【恋愛初心者狂騒曲】Ⅳ・前編 「二回目ってどうやって誘ったらいいの?」
高専内の廊下で珍しく神妙な顔をして「話したいことがある」と言ってきた五条に家入はその場で詳細を聞かず誘われるがままに居酒屋の個室に来た事をその時、少々後悔した。
「知るかよ」
心底どうでもいいという感情を込めて言えばテーブルを挟んで向かいに鎮座する五条が「真面目に答えてくれよ」と必死感を込めて叫んだ。
そんな相手を無視するように家入はメニュー表を手に取りぱらぱらとめくる。奢ってくれるという言質は取っているので夕飯を済ませてしまおうと視線を動かしていると
「ちょっと、硝子聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
「絶対嘘じゃん」
唇を尖らしているのが長年の付き合いで見ていなくてもわかる。
家入は不服そうな顔をしている五条を想像しながら目についたじゃがバターの写真にぴたっと視線を止めた。
「何食べるか決めたか?」
「え?大福盛り合わせ」
「なんだよそれ」
「硝子は」
「じゃがバター」
「いい選択だけど夕飯になるの?」
「お前に言われたくない」
ボタンを押すとしばらくして溌溂な笑顔を見せる店員が注文を受けにやってきた。
それぞれに商品を伝えると手に持っていた電子伝票に入力して笑顔のままに個室のドアを閉めて去っていく。
壁一枚の向こうから誰ともつかない声や無機物の音が混ざりに混ざって聞こえてくる中、家入は先に頼んでいた焼酎を飲もうとグラスに氷を入れていく。
「先々週、めでたく伊地知と繋がる事ができたんだけど」
「同僚の性事情とか心底どうでもいいわぁ」
「これはのろけ」
「もっと聞きたくねぇわ」
いびつな形をした氷がグラスの中で積まれていく、五条は早くも話を勝手に進めるモードに入っており家入はそれを適当に右から左へ受け流すモードに入っていた。
「いや、正直想像以上に良かったんだよね」
「そうか」
「なんか、今まで経験した事無い感覚?みたいなのあって、いや本当にびっくりだったのよ」
「そうか」
焼酎の蓋をノールックスタイルで指でしゅるんと回し開けると家入はグラスに注いでいく。
「相性っていうのかな、うん、もう凸と凹がびたっとハマったあの感じ」
「そうか」
「ねぇ興味無いとしてももうちょっとリアクションして!」
さすがにひどいよ!と怒って来たので家入はめんどくさと思いながら「わかったよ」そう言って焼酎をひと口飲んで
「で、そんなに相性が良かったと思うんならあっちだって多少はそう思ってるんじゃないのか」
「だと、いいんだけど」
途端勢いが萎れた五条におや、と家入は視線を向ける。
「聞かなかったのか?」
「いや、それとなく聞いたよ。良かったって言ってくれたけど」
「何が気になるんだよ」
「いや、あいつさぁ終わって家まで送ろうか?って僕が言った時ひとりで帰れるって言ったんだよ」
「別に変ではないと思うが」
「僕もそう思うよ、心配だったけど本人がそういうならと思ってホテルの前で別れたんだけど、帰る前にあいつ僕に向かってお疲れさまでしたって言ったの」
五条はそう言うとテーブルの上に腕を乗せた。
「恋人との初エッチの終わりにお疲れ様って、どういうつもりで言ったと思う?」
「……まぁ、いつも言ってるのが無意識に出たんじゃないのか」家入は焼酎をぐびっとひと口飲んで「疲れて特に何かを意識したわけじゃなくて慣れた言葉が自然と口から出た、みたいな」
「そんなもんなのかな?なんか僕はすっごい良かったって思ってたけどあっちにとってはひとつの作業が終わったみたいな感覚だったのかな、とか考えちゃってさぁ」
タイミングを見計らったかのように個室の扉がノックされ先程注文を取った店員が商品を持ってやってきた。
「お待たせいたしました~」
溌溂な笑顔と声でテーブルに商品を乗せていくとそのまましゅばっと扉を閉めて去っていく。どこか職人の雰囲気を感じ家入は嫌いじゃないと思いながらぐいっと焼酎を飲んだ。
「とりあえず食えよ」
「硝子も」
話を一旦区切り、互いに頼んだ商品を食べる。
バターがいい具合に溶けて染みた部分のしょっぱさに満足しながら焼酎を飲んでいると大福を齧った五条がこれ見よがしにはぁっとため息をついて
「細かい事なのかもしんないけどさぁ、なんか気になっちゃったら二回目誘うのもいいのかなとか躊躇いの気持ちが芽生えちゃったというか」
「あっさり聞けばいいじゃないか、気分じゃなければ断るだろうし」
「断られたら僕泣いちゃうかも」
「自分がいかにも百戦錬磨、誘えばできてたみたいな言い方すんな。断られた事ぐらいあるだろうが、思い出せ」
家入がそう言うと五条が顔を俯かせたので、なんだその反応…と思い様子を見ているとその格好のまま動かず
「どうした、おい」
「………もん」
「は?」
「おんなじ奴と二回した事無いからわかんねぇ事だらけなんだよっ」
ばっと顔を上げたかと思うとそう言ってきた五条の言葉に家入はしばらくぽかんと固まった後
「は?」意味を理解すると「マジ?お前それマジの話?」
そう聞き返すと家入は思わず「マジで?」と笑ってしまった。
「こっちは真剣なんだけど!」
「え?だって私の知ってる限りお前結構ヤってたじゃん、毎回相手違ってたって事?」
すげぇねとこぼすように言った後、酒が進むわぁと言わんばかりに焼酎を飲む家入に五条は不服そうな表情をして
「あと腐れの無い関係で楽しめればよかったんだよ」
そう言うと肘をついて不貞腐れたように手のひらに顎を乗せた五条は「当時はそれでよかったんだよ」
「まぁお前しばらくは素人童貞だったもんな」
「関係あります」
「頭でっかちになってる可能性があるんじゃないか」
「どういう事だよ」
「実技ばっかりうまくってもそれは結局、自分の欲を吐き出すだけの行為だったら相手は人間でも道具でも変わりはないだろ?」
「ッ僕は、あいつをそんな風に扱ったつもりはねぇよ!」
「お前はそう思っていても、相手がどう思ったかわかんないんだろ、実際別れ際にお疲れ様ですって言われたんだろ」
「さっきは疲れてて、つい出たんだろってお前が」
「それも可能性のひとつってだけの話、もしかしたらの話だよ」
す、っと意味も無く人差し指で空に線を描くような動作を見せながら家入がそう言うと五条の喉がぐっと引かれる。
「え、僕、失敗したのかな」
えらく殊勝なこって、普段の勝気で自信家な姿はすっかりなりを潜めている五条を家入は一瞥した後
「さっきから言ってるけど気になるなら本人聞けばいいだろ、誰かに相談して悩むよりも最短解決は話し合いだ」
「それができてりゃ僕は今お前とここにこうしていないよ」
「まぁ、奢ってもらう分ぐらいは相談に乗ろうじゃないか。そもそもこの二週間、相手の反応はどうだったんだ」
「どうって」
「それとなくアピールとかしてこなかったのか?そうでなくても二人で話す機会は何度かあっただろう?」
家入がそう尋ねるとサングラスがずれた先に見えた目がすっと視線を横に逸らしたのを家入は見逃さなかった。
「なんだその顔は」
「え、何が?」
「なんかあったのか」
「いや、なんかあったというより…うーんと」
「はっきり言え」
持っていたグラスの底を気持ち分強くテーブルにぶつけると五条は観念したように
「……実は二週間、これといって、いや、ほぼ、接触らしい接触を…していません」
「はぁ?」
「いや、仕事はしてるから!真面目に」
「お前が真面目に仕事してるとかウケる、それこそ嘘じゃないか」
「硝子、ひどい」
「ひどいのはどっちだ。というかどういう事だ、接触無いって避けられてるのか」
「いやそんな事は無い、と思う。任務で一緒になった時とかそういう雰囲気感じた事無いし」
まぁあいつそういう時は仕事モード入ってるから、と独り言のように五条はこぼした。
「とするとお前の方が避けてるのか」
「いや避けてるわけじゃないんだよ、ただ、なんか、こう、いざ出来ましたッ!てなった後に前と同じようにスキンシップ取ろうと思ったら途端に恥ずかしくなったというか」
五条は言いながら一息つくようにふぅっと息を吐くと口を隠すように両手の指を組んで
「タイミング見つけてハグしようと思って、姿見つけていざ声かけようとした瞬間に、いろいろ思い出しちゃってそしたら、あ、今この状態でハグしたら僕、自分が抑えられなくなっちゃうかもとか考えちゃって」
「職場で性行為はするなよ」
「……善処します」
「はっきりと答えろよ、まぁその辺りは伊地知のほうがきちんとしてくれるだろうから安心しているが」
「さすが実績と信頼が厚い男、僕の恋人超素敵」
「その恋人を失望させるような事をするなよ」
「わきまえてるつもりだよ、あいつの事僕なりに大事に思ってる」
五条はそう言って小さく笑った後、ふっとどこを見るでもなく目を細めて
「だからこそさ、わかんないんだよね。大事にしたいけど大事にって何?触りたいと思っていざ触れたらもっと触りたいって思って、それが許されたら、それ以上が欲しいって思っちゃって」
手のひらを見ながら頭の中で自分に抱かれる伊地知の姿を思い出す。
真っ赤になりながら苦し気な表情をしながらも自分を受け入れて、甘えてくれたあの姿を、
向こうにとってはただの作業だったなんて、そんな事――
「まぁ早いうちに何かしら手を打った方がいいんじゃないか、二週間何にもしてこなかったってさすがにヤバいだろ」
「え?」
「単純に考えてみろよ、セックスするまであったスキンシップが行為後にぱったりと無くなった、相手にしれみれば不審に思うだろう、もしくは――」
*****
飽きられたんだろうなぁ
五条とのセックスから二週間と少し経った頃
伊地知はそんな事を思いながら高専内の廊下にひとり立っていた。
木枠にはめられたガラス窓越しの空を眺めていると名もわからない鳥が四角い世界を通り過ぎていくのが見えその動作を目で追った後、伊地知は上げていた視線を落とすと同時に口からため息をこぼした。
飽きられた――そう思う理由は、はっきりとある。
行為前まであった過剰ともいえるスキンシップが行為後は嘘のようにぱったりと無くなったのである。
会えば必ずと言う程自分の頬や額にキスをしてきたり、ハグをしてきたりしてきていたのに、それが急に無くなりさすがの伊地知も露骨すぎだろうとため息を吐かざるを得ない気分になっていた。
まさかこんなあからさまな態度を見せてくるとは、伊地知は意外だなと思った後にそうでもないのか?と思ったりしていると遠くから誰かの声が聞こえ、ふっと視線を上げる。
遠くのほうでどこかを指さすように腕を伸ばしている禪院真希を左右挟むようにして歩いている狗巻棘とパンダの二年生三人組が歩いている姿が見えた。
訓練用の六尺棒を肩にかけるように真希が持っていたのでこれから三人で特訓かなと伊地知は思いながら自分もいつまでもここでぼーっとしてる場合じゃないよなと気持ちを切り替えると足を動かし廊下を歩いていった。
もともとチャンスは一回だと自分でも思っていたじゃないか
スキンシップが無くなって代わりに無茶ぶりが復活するかと思ったがそれも無く
いまだかつてないスムーズな仕事環境を現状、手に入れている。
いい事じゃ無いか、これが私の理想としていたワーキングスタイル
伊地知はそんな風に考えながらだんだんと自分の意識を仕事モードへと変換させていると
「うっそでしょ」
不意に聞こえた大きな声にびくんと体が震えるように反応して足が止まる。
何事かと顔を動かすとちょうど食堂の入り口で自分が止まっており、そこから中を覗くと椅子に座ってテレビのほうに顔を向けている一年生三人組の後姿があった。
「結婚したのッ?!てか、この二人付き合ってたんだ?!」
声の正体は釘崎野薔薇でテレビ画面には伊地知も見た事がある芸能人二人の写真とでかでかとまさかの結婚報告というテロップがあった。
「何?釘崎この役者好きだったん?」釘崎の斜め後ろに座っている虎杖悠二がさして興味が無さそうに聞いた。
「まぁ、それなりに。ドラマも一応見てたし」釘崎はそう言うと机を挟んで隣に座っている伏黒恵に向けて「あんたもたまに見てたでしょ」
「まぁ」特にテンションを上げる事無く伏黒はシンプルに答えた。
「え、そーなん?伏黒も好きだったん?」
「…それなりに」
「あ~こいつも衝撃受けてるわよ」
「受けてねぇよ」
「正直に言いなさいよ。まさかこの二人がねぇ、密かにはぐくんだ愛、かぁ。いいなぁ私も恋したいわぁ」
そう言ってぐでっとした頬杖をつく釘崎に虎杖が「釘崎恋人欲しいん?」
「うーん、というか恋がしたいって感じ?恋したいモード」
「なんだよ恋したいモードって」伏黒がこぼすように言った。
「気がついたら好きになってたとかそういう恋をしてみたいっていうアレよ」
「わかんねぇよ」
「はぁ~伏黒、あんたちょっとは感情のベクトルをこうぎゅいっと動かして見なさいよ。目と目が不意に合った瞬間雷に打たれたような衝撃を受けたり、逆にすとんと落ちるような、理由も無いのに好きだと気がついてしまう恋、とか。気がついたら相手に夢中になってたんだと後から気が付くような」
両手を祈るようにガシッと握って周りにキラキラとした光をこぼしながら語る釘崎に虎杖は「へぇ意外だなぁ」と特にその雰囲気に乗る事無く言い放った。
「何よ、意外って」
「いや釘崎ってなんかこう、もっと現実見据えてそういう恋愛とかもするもんだと思ってた」
「それって恋愛じゃなくて結婚の話でしょ」
「違うの?」
「違うわ、違う、大違う!」
「大違うってなんだよ」伏黒がぼそっとこぼした。
「恋愛したい相手はイコール結婚したい相手とは必ずしもならないから」
「えッそーなの⁈」虎杖が驚きの声を上げた。
「そうよ、私が今言ってるのは、今‼十代のうちにしかできない後先考えないようなトキメキ100パーセントな恋愛がしてみたいっていう話なの。現実的な話は一切してないわ」
「なんだろう夢のある話をしているようですっげぇ夢の無い、この感じ」虎杖がわからんッという表情を隠さず言った。
「簡単にキラキラな恋なんて降ってこないから人はドラマを見て、あぁこんな恋したいって憧れたりするのよ」
「でも、絶対無いってわけじゃないんだよな」虎杖が聞いた。
「レアもんよ、天井すり抜け必須のSSRよ」
「そんなにッ」驚く虎杖に「どんな恋愛だよ」と伏黒は呆れるように言った。
「言ってるでしょ、特に理由なく気がつくの、ふとした瞬間に自分の中にあった恋心に。その瞬間世界が変わって見えるの、人生が色づいて、その人を見るだけできゅっと心臓が苦しくなっちゃうような――」
「あ、伊地知さんだ」
不意に振り返った虎杖と目が合い、にこりと笑顔を向けられ伊地知も微笑み返していると「話を聞けよ」と叫ぶ釘崎の声が虎杖の頭に降り注いだ。
「お疲れサマ伊地知さん」
手を振る虎杖に釘崎もまったくとこぼしながらも自分に対して挨拶をしてきたので伊地知は食堂の中へ入ると三人に挨拶を返した。
「何か用事?」
「いえ、声がしたのでなんだろうと思ってたまたま見ていただけで」
「そうなんだ、あ、伊地知さんこの芸能人知ってる?」
「えぇ存じてます」
「へぇ、珍しいね」
「あんた失礼よ」
「いや、伊地知さんこういうの伏黒以上に知らないから」
「馬鹿ね、伏黒は意外とこういうの詳しいのよ」
「そうなの?」
「そうよ」
「おい、本人がいるとこで勝手に決めつけてんじゃねぇ」
やいやいと喋る三人を見守るようにしばらくその場に立っていると「あ!」と何かを思い出したかのように大きな声を出した虎杖に伊地知はびっくりした。
「急に大声出して何よ」釘崎がうるさいわねという眼差しを虎杖にぶつけるように言った。
「いや、オレ明日五条先生に訓練つけてもらう予定だったんだけど変更のお願いするのすっかり忘れてた」
今、思い出したと椅子から立ち上がった虎杖に伊地知は頭の中に入っていたスケジュールを思い出しながら「あぁ明日は少し遠出の任務が入ってましたね」
「そうなの、任務入る前に約束してたから、五条先生高専にいっかなぁ」
「電話してみれば?」
「部屋で充電してる」
「あんたねぇ、いい加減予備の充電器買っておきなさいよ」
呆れたように言う釘崎の言葉に虎杖は「タイミングがねぇんだよなぁ」とのらりとした口調で返した。
「五条さんならこの後任務が入ってたはずですからどこかで待機してると思いますよ」
時間を確認しながら伊地知がそう言うと虎杖は「さっすが伊地知さん」そう言って屈託ない笑顔を見せた後「最近も五条先生から無茶ぶりされてるん?」
「え?」
不意に聞かれ思わず言葉に詰まってしまった伊地知の姿に釘崎が
「たまにはガツンと言ったってバチ当たんないわよ、伊地知さん人が良すぎだからあの人甘えまくってんのよ」
うんうんとうなずく伏黒が目に入り、伊地知は「あはは」と笑って流すしかできなかった。
内心はどこか焦ったようにドキドキしつつ、ほんの少しそこに痛みのようなものを感じてその正体がわからないまま伊地知はその場を離れると再び廊下を歩きだす。
そうか、あの子たちには私と五条さんの関係は以前からなんら変わっていないように見えているんだな
伊地知はその事に安心しつつ、そうかとぐっと拳を握る。
付き合いたいと言ってきて、冗談だと思って安易に応えて、なんだかんだで始まったこの関係は結局、名前も無いままに終わるのか
そんな事を考えながら廊下の角を曲がった瞬間、伊地知の足がぴたりと止まる。
オープンスペースになっているそこはランダムにソファタイプの椅子などが置いてありそのひとつに座る人物に目が留まったまま伊地知は動けなくなった。
どうしてこんな時に限って
そんな事を思いながら外せない視線をそのままにしばらく眺めているとまったく身動きしない相手に、あぁ寝てるのかと少しだけ気持ちが楽になった。
足を伸ばして腕を組み目隠しをしたままの五条の姿に、器用なもんだなと心の中で呟きながら足を動かそうとしても動かない。
そういえば虎杖君が探してたんだった。
ふと思い出し、伊地知は自分に言い訳するように、そう私は彼の用件を伝える為に、虎杖君の為にと、誰に言うでもない言葉を内心繰り返しながら五条のほうへ近づいて声を掛けようと口を開けたが言葉が出てこない。
たった一言、起きてください。でも、虎杖君が探してましたよ。でも
そう言って用件を伝えてこの場を離れればいいだけのはずなのに
息を吸い込んでもそれが音になる事は無く、何度かやっている内に段々と伊地知は自分にも相手にも苛立ってきた。
だいたい、なんで私がこんな事でいちいち悩んでもだもだしなければいけないんだ。
私だって、五条さんのごじょーさんを試したいというそういうよこしまな気持ちで安請け合いしただけの話じゃないか
五条さんもいたずらの延長みたいな感じで、興味が湧いて、飽きて、の話なんだ。
そうなんだ。きっと
自分で考えておきながら伊地知はしんどくなってきて、ぶんぶんと頭を振ると
五条が座っている椅子の背もたれに手を置き、気合いを入れるようにすぅっと息を吸い込むと「五条さん、起きてください」
静かに声を掛けた瞬間、開いていた窓から風が吹き伊地知の頬に当たる。と同時にふわりと五条の香りが伝わってきて、その瞬間心臓が跳ねた。
「ッ」
そんな自分自身の反応に伊地知はきゅっと眉間に皺を寄せる。
なんで、こんなに苦しい思いをしているのだろう
結局私はこの人に振り回されてばかり
いつだって、この人は、他人を振り回して楽しんでいる――
「あ五条センセみーっけ!!」
背後から聞こえた元気いっぱいな虎杖の声に伊地知は驚きで全身を震わして「ひぇ」と思わず声を出した。
「い、虎杖君」
「また会ったね伊地知さん」そう言いながらぴょんぴょんと跳ねるようにこちらへやってきた虎杖が「もしかして先生寝てるの?」
「えぇ、そうみ「そうだよ、寝てるよ~」
かぶされた声に伊地知は目を見開く
「起きてんじゃんよ~」不満を言うような口調ながらも笑みを見せる虎杖の顔からちらりと様子をうかがうように視線を動かすと
「悠仁の声で目が覚めたんだよ」
そう言いながら虎杖に向けてひらりと手のひらを見せる五条の姿に伊地知は静かに緊張していく
「どうしたの?何かあった?」
「あのさ明日体術の練習の約束してたじゃん?オレ任務入ってるのすっかり忘れてて、日にちずらせないかなって」
虎杖はそう言うとごめんッと顔の前で両手を合わせた。
「そっか、そっか。了解!ただ僕もいつ時間作れるかすぐにはわかんないからしばらく保留って事にしておこうか」
「せっかく先生に特訓してもらえると思って楽しみにしてたんだけどな」
嘘のない残念だという表情を見せる虎杖の姿を見て、伊地知はこんな風に自分の感情を素直に見せれるこの子の感性は好ましいと思いながら、少し羨望にも似た感情を持った。
「それよりも明日の任務の準備を怠らない事、しっかりやってくるんだよ」
「モチあ、ついでに聞きたい事あったんだけど今いい?」
虎杖の言葉に伊地知はこのタイミングだと思って「それじゃあ私は用があるのでこれで」そう言うと足早にその場を離れた。
「伊地知さんまたね~」
そう言ってぶんぶんと手を振る虎杖にぺこっと小さく頭を下げて五条をちらりと見る。特にこれといって普遍ない笑みで自分を見送る姿を確認するとそのまま廊下を早歩きのように進んだ。
「んでさ、五条先――」
「ねぇ悠仁」
「何?」
「最近の伊地知ってどう?」
「え?伊地知さん?どうって、何が?」
なんでそんな事聞くんだろうと虎杖は首を傾げる。
「元気そうとか、そうじゃなさそうとか」
「え~?別に変わったとこは無いと思うけど、あ、でも前よりぼーっとしてる所をよく見る様になったかも」
「ぼーっとしたところ?」
「うん、なんか空とかぼーっと眺めてる姿とかよく見る様になった気がする」
「……へぇ」
「なんかあったの?」
「いや別に、それじゃあ悠二、僕への質問コーナー開設しちゃおうっかな、なんでも聞いていいよ」
*****
いくら自分がそうでありたくないと思っても現実はその通りに動いてはくれない。
「メイプルバターシナモンクレープひとつ。オプションでクリーム追加増し増しで」
手配していたタクシーに連絡をしたついでに自販機でコーヒーを買って戻って来た伊地知が見たのは注文したクレープが出来上がっていく様子をルンルンなテンションで見ている五条の後姿だった。
「お待たせしました。メイプルバターシナモンクレープです」
朗らかな店員が笑顔と共にふわふわなクリームが山となったクレープを五条の前に差し出す。
「わぁおいしそう~」
「クリーム増し増しにしておりますッ」
「ありがと~」
「またのご来店お待ちしております」
ひらひらと店員に手を振った後、受け取ったクレープに大きな口を開けてかぶりつく五条の姿に、カロリーのお化け…と伊地知は見ているだけでも胃にこみ上げるものを感じた。
「お待たせしました。行きましょう」
「あ、伊地知もクレープ食べる?奢ってあげるよ」
「いえ私は結構です」
「あっそ」
時刻は午前10時過ぎ
五条と伊地知は任務の為に某県某所に訪れていた。
「なんかさぁ時間早くない?朝活的な呪いなの?」
タクシーが来るまでの間むしゃむしゃとクレープを食べながら聞いてきた五条に「資料読んでないんですか?」
「僕が読むと思う?」
「ざらっとでもいいので目は通しておいてください」
「結局伊地知が全部説明してくれるじゃん」
口端にクリームをつけたままニカっと笑顔を見せる五条に伊地知はまったくと呆れたようにため息を吐いた後
「今回は場所が三か所あります。そこを順番に巡っていきます。」
「距離的にはどのくらい?」
「一番目がここから三十分、二番目はそこから歩いて五分、三番目は五分から十分程になります」
「三番目の時間がやけに曖昧なのは何か理由があんの?」
「……本当に読んでないんですね」
「伊地知から聞いた方が話が入ってくるんだもん」
あっという間にクレープを食べ終わった五条はペロッと舌で唇を舐めると「おいしかった」と満足そうな声を出した。
「三番目は場合によって二番目の場所から距離が変わると言われてるんです」
「距離が変わるねぇ」
「発端は数ヶ月前から小中学生の間で流行っている願掛け、まぁいわゆるおまじないといわれるものなんですが、三か所それぞれ順番にABCとして先程も言ったようにそこを歩いて巡ります」
「ただ巡るだけ?」
「手順としては、まず自分の叶えたい願いを書いた紙を用意します。Aの場所にそれを置き、Bの場所へ向かうのですがその際にすでに置かれている他人が書いた紙をひとつ選んでBへ持って行くんです。あとは同じ事をBからCの場所へ行く際に行う、というやり方です」
「なるほど、自分の願いでは無く他人の願いを運んでいくのか、それはまた随分とややこしく面倒な事をしている」
五条は言いながら、だからこそ発生した呪いだねぇと呟いた。
「願い事の中身は見てもいいの?」
「決まりとしては絶対に見てはいけないと」
「だろうね、そうじゃなければ子供の間で流行ったおまじないが数ヶ月で大きな呪いに育つなんてそうそう無い。自分の願いを叶える為にどんなお願いをしたかもわからない他人の思いを背負ってしまうという事がどういう事なのかわかってないんだ」
「少人数ならまだしも、確認が取れている限り結構な数の子供達がそれを行っているようでして、まぁ大半は面白半分といった感じらしいんですが」
「とはいえ、やっている事に変わりはない」
あ~やだやだと五条が言っていると呼んでいたタクシーがぐるりとロータリーを回るようにして二人の前に停まったので後部座席に並んで座ると伊地知が目的地を運転手に伝えた。
五条は二人の間に置かれた伊地知が持っていた大きなボストンバッグをちらりと見た後
「先に荷物預けたほうがよかったんじゃない?」
「旅館が現場の先にあるので二度手間になるよりは効率を選びました」
「そう」
なめらかな発進を見せたタクシーの中は会話が無くなり静かな時間が過ぎていく。
伊地知はスマホで現場に到着するまで改めて今回の任務について確認をし、そんな姿を五条はじぃっと見ていたがそんな視線に気がつかないまま、タクシーが信号で止まるとふっと顔を上げて外の様子を見る伊地知の後頭部が視界に入り小さくはねている部分を見つけた五条は手を伸ばしてその場所を指で触れた。うなじに近い場所だったので指の背がすっと肌に触れると勢いよく振り返った伊地知の顔が驚きでめいいっぱい目が開かれておりそんな相手の顔を見て五条も思わず固まった。
「な、んですかっ」
「いや…髪の毛がはねてたから」
「え」伊地知は自分の後頭部に手のひらを当てると「でしたらそうおっしゃってください」
そんな、怒ってるみたいに言わなくたっていいのに
五条はそう思いながらも予想外のリアクションにそれ以上何を言うでもなく、車内は再び会話の無いまま過ぎ去っていった。