く。昔に比べたら随分丸くなったのに、凛の心理的なパーソナルスペースは広い。それはちょっと悲しいことだけど、同時に、この多少の遠慮が俺たちを友達にしているんだとも思う。もう少し甘えてくれたってなあ、っていうのは思わないでもない。
コテコテベタベタの甘えを「凛がこんなことするか?」でフィルター掛けちゃってぜん〜〜ぜんまともに受け取らないイサギヨもてなさそうすぎて萌えるゅ。。。凛がんばぇ。。。。。。。。。。。。。いやがんばるな いつもどこかに傷を負った一匹狼でいて〜〜