裏路地で色を売るゲタ吉くんの話小雨の裏通りを、ボロの唐傘を差して突っ立っている。傘に空いた穴から、ぽたりぽたりと水滴が滴って、色素の薄い傷んだ髪に落ちた。
雨は好きだった。
なにだか世の中の汚れとか未練だとか、そういうものが綺麗に流れてゆく気分だったし、それに。
「やぁ、一晩どうかな」
お互い顔を気にせずに済む。
「宿代だけで結構です」
低く響く良い声だったから、身を任せてみようと思った。軽く瞼を閉じて、あの人の姿を重ねてみる。思い込んでみる。
手慣れたものだった。
だが、薄暗がりの下卑た視線に、一気に興醒めしてしまった。また妄想の中ですら、あの人が遠退いてしまう。
ゲタ吉は、情事の色が濃く残るペラペラの布団に横になったまんま、酷く冷めた心持ちで寝こける男を見遣る。しばしボンヤリしていたが、朝日が昇ったかも分からない曇天の街へ、連れ込み宿から一人、ふらりと抜け出した。
*
もしこんなことが義父にバレたらどうなるだろ、と想像してみる。
屹度、烈火の如く怒る。次には心配一色で、親父の顔をして酷く叱るのだろう。父さんは——どうだろ、事情を知っているだけに寛容かも知れないし、あの頭がキリキリする感じの叱り方でコンコンとお説教されるかも。それとも勘当されるかしら。いや、それはしないだろう。屹度……。
義父なんかは、こうなったのは己の責任だと思い詰めるやも知れない。それで、あの六畳一間に連れ帰られて、真人間のように生活するのだ。恋しい男と何の実りもないまま、真綿で首を絞めるような親子らしい穏やかな日々を過ごすのだ。
地獄のようだな、とゲタ吉は顔色ひとつ変えず思った。もはや惚れた腫れたの話はとうに越している。
ゲタ吉は家出して此処に居る。養い親である水木に降り積もる想いを打ち明けて、見事に玉砕したから家を出てきてしまったのだ。
初めて義父に慕っていると言った時、あの人は酷く動揺していた。そして大人の顔をして、優しく子どもに言い聞かせる声で諭したのだ。気の迷いだ、勘違いだと。
そんなんじゃないと証明したくて、何とか振り向いて欲しくって色々手を尽くしたけれど、どれも意味はなかった。清水の舞台から飛び降りる心地で、抱いてほしいと懇願しても、傷のある広い胸に擦り寄ってみれど、ゲタ吉の潰れた左眼に掛かる髪をツイと撫でよけて、瞼に乾燥した唇をくれたくらいだ。それは真実優しいものだったが、だからこそ一層残酷な行為だった。もう、一切望みなんてないのだな、と流石に悟った。
ゲタ吉は、これ以上あの家に居れないとさめざめ思って、薄っぺらな財布だけジーンズに突っ込んで飛び出してきてしまった。中身は小遣いの七千円。それもとにかく遠くへ、と路銀にあててしまって、もう殆ど無一文である。
文章で書くと数行だが、この決断をする前にも、身も千切れるような葛藤を繰り返したゲタ吉である。
義父に心底惚れ抜いている。叶うならば、懇ろになりたいと思っている。想い通じ合い、心通わせられたらどんなにか……。しかし、義父は自分を子どもとしか見做していない。このまま此処に居れば、家族として今までと変わりなく傍に置いてもらえるだろう。だが一生、一生を水木の子として過ごすのだ。そんな苦しみに耐えられるだろうか。いつか辛抱ならず、トンデモナイことを仕出かしてしまうんじゃなかろうか。
そんな堂々巡りの悩みを抱えて、実に数ヶ月に及ぶ大失恋であった。やっと重い腰を上げて水木邸を後にしたゲタ吉であるが、根無草の無一文でも生活してゆけたのは、運良くこの裏路地に辿り着けたからだった。
繁華街のきらきらしい電飾を避け、縋る客引きや美人局をかわし、がなり声と高く響く女の笑い声を背に進んだ、青い暗がり。配管・パイプがひしめき、ガスメーターやら室外機やらが乱立している。
表には春を売る少女や婦人がしなを作って立っているが、此処にいる男たちはボンヤリ紫煙に包まれているか、値踏みするようにジロジロ眺めているかのどちらかだった。その日の宿を探したり、食い扶持を繋いだりする目的で、少年たちが唯一持っている価値高いものを差し出しているのだ。あるいはそのような文化圏から、もはや抜け出せない者も多い。つまりコレ以外の真っ当な金の稼ぎ方というか、生き方を知らないのである。ウリをしている少年たちにも独特のコミュニティが築かれていて、シャッターの降りたタバコ屋の軒下に段ボールを敷いてたむろしている。
人間社会でモノノケの類はいつだってのけ者であるし、ゲタ吉は高校でもちょっと浮いていたが、此処でも同じくだった。が、裏路地はのけ者たちが集まってくる場所だったし、別に困りはしなかった。怖いもの知らずで人懐こいマサキ君がやたら明るい調子で声を掛けてくるだけである。マサキ君はこの通りに14の頃から立っている玄人で、噺家のようにべらぼうに喋る男だった。ちょっと多動気味に、肩を左右に揺らして目をぎょろぎょろ喋る男。多分薬をやってンだな……。
「え、ゲタ君、きいたァ?」
「ハァ、なにを」
非常に無礼極まりないことを真剣に平熱で考えていたため、気の抜けた応えを適当に返してしまった。
マサキ君はそんなゲタ吉を毛の先ほども気にせず、ダムが決壊した時に押し寄せる水の流れみたいに語り出す。
「最近さ、スゲェ男前が通りに来るらしいよ。まだ誰も寝てないらしんだけど、あのー、ヨシ君が声かけられたって言っててさァ。俺丁度後藤さんと、ア、後藤さんてホラ、すげぇねちっこいけど羽振りの良い人。あの人ンとこ行ってたから、見てないんだよネ」
「ふぅん」
相変わらずよく回る口で喋る喋る。
ゲタ吉は潰れた箱から煙草を一本取り出した。Peace以外を、と思って適当に選んだ銘柄で、非常に辛い煙草だ。
「なんかさァ、人探してるらしくって。息子とか言ってたかな」
ゲタ吉はビクッと肩が揺れるのを自覚した。が、マサキ君は話をするのに夢中になって、やっぱりゲタ吉の様子なんか気にも留めない。
「マ、こんなとこに入り浸るような息子なら、ロクなのじゃねぇなー。でもさ、すげぇ必死な感じらしんだよ。知らねえか、知らねえかって、怖い顔してきいてくんだって」
「……」
「でさ、」
マサキ君は声を顰めて、ゲタ吉の耳元に口を近づけて囁いた。ちょっと愉快そうな、猫を殺す好奇心の混じった声である。
「目ンとこにさ、デッカイ傷があんだって!耳が欠けてンだってさ!」
息子とか言って、ヤクザもんのイロだったりしてな!とはしゃぐマサキ君に反して、ゲタ吉はざあ、と血の気が引いていた。元より雪の如く白い顔が、紙の白さへと染まっている。煙草を吸う気なんて失せて、人差し指と親指にギュッと力が入り、ひしゃげてしまった。
なんせちまこい鬼太郎の時分から、悪い子のところには斧持った水木がカランカランやってくると言い聞かせられて育ったゲタ吉である。
遂に斧持った水木が探しにきたのだ……!
早く逃げなければ。当てもなく殆ど反射でそう思ったが、その算段をつけようとして、やっぱり当てがないので途方に暮れるしかなかった。
ア、墓があったら帰りたい。それであの世のお母さんと一緒に仲良く暮らすのだ。自分は孝行息子としてお母さんに尽くし、土と菊の花の匂いがする着物を撫でて、膝に擦り寄って甘えるのだ……。