輝二と一緒に暮らし始めて一年が経った。せっかくの記念日だし、今日は二人で何かしたいなぁなんて……思ってた。少なくとも二時間前までは。
「悪い、今日は輝一と出掛ける」
遡ること二時間前。せっかくの同棲記念日だからお祝いというか、ちょっと特別なことをしたいと思って誘ってみた俺に返ってきたのは、その一言だった。
俺もついて行っていい?…なんて聞けるはずもない。だって、輝一はアイツにとって大切な兄貴で、家族で。俺自身もそんな大事な家族から輝二を引き離してしまったっていう罪悪感とか後ろめたさがやっぱりあったから、それ以上は何も言えなかった。アイツが家を出る直前俺に何を言ったのかも、どんな顔をしていたのかも思い出せない。でもきっと、俺はその時とても情けない顔をしていたと思う。
…なんで俺じゃないんだろう。なんで俺といたいって言ってくれなかったんだろう。わかっていても湧き上がるドス黒い感情に心臓が押し潰されそうになる。こんなことを考える自分が嫌だ。そう思うのに止められない。苦しさを吐き出す場所もない俺は、ただソファに突っ伏してじっと背もたれの隙間に溜まった小さなゴミを見つめていた。
……輝二、何してんのかな。輝一と楽しくやってるのかな。……俺といる時よりも、ずっと……楽しいんだろうか。……やめよう、これ以上考えるな。どうせ考えたって仕方がない。頭ではわかっているのに、考えれば考えるほど思考が悪い方へと沈んでいく。
そりゃ、俺はアイツの家族じゃないし、他人だ。…でも、付き合いの長さで言ったら輝一より俺の方が少しだけ長い。喧嘩ばっかしてたけど、正直アイツのことは俺が一番よく知ってる自信がある。だからこそ、誰よりも大切にしたいと思った。誰にも渡したくないと思った。……それなのに、だ。結局何もできないまま一人で悶々としているうちに、時間はどんどん過ぎていってしまう。輝二からも輝一からも連絡は一切来ない。俺からのメッセージには既読すらつかない。……俺、嫌われたのかな……そんな不安ばかりが募っていく。もはや涙を流す力すらも残っていないような気がする。このまま干乾びて消えてしまうんじゃないか……。
「……もう、だめかも……」
ふと口から零れた弱音は、まるで煙のように空気中に溶けていった。
「これで充分かな…」
「他にはいい?」
「ああ…急に付き合わせて悪かったな、今度埋め合わせするから」
「そんなのいいよ。俺だって拓也にはいつも色々お世話になっちゃってるから、お礼も兼ねてってことで」
がさ、と輝一の持つ少し大きめの紙袋に入ったラッピング袋が揺れる。中に入っているものは輝二から拓也への同棲記念のプレゼント。
先日の夕方にカレンダーを見た輝二は翌日が同棲記念日だということに気付き、何かしなくてはと思い立ったもののどうすればいいのかわからず、兄に助けを求めたのだ。最初は驚いていた輝一だったが、すぐに事情を理解してくれて、こうして買い物にも付き合ってくれた。
「…拓也、大丈夫かな…」
「うーん……流石に俺もちょっと悪いことしたなって自覚はある…」
サプライズでプレゼントを渡す計画のため、当然拓也は輝二が何故急に輝一と出掛けたのかなんて知らない。まさかサプライズの準備のために二人で買い出しに行ってくるなどとは夢にも思っていないだろう。
「多分、アイツも何か考えてくれてたんだろうな…」
「出がけに何かあったの?」
「ああ…朝、『今日行きたいとこある?』って聞かれたんだ。それで、今日は輝一と出掛けるって言ったら…その、明らかに落ち込んだ顔されて…」
「……あー………」
出掛ける、までならまだ仕方ないってなったかもしれないけど…『俺と』なんてつけたから落ち込んだんだな…
輝一は舌の付け根まで出かかっていたその言葉をどうにか飲み込み、苦笑いを浮かべながら輝二の肩をぽん、と叩いた。
「まぁ、後で謝っとくよ」
「うん……そうしてあげて……」
今頃、拓也のメンタルは硝子みたいに粉々になっていることだろう。そう考えた輝一の頭の中は、拓也に対する申し訳なさでいっぱいになった。
そうこうしているうちに、二人は拓也が待っているアパートの部屋の前に到着する。
「じゃあ、俺はここで。頑張ってね、輝二」
「ああ。ありがとう」
輝一は輝二に紙袋を手渡して、そのまま来た道を引き返していく。輝二はその背中が見えなくなるまで見送ってから、意を決して鍵を取り出し、ドアノブに差し込んだ。
「ただいま…」
恐る恐る扉を開けると、部屋の中から返事はない。しかし玄関に靴はあるので外出しているわけではなさそうだ。
(…寝てるのか…?)
起こしてしまったらまずいと思い、ゆっくりと靴を脱いで玄関からリビングに向かう。そろりと扉を少し開けて覗き込むと、ソファの上で突っ伏している拓也の姿があった。
(…やっぱり)
輝二は溜息をつくと、持っていた荷物を近くに置いて拓也の元へ歩み寄る。そして、隣に腰掛けて肩に手を置くと、静かに揺すった。
「……拓也、起きろ」
「………」
反応はあるものの、起きる気配は全く感じられない。仕方なく、今度は強めに揺すり続ける。するとようやく薄らと目を開けた拓也がぼんやりとした表情でこちらを見つめてきた。
「……ぁれ…、輝、二…?」
「……ただいま。ごめん、起こしたな」
「………??」
まだ状況を把握できていないのか、拓也はぼんやりとした表情で輝二を見上げてくる。
「…お前、なんでここにいるんだよ……?」
「なんでって……、それは……その…」
突然の質問に思わず言葉が詰まる。正直に言うべきか、言わない方がいいか……。少し迷ったが、正直に話すことにした。
「……今日、同棲記念日だろ」
「ぉん…そーだっけか………」
「だから、これ……」
言いながら、輝二は紙袋を差し出す。拓也は緩慢な動きで身体を起こし、それを受け取った。
「え……、俺に……?」
「他に誰が居るんだよ……」
「でも、なんで……」
「今言っただろ…同棲記念日だって…」
「いや、でも……」
拓也はまだ状況が掴めないのか、若干困惑気味で目を丸くしていた。
「…早く中見ろよ…」
「お…おぉ…」
輝二に促され、拓也はガサガサと紙袋の中身を取り出す。中から出てきたのは赤と青のペアマグカップと、赤い包装紙に包まれた小さな箱だった。
「…え、待って…マジ…??」
「…気に入らなかったか?」
「いや…寧ろ逆……なぁ、これマジで俺が貰っていいの…??」
「当たり前だろ……そのために買ってきたんだし……。そっちの箱も開けろよ…」
「う……うん……」
震える手で小さな箱の赤いラッピングを剥がし、現れた白い箱の蓋をゆっくり開く。中にはシルバーのブレスレットが二つ並んで入っていた。
「……なぁ」
「なんだ」
「………これさ、本当にマジで俺の…??」
「お前以外に誰がいるんだよ……名前彫ってあるだろ…」
言われてみれば確かに、箱の中に並んでいる二つのブレスレットにはそれぞれ『Takuya』『Koji』の文字が刻まれている。しかも拓也のブレスレットには赤い石が、輝二のものは青い石が埋め込まれていた。
「……なぁ、着けてみてもいい?」
「あ、ああ……」
拓也は恐る恐る箱から自分のブレスレットを取り出し、手首に回す。手首のサイズに合わせて留め具を調節すると、拓也は嬉しそうに顔を綻ばせて輝二を見た。
「…どーよ?」
「…ん、似合ってるぞ」
「ふへへっ……なぁ、輝二のも着けさせろよ」
「…わかった。ほら」
嬉しそうに笑う拓也に釣られるように笑みを浮かべながら、輝二は拓也に手首を差し出す。拓也は輝二のブレスレットも箱から取り出すと、彼の手首にも同じように装着した。
「…お揃い、だな」
「そうだな…」
「……へへへっ…」
拓也は幸せそうに頬を緩ませながら、手に持ったブレスレットを眺めている。そんな彼を見て、輝二も自然と笑顔になった。
「あー…どうしよ…」
「何がだ?」
「いや…なんかもう……泣きそ……」
目を細めて笑う拓也の目には薄く涙が浮かんでいる。それに気付いた輝二は彼の目尻を指先で拭ってやった。
「泣くなって……」
「無理ぃ……」
「大袈裟な奴…」
「だってぇ……」
拓也はぐずりながらも、満面の笑みを輝二に向ける。その顔を見ると輝二の胸の中には温かいものが広がっていくような気がして、それがまた心地よかった。
「俺さ…お前出掛けてからずーっと不安でさ…愛想尽かされたんじゃないかって、嫌われたんじゃないかって…」
「なんでそうなるんだよ…」
「だってさぁ…俺だって輝二とどっか出掛けたいなって思ってたし、せっかくの記念日なんだから特別なことしてぇなーって思ってたのに…お前、輝一と出掛けるから無理とか言うんだもん……マジで嫌われたと思って……」
「…悪かった……記念日だから内緒で何かプレゼントしたくて…でも、俺一人じゃ決められないからって輝一にも手伝ってもらってたんだ…」
輝二は腕を伸ばして拓也を抱き寄せると、その頭を優しく撫でる。すると拓也は輝二の首元に額を押し付けるようにして抱き着いてきた。
「俺さ…お前のこと信じてなかったわけじゃないけど、ちょっと怖くなってさ……。もし、お前に捨てられちゃったらどうしようって……」
「捨てねぇよ……」
「けど、今日ずーーっと不安で……」
「…ごめん」
「……でもさ、今すげぇ嬉しい。お前がちゃんと考えて、こんなサプライズ用意してくれてたなんて思わなかった」
拓也は輝二から離れ、視線を合わせる。そして、そのままゆっくりと唇を重ねた。
「……それで?お前の考えてた記念日デートプランとやらはどうなんだ?」
「うぇ?」
キスの後不意に投げかけられた質問に、拓也は思わず素っ頓狂な声を上げる。
「今日一日どう過ごすのか、ずっと考えてきたんじゃないのか?」
「いや、その……いいの?」
「まだ夕方だし、今からでも遅くはないだろ」
「輝二……」
やだ俺の幼馴染カッコイイ…俺が抱く側だけど。感動に打ち震えながら、拓也は改めて輝二の手を取った。
「…今日の為にさ、二人で行けたらいいなーって場所色々調べといたんだよ。そんな遠くなくて、電車で行ける範囲でさ」
「へぇ……」
「でさ……今から一緒に行かね?」
拓也の誘いに、輝二は小さく笑って首を縦に振る。
「勿論。…エスコートしてくれるんだろ?」
「当たり前じゃん!俺に任せろって!」
すぐ用意するからな!そう言って慌ただしく立ち上がり、寝室に向かっていく拓也を、輝二は穏やかな表情で見送る。
「……楽しみにしてるぞ」
小さな声で呟いて、輝二は口角を持ち上げる。二人で過ごす初めての記念日に、心が弾まないはずがない。輝二は期待に胸を膨らませながら、まだ拓也の体温が残るソファに腰を下ろした。