酔いどれキスマークの誤算その日は、新しいタイムマシン燃料が完成した記念すべき日だった。
科学王国では、祝という名の宴が盛大に開かれている。
ラボメンバーであるクロムやスイカ、龍水、ゲン、羽京、コハクといった面々が揃い、バーフランソワも特別に開店していた。誰もが人類の未来を拓く大発明に浮足立ち、喜びを分かち合っている。
普段は理性の塊の千空も、この日ばかりはご機嫌だった。
次々と差し出されるフランソワ特製のカクテルにグラスを傾けているうちに、珍しく顔を赤らめていった。
宴もたけなわ。
科学王国メンバーはそれぞれ帰宅していく中、ゼノはまだアルコールを嗜む千空の隣で、静かに科学データの照らし合わせをしていた。互いに科学の話ができる相手は、この世界にそう多くはない。
自然と二人の周りだけ、喧騒から切り離されたかのような静寂が生まれていた。
「……ゼノ……っ、テメーは……マジで……すげー科学者……だ……」
唐突に、千空が隣に座るゼノに擦り寄った。ゼノは内心で心臓が跳ね上がるのを感じながらも、冷静を装う。
「何を言っているんだい、千空。僕にすれば、愚かな衆愚を束ねて見せる君の方が…よっぽど優秀な科学者だよ」
言葉とは裏腹に、千空の無防備な重みが肩にかかることにゼノの口元は緩む。
この少年が、自身の凝り固まった価値観を打ち破り魂に光を与えた。まさか、この自分が誰かにこれほどまでに心を囚われるとは。
だが、千空が自分に恋愛感情など抱くはずがない。....彼の関心は、ただ科学と人類の未来にのみ向けられている。そうゼノは自身に言い聞かせていた。
その時、千空の腕がゼノの首筋に絡みつき、そのままぐいっと引き寄せられた。驚く間もなく、熱い吐息が触れる。
ちゅっ、と。
湿った、熱い感触がゼノの首筋に深く深く吸い付いた。
「……っ!」
ゼノは息を呑む。千空の顔はゼノの肩に埋もれており、泥酔した猫のようにただ深い呼吸を繰り返すだけだった。
翌日になれば、千空は何も覚えていないだろう。そう思うと、キスの痕跡にたまらない切なさがこみ上げてくる。
ゼノは、その赤い証が明日には消えることを願いながら…千空にそっと毛布をかけた。
翌朝。
千空はひどい二日酔いで目覚めた。昨夜の記憶はほとんどなく、頭を抱えながらいつものように科学の準備に取り掛かる。
「…はよーさん」
すでに椅子に座り、データ整理をしていたゼノに声をかける。
ふと、ゼノのシャツの襟の隙間から首筋が見える。
「……ん?」
千空の視線が、ふとゼノの首筋で止まる。白い肌に、鮮やかに浮かぶ赤い吸い痕。
(なんだ、これ。まさか、こんな痕……誰がつけやがった、ゼノの体に……!?)
千空の顔から、一瞬にして酔いが冷めたかのように表情が消える。
「おいゼノ、てめぇ……首のそれ、どうした?」
その声は、普段の飄々としたものとは全く異なり低く険を含んでいた。
「…ああ、これは…」
ゼノは動揺を隠し、咄嗟に手を伸ばして隠そうとするが、千空の顔は見たこともないほどに歪んでいた。
千空は、自分が犯人であるとは微塵も思っていないようだ。
ゼノは、千空がそこまで動揺することに驚き、内心で激しく心臓を鳴らしていた。
もしかして、千空も自分を…? いや、そんなわけない。千空はあくまで自身の領域(科学や、その師匠たるゼノ)への侵入に不満を抱いているのだ。そうに違いない。
―恋愛など、千空には無縁の感情だ―
ゼノは複雑な思いを押し殺し、曖昧に答える。
「……大したことはないよ。君には関係ないだろう、千空。」
「は?いや、それキスマークってやつだろ…キスマークっていや、聞こえは良いが…鬱血痕じゃねーか!そんなもんつけるやつの気が知れねぇ!」
(なんだよ、これ。見えない位置につけたと見せかけて、しっかり見える位置じゃねーか。こんな位置…そういうことを許されてる相手しかつけられねぇ…くそっ)
千空は、消毒用アルコールと布を掴むと、まるで実験の不純物を拭い去るかのように、ゼノの首筋の痕を拭き始めた。その手つきは一見荒っぽい。しかし、ゼノの繊細な肌を傷つけまいとする不器用な配慮が、痛いほどに伝わってきた。
ゼノは、千空の懸命な姿に、心の奥底で甘い痛みを感じていた。彼はきっと、僕が本当に恋愛感情を抱いているなど、考えもしないだろう。
(ああ、千空……君を本当に…愛しているのに…)
ゼノは、自分の心を深く満たしていく、この奇妙な喜びに抗えなかった。千空の不器用な行動も向けられる感情も、全てが愛おしい。
相思相愛であることに気づかないまま、二人の科学者の間には、新しい、複雑な関係性が築かれ始めていた。