幸福な日々放課後、まだ日の高い空には入道雲が浮かび、青々と繁った木々の葉は真下に濃い影を落としている。風は止み、じっとりとした暑さが、テニスコートを包む。地面は照りつける太陽の光で白く輝いていた。
俺は、日陰を見つけて座り込み、奴が現れるのを待っていた。動かずにじっとしていても、汗が頬を伝ってぽたぽたと地面に落ちる。水滴が、土の上に小さな円の模様を描き、いくつも重なりあって大きくなっていく様を、ただ見ていた。
頭上では、ジリジリと五月蝿いくらいに蝉が鳴いている。
「仁王くん、お待たせしました」
振り替えると、お前は居た。皺一つ無いユニフォーム。手入れの行き届いたラケット。眼鏡の奥の鋭い眼光。
「柳生……」
この男は、いつも、どんな時も何一つ変わらない姿で、笑みを浮かべて俺を見るのだ。
ああ、俺は待った。恋い焦がれて、死んでしまうほどに。
「今日も暑いですね……」
「ん……」
何故、一時も目が離せないのだろう。
お前の一言一言が俺の胸に突き刺さり、甘い疼きとなって脳を溶かすのだ。
痺れるような痛みで目が霞む。
暑さのせいだろうか。
きっとそうだ。
ああ、なんて暑さじゃ。
仁王と柳生は、海沿いの歩道を並んで歩いていた。部活終わりの帰り道、街灯には既に光が灯っている。昼間の焼けるような暑さは和らぎ、穏やかな海風が吹いている。分かれ道の交差点までは、まだ距離があった。
ついに、三年の夏が始まる。漠然とした不安と焦りが、日に日に募っていく。その正体を、仁王は理解していたが、あえて目を背けていた。
部長の幸村は昨年の冬、病に倒れた。今年の関東大会決勝戦が、手術日だという。
幸村の才能を誰もが羨み、恐れ、愛していた。それを誰より強く感じていたのは、副部長であり親友である真田だろう。幸村が戻るその日まで、無敗を誓った真田の気持ちが仁王には痛いほどよく分かった。今の真田はまるで、母の帰りを待って途方に暮れている子供のようだった。いや、テニス部員の誰もが途方に暮れていた。常勝という掟は、寄る辺無き部員たちにとって、ただひとつの救いであった。
仁王は、横目で柳生を見た。柳生は、仁王がまるで聞いていないことも承知で、今日の練習の課題点だとか、明日のメニューはどうするだとかをベラベラと話している。
「それにしても、今日は星が綺麗に見えますね。おや、夏の大三角が見える。もうそんな時期ですか」
突然、柳生は立ち止まって夜空を見上げた。
「分かりますか、仁王くん。ほら、一際輝く星があるでしょう……あそこにベガと……アルタイル……」
柳生は嬉しそうに星を指差したが、仁王の視線はその先にある一等星ではなく、柳生の長い指に向けられていた。
「ご存じでしょう、七夕伝説の織姫と彦星ですよ」
「それくらい、知っとる。馬鹿にしとるんか」
「はあ、あんまりキョトンとした顔をしていましたから」
柳生は不服そうに答えた。仁王は空を仰ぎ見て、呟く。
「季節から、置いていかれとるみたいぜよ」
いつまで、この恐れにも似た不安から目を背けて生きなければならないのだろう。
「辛いですか」
と、柳生が問う。
「いや」
仁王は平然と嘘をついた。
「では、幸せですか」
「何でそんなこと、話さにゃならんのじゃ」
仁王は顔をしかめて、振り返った。柳生は、にこりと頬笑む。
「それもそうですね」
誰も見てはいない。どこにも行けない。何もできないから、ラケットを振る。勝つためだけに、生きているのか。答えは、あるのだろうか。
「柳生、愛してるよ」
不意に口をついて出た言葉に、一番驚いているのは仁王自身だった。つう、と背中に汗が流れるのを感じた。何か言わなければと焦って唇を動かすが、声は出ない。
柳生はまじまじと仁王の顔を見つめる。
「君は話の腰を折る天才ですね」
柳生は冗談と受け止めたのか、その後も他愛のない話を続け、おやすみなさいと言って仁王と分かれた。
仁王は、暫くの間去っていく柳生の後ろ姿を見つめていた。
とても不自由だな、と思った。
翌日、仁王は部活には顔を出さずに、幸村の入院する病院へ向かった。
幸村は、病室のベッドの上でテニス雑誌を読んでいた。
顔をあげて仁王を見るなり、幸村は満面の笑みで言う。
「あまり好かないな、君のプレイスタイル」
「知っちょるよ」
と、仁王は真顔で答えた。幸村の人を食った態度にはとうに慣れている。
仁王はベッドの脇にあった丸椅子に座った。棚の上に、昨年の全国大会優勝時に撮った写真が飾ってある。
幸村は、読みかけの雑誌を伏せた。
「部活はどう?」
「うん、まあ、いつもどおりじゃ」
「それなら、良かった」
幸村は明らかに寂しげな顔をした。仁王は、そんな幸村を見るたびに堪らない気持ちになる。
「体調はどうなんじゃ」
「平気だよ。今日は特にね、お天気がいいからかな」
「そうか」
「キミのほうが、元気がないね」
「そうかの」
「迷いがあるなら…降りたっていいんだぞ。キミは、俺達のように、テニスが全てというわけでもないんだろう?」
仁王は、写真の中で誇らしげに笑っている幸村と真田に目をやった。
「卑怯者だって思ってる?」
仁王は質問には答えず、呟くように問い返した。あはは、と幸村は笑った。
「優しい男だって思っているよ。来てくれて、ありがとう」
「嫌な男じゃ!早よ、戻ってきんしゃい」
幸村は目を細めた。
「本心だよ。本当は、堪らなく不安なんだ。こんなこと、真田には言えないけどね」
俺だって、と言いかけて仁王は口をつぐんだ。
皆、不安を抱えて、逃げ出したくて、それなのに、どこにも行けやしない。
幸村には、テニスが全てだ。
俺には何もない。何度ラケットを振っても、どこまで走っても、何も見えない。
罪悪感と、焦燥感で押し潰されそうだ。
柳生に会いたかった。無性に彼の声が聴きたかった。何故、彼なのだろう。理由は分からなかった。
仁王は病院を後にすると、何食わぬ顔でそのまま学校に戻った。とっくに練習が始まっているコートを横切ると、真田が怒鳴り声を上げるのが聞こえたが、無視して更衣室に向かった。着替えていると、柳生が入って来た。
「仁王くん」
柳生は呆れ顔でこちらを見ている。
仁王は、鼓動が早くなるのを感じながら、冷静を装いユニフォームに袖を通した。
薄暗い室内で、二人はわずかの間、無言のまま向かい合う。外から、かすかに部員達のかけ声とボールを打つ音が聞こえる。
「なんか用か」
と、面倒臭そうに仁王が言うと、柳生はアア、と大袈裟にため息をついた。
「君、何をしていたんですか。遅刻の理由を言いたまえ」
「幸村に会ってた」
柳生の顔が曇る。
「見舞いに行くなら……ひと言声をかけてくれれば」
「ええじゃろ、別に」
仁王は柳生から目を反らし、脱いだ制服をロッカーに放りこんだ。
「君は最近変ですよ。昨日だって」
「昨日?」
仁王の語気が強まる。
「いや……」
柳生が口をつぐんだので、仁王は舌打ちをした。
「こんなんで勝てるんか、俺達」
「君がそれを言いますか。勝たなければならない、そうでしょう」
「俺達は勝てんよ。幸村は治らん。もう止めようや。そう何もかも、上手くいくと本気で思っとるんか」
「何てことを。訂正したまえ」
柳生が仁王に詰め寄る。仁王はギッと柳生を睨みつけた。
「もう飽きた。付き合えんわ、こんな芝居」
自分の意思では抗えない、非情な運命に飲み込まれるのが、仁王はどうしようもないほど恐ろしかった。本気になればなるほど、己の無力さに吐き気がする。
何だって出来るはずなのに、何にだってなれるはずなのに。立ち止まりたくはないのに。
幸村は本当に戻って来られるのだろうか。何故あいつが、ああなるべきは俺だったのではないか。俺は、許されるのか。誰に許しを請うているのだ。神か。幸村か。
違う、自分自身にだ。
「君はテニスを愛していると、信じていますよ」
柳生の目は、仁王の心を見透かしているようだった。仁王は思わず一歩後ずさる。ガシャンと音がして靴のかかとがロッカーに当たった。鼻の奥がつんとして、涙が溢れそうだった。
「お前がいないと、無理じゃ。お前がいないと、
俺はもう何も出来ん」
仁王は、消え入るような声で答え、ズルズルとその場に座り込んだ。
偽善でもいい。信じてくれなくてもいい。隣に居て欲しい。肯定されたい。
テニスを好きでいたい。
それすら一人では叶えられないことが、情けなくて、消えてしまいたいほど恥ずかしかった。
「私はいつでも側にいます。チームメイトなのですから」
柳生は淡々と正論だけを述べる。それが彼の誠実さだと、仁王は分かっていた。
「あなたは、どうします」
「俺は……」
仁王は柳生を見上げた。本音は、一つだった。
「勝ちたい……」
柳生は満足げな笑みを浮かべた。
「もちろんです」
さあ早く来てください、とだけ言い残して柳生は更衣室を去っていった。
仁王は、はあ、と息をついて柳生が出ていった扉を見つめた。それから、豆だらけになっている自分の左手を見た。
きっとコートでは、柳生が何事もなかったように、自分を待っているのだろう。いつもと何一つ変わらない姿で。
仁王は立ち上がり、バッグからラケットを取り出した。グリップテープが痛んでかなり磨り減っている。
仁王は、ラケットとロッカーの中に転がっていた新品のテープをつかんで、外に出た。太陽の光が眩しい。部員たちの掛け声と、ボールを打つ音が、はっきりと聞こえてきた。