神宮の空は深く澄んで、膨らんだ泡のような雲がくっきりと白く映えていた。この日の東京都心は気温三十六度余りを記録しており、まだ日が高く昇りきらぬうちから集まる人の額に汗を滲ませていた。
時代は古く大正よりの歴史ある野球場に、夏の盛りになお集う人は皆、この日この地に起こる一大事を、目の当たりにすべく遥々足を運んだ人々であった。いずれかはこの東京より遥かなる聖地のグラウンドへ旅立つ球児たちの雄姿を見届ける人々であった。
全国高等学校野球選手権大会――その出場を懸けた西東京大会で唯一つの優勝を争うのは、都立小手指高校と氷河高校の両チームである。
行き交う人の中に、花木高校野球部主将の金城とエース投手の渡辺の姿があった。彼ら二人も例に洩れず、この決勝戦を見届けるべく球場を訪れたのである。
聖地は夢と遠ざかり、胸に残るのは切ない夏の一欠片――などと、ゆっくり感傷に耽る暇も無く、九月初旬に待ち受ける秋季東京都大会に向けて、彼らは再び鍛錬の日々を送っていた。
その瞬間は、ちょうど練習の合間の小休憩で、ベンチに腰掛け前のめりでスマートフォンの画面に釘付けになっていた渡辺が突然立ち上がったので、同じく体を休めていた部員達は一様に驚いて彼を振り返った。
「勝ったのか、帝徳に」
隣に掛けながら始終目もくれずに練習試合の記録を整理していた金城は、やっと渡辺の様子を一瞥してその試合の結末を知った。都立の新設野球部が名門強豪校たる帝徳野球部を破り決勝戦進出との報に、同じく都立校新設との境遇の似たる花木高校野球部も一同大いに沸いた。
渡辺が興奮気味に二、三度頷くのを見て金城はまた書類に視線を落としながら、「行くか」と呟いた。渡辺はその瞬間には何を言われているのかが理解できなかった。首を傾げていると、「それって」と聞き返すより早く、向き直った金城はどこかばつが悪そうにまた口を開いた。
「球場にさ、決勝戦。観に行かないか」
長蛇を為す券売所の列を果てまで進めてようやくスタンドの硬い座席に腰を落ち着けると、小手指高校のシートノックがまさに始まらんとするところであった。
金城は隣に掛けた渡辺の横顔を見た。
「楽しそうだな」
「そりゃあもう!」
渡辺は横顔のまま視線を金城に送ると声を弾ませた。
「今日ホント楽しみだったんですゥ。昨夜も楽しみでなかなか寝られなくてェ」
金城は眉を寄せる。
「……だからって昨夜いきなり『おにぎり握ってきてほしい』なんてライン送ってきた時は正直何だお前って思ったぞ」
「スミマセン〜! だって金城さんが誘ってくれた時『球場観戦デートみたいだ!』って思ったの昨日の夜になって急に思い出してェ……デートといえば手作りのお弁当ですよねェ」
渡辺があまりに活き活きと声を弾ませるので、金城は以前のように強く言い返すことができなかった。それでどうしてお前が俺に要求する側なんだよとか、そう思ったならその時すぐ言えよとか、そもそも決勝も昼には終わるから弁当要らないだろうとか、色々と言い募ってやりたかったが、小さな溜息をひとつ吐いて、バッグから取り出した黒いポーチを渡辺に押し付けた。
「まァそれでハイハイ用意してやる俺も大概浮かれてるのかもな……」
真っ黒でシンプルな造りの保冷バッグはその大きさから察するに、普段は金城が弁当箱を入れて使っているものらしかった。ジッパーを開けると中には渡辺の握り拳ほどの大きさをしたアルミホイルの三角形が三つ、保冷剤と一緒に重なり合って、まるで山肌の地形を銀色にしたような表面がぴかぴかと日の光を映し出していた。
渡辺の目が輝いて見えたのは、元より食べることを好んだ渡辺の性質ゆえか瞳に映るホイルの乱反射のせいであろうか。
「握り飯しか用意してきてないからな。具材も適当だし。前の晩に言ってくるなんていくらなんでも急すぎるだろ」
「ワッ、具入りなんですか? 嬉しい! スミマセン、ありがとうございますゥ」
早速一つ手に取ると、隣の呆れ顔の綻ぶのが見て取れた。世話の焼ける奴だといってそれでも笑ってくれることは、少し前までの金城からは想像さえできなかった。その変化が嬉しく、しかし金城には気取られぬよう、渡辺は密かに頬を緩めた。
「アッ、そうそう……僕だってお願いしてばっかりじゃないですからねェ。金城さんの分も飲み物たっくさん冷やしてきてますんでェ」
渡辺はそう言ってバッグから取り出したペットボトルの飲料を金城に手渡した。半分凍らせてある飲料のボトルは触れるだけでも、真夏の暑さの中で掌に伝わる冷気が心地良く、金城は目を細めた。
「……そうじゃなくて」
グラウンドのシートノックを眺める渡辺の横顔を横目で一瞥すると、金城もまたグラウンドに視線を移した。グラウンドでは金属バットが硬式球を叩く軽快な音や、送球がグラブに収まる乾いた音が、球場の賑わいの中にも小気味良く響いていた。
楽しそうだと金城が言ったのは、なにもこうして肩を並べて野球観戦をしに来たことを言いたかったのではなかった。
「今日ここに来ようかって、お前のこと誘って本当によかったのか……内心ちょっと心配というか、後悔してた」
部内で最も実力のあった――或いは実力のあったが故に――彼自身でさえ諦めていた試合を、彼の隣で、マウンドで、決して諦めようとはしなかった渡辺にとって、敗れた相手の試合を球場まで足を運んで観ることがどんなであろうかということが、金城には次第に気に掛かってきた。況してや今日ここで行われる試合は、甲子園への切符を手にするチームを決する試合である。
けれども実際にこうして球場へやって来た渡辺の横顔が穏やかであったので、金城は安堵したとの心境を明かした。
隣で渡辺が一度自分を見たような気配を、金城は感じ取った。
球場内のアナウンスが小手指のシートノックの残り時間が僅かとなったことを告げる。
「あのォ、笑わないで聞いてほしいんですけどォ」
渡辺が口を開いた。
「もしかしたら、どこかで何かが少し違っていれば、僕らが今日ユニフォーム着て、そこのフェンスの向こう側に立てたんじゃないかって思ってましたァ」
花木高校野球部は都立高校に新設されたばかりのチームである。もしもあの日、どうにか小手指を下し二回戦を通過できたとしても、なにしろ選手層の厚い、西東京屈指の強豪校たる帝徳との準決勝を、越えることは叶わなかったであろう。渡辺が夢のように語るもしかしたらなどというものはどこにも無いことが、金城にはすっかり分かりきっていた。
しかし金城は、渡辺を笑わなかった。黙って頷きながら、ただ渡辺の語るに耳を傾けるのみであった。
「でもそれって違ったんだって。あっち側に行けなかったことで、僕は今ここにこうして居られるんだって、ちゃんと分かりました」
もしあの試合に勝って何とも無く事を終えていれば、きっと金城と渡辺の間に今のような関係は無かったであろう。金城は渡辺を力で支配したまま、渡辺は金城の言いなりに投げるまま、均衡が保たれているように見えてその実一方的で歪なバッテリーは、おそらくは次の夏までも早々に終えてしまう運命を真っ直ぐに辿っていたであろう。同じ時間を、短くも貴重な青春の日々と若い力を、後になって振り返った時に「ただ漫然と空費した」と回顧する未来が殆ど決定していたであろう。きっと彼らの野球人生に取り去ることのできない痼となって、残り続けたかも知れなかった。
「あの試合があったから僕は今こんなふうにして金城さんの隣に居られるんですよねェ」
小手指高校の選手たちが整列してグラウンドに一礼すると、場内に拍手が響き渡った。渡辺の手が、そっと金城の制服の膝に触れた。
「それがわかったから、僕は今日あなたとここへ来てよかった! って思ってますゥ」
手の伸びてきた元を辿るように金城が顔を上げると、その先には晴れやかな笑顔があった。
小手指高校に続いて入れ替わるように氷河高校の選手たちが駆け足でグラウンドへ踏み入って、シートノックを開始した。
「……そうか」
渡辺の気持ちを聞いて、金城は腑に落ちたらしく頷いた。自分でも同じ気持ちなのだと、彼は改めて自覚したのである。
膝に掛かる渡辺の左手に、右手をそっと重ねた。大事な大切な投手の左手を、労わるように繰り返し指で撫でる。ともに戦える残り一年を、悔いのないように、たくさん笑って居られるように、胸の内に祈りながら手を取って。
「小手指。勝つといいよな」
「勝ちますよォ。なんせ僕らバッテリーに勝ったんですから!」
それは二人だけの、球場の観客席を埋め尽くす人の数からすればほんの小さな出来事であったので、場内の誰にも気が付かれることはなかった。
積み上がった白雲が、爽やかに澄んだ青の果てなく高きを示すように、誇らしげに映えていた。