良守の受難3学校の屋上は俺の安息地だ。コンクリートに寝転んで空を見つめているだけで、心がスっと落ち着いていく。
風は花を運び、鳥は自由に羽ばたいて、雲は遠くへ消えて……そんな様子をぼんやり見送っているだけで、己の悩みなんて酷くちっぽけに思えてしまう。
不思議な感覚だった。目を瞑ると今朝の騒がしさが蘇るというのに。
そんな心的ストレスをぽっかり忘れられるほど、とても穏やかな春の陽気を感じた。
「ふぁ……」
このまま結界を張って昼寝をしたい。
でもダメだ。俺はもう授業をサボったりしないから。横目で腕時計を確認してみると、昼休みはあと15分ほどで終わってしまう。このまま寝過ごすわけにはいけないので、チャイムが聞こえるように術は使わなかった。
だが眠いもんは眠い。
登校時、兄貴のせいで無駄な体力を使う羽目になったため猛烈に眠たい。俺の中に掬う悪魔が「一時限ならサボっても大丈夫」なんて囁きかけてくるくらいには眠い。
いや、だめだってば。
首を振って悪魔の誘いを払い除ける。染み付いた習慣を治すのには、精神を強く保たねばならない。
「んー」
寝転びながら、暇つぶしに携帯電話を弄ってみることにした。なにかしていないと本当に寝そうだったからだ。
とはいえこの携帯には、何の娯楽も搭載されていない。出来ることはメールと電話のみ、兄貴から譲り受けたものをそのまま使っている。アドレス帳を開いても家族と時音、夜行の一部面々の連絡先が入っているだけ。
そして受信フォルダには、兄貴からのしょーもないメッセージで溢れかえっていた。最新のメールは、今朝の散歩帰りに黒猫を見かけた〜とかそんなたわいもない話。
なんで、こんな下らない話しを毎日送ってくるのだろう。意味がわからん。ここはお前の日記帳か、いい加減やめてくれ。と正直に言ってしまいたい。
でも返信してしまったら兄貴の罠に掛かったようで癪だった。ゆえに仕方なく無視をしている。
「……誰かにメールしてみるかぁ」
暇だし、例えば影宮とか。久しく会っていないんだ、「元気してるか」くらいの連絡をしたってバチは当たんねえはず。
彼とは一応友達?なんだし。
とはいえ自分から誰かに連絡をしたことがないので、何を書いていいかわからなかった。
うーん。と、悩んでいたら突然着信音が鳴り響く。
「おわ!?誰だ??」
表示されたのは登録されていない番号だった。
なんだ?間違い電話か?
電話に出るか躊躇ったが、恐る恐る通話ボタンを押してみた。
「もしもし?」
『よう。今って昼休みか?』
聞き馴染みのある声に目を見開く。
「影宮……?」
『正解、よくわかったな!』
高らかな笑い声がして、自然と笑みがこぼれる。連絡をしようとした矢先、向こうから来るなんて。奇跡か?凄い、ちょっと嬉しい。
でもそれを伝えるのは照れくさくて、バレないように平然を装った。
「なんだよ突然。てか番号変わってたのか」
『そうそう。最近スマホに変えてさ。別に黙ってたわけじゃねーから、いじけんなよ?』
「いじけてねえ!」
『なんだ、思ったより元気そうじゃん』
「思ったよりって……まるでココ最近の受難を知っているかのような口ぶりだな」
恨めしくそう告げると影宮が声を上げて笑い出す。どうやら「受難」というワードがツボに入ったらしい。ヒーヒー泣きながら、大ウケしていた。
おいおい。そんなに笑うとこか?
「てめ、ぜんぜん笑い事じゃねえからな!はやく兄貴を回収してくれ!」
『馬鹿言え、こっちは任務で忙しーの。お前のことなんか構ってらんねーの』
「るせえ!テメーのボスのことだろが!最優先事項だろが!」
と、ツッコムも笑って受け流される。
『それを言うならテメーの兄貴のことだろ?だったら自分で何とかしやがれ』
「鬼!」
『誰が鬼だ』
こういう、影宮のちょっと意地悪なところは相変わらず健在なようだ。
だが、悪い気はしない。こうして軽口を叩き合っていると、何だか昔に戻ったようでとても懐かしい気持ちになる。
『まー同情くらいはしてやれるけど』
「そう思うのなら助けてくれ」
『やだ』
「バカヤロ〜」
口ではお互い素直にはなれないけれど、どうやら影宮なりに俺を心配してくれてるらしい。それは言葉よりも声色で伝わってくる。じゃなきゃそもそも電話なんぞ掛けてこないだろう。番号が変わったなら一言メールすればいい。この時間帯なら学生の俺が昼休みなことくらい分かってるはずだし、なにか電話をかける意味があるに決まってる。
『おまえさー頭領のこと、そんなに嫌なのか』
「あ?嫌とかそういうレベルじゃねえから。毎日毎日、ネチネチ構われてみろ……全身蕁麻疹で真っ赤に…」
『ハハッ。そりゃご愁傷様〜』
影宮のいい所のひとつは、“兄貴への愚痴を叱らない”ところだ。それは俺にとって物凄く有難いことだった。
気心が知れた仲で兄貴を知っている人間は、俺が兄貴に対して不満をいうと「あんな良い人は他にいない」だとか「そんなこと言うもんじゃない」だとか逆に説教が返ってくるからものすごく嫌になるのだ。
俺には俺の考えがあって言っているのに、俺が不平不満を漏らすとそんなふうに一方的に非難されがちで、鬱憤を晴らすどころか余計に辛くなってしまう。お前らは兄貴の狡猾さにだまくらかされてるだけだと声を張り上げて抗議したいけど、でもそういう奴らには何を言っても無駄なのだ。
そうやって俺が喚くほど、兄貴にはあって俺には無い才能ってやつを周囲から思い知らされる。それが非常に面白くなかった。
その点、影宮は俺にも兄貴にも変に肩入れしないのがいい。というか、たぶんマジで興味が無いのだろう。だから適当に流してくれる。
そういう態度が俺は心地よくて、好きだ。
「つか、この際だし。ちょっと聞きてぇことあんだけど……」
『あ?悪いけど手短に頼むぜ。マジで任務の合間なんだ』
「え、まじ?」
なんでそんな忙しい時にかけてきたんだ…と少々疑問に思い口ごもってしまう。
『なんだよ。早く言えって』
「いや。大したことじゃねえし、また今度でいいや」
『……聞きたいことって頭領のことか』
なんで分かった。
『じゃあ3分やる。話せ』
「お、おう」
お前は何処ぞの悪役か。と半目になってしまう。
まぁ聞いてくれんならいいけど。
「なんつーかその。影宮ってなんで夜行に入ったのかなって」
『あ?それの何処が頭領の話なんだ!ふざけんな!』
「キレんなよ!こちとら真面目に聞いてんだよ……」
目下の悩みは兄貴からの熱烈スカウト。
これを解決する方法は、経験者に聞く他ないと思っている。
なぜなら、夜行にいる人間は俺と同じようなにスカウトにあっているかもしれないからだ。なんなら夜行の人間すべてがその体験をした可能性がある。
もしそうなら、兄貴は誰にでもああやって近寄って己の仲間にしているってことだろ。だとしたら、あれは兄貴の常套手段であり、そこに特別な感情など存在しない。それが分かるだけでも、俺はいくらか救われる。
『……はぁ。俺は、元々世話になってた人が夜行に入るって言うから着いてっただけ。きっかけはそんなもんだ』
「ふーん?」
どうしよう、予想していなかった答えだった。
「じゃあ影宮は兄貴に口説かれて入隊した訳じゃないのか」
『なっ…スカウトって意味か?』
「そうそう」
『俺はちげえけど、中にはそういう人もいるだろうな』
「それって誰!?」
『いや、頭領から直々に誘うのなんて初期から組織にいる人たちくらいだと思うけど…詳しいことは俺もわかんねえよ』
「そうだよな…」
『ここじゃ才能を買って引き抜き、なんて話はそうそう聞かねえし。大抵は行き場のないやつらが集まってる組織だからなー』
「へえ……」
組織に初期から存在するってことは、夜行の中でも偉い立場にいる人たちってことか。
すると、つまり、それは。
「兄貴と刃鳥さんって付き合ってんのかな」
『ブフーーッ!!』
影宮が盛大に吹き出した。
それは笑ってんのか?驚いてんのか?どっちなんだ。
『滅多なこと言うんじゃねえよ!なにがどうしてそんな発想になった?!』
「だって、兄貴から声掛けてそうじゃんか」
『だからって何で付き合ってるとかいう発想になんだよ。おまえ頭ん中お花畑か?こじらせてんのか?これだから思春期は困るんだよな…』
「てめーも同い歳だろ!バカにすんな!」
だってそうだろ。もし刃鳥さんが兄貴からスカウトされて組織に入ったんだとしたら、それ即ちあの洗礼を受けているってことだ。あの気色悪い兄貴に絆されて入隊したんだとしたら、刃鳥さんは兄貴に惚れているかもしれないじゃないか。
そんなの末恐ろしすぎる。兄貴は自分の部下を洗脳して、惚れた弱みに漬け込んでいるかもしれないってことだぞ。
アイツ、悪魔か?いや魔王か?だから兄貴の組織って兄貴崇拝が凄いのか?男も女も全員いいように口説いて配下にしていたとしたら……もうそのあとは最悪の展開しか思い浮かばない。
『なんか変な妄想広げられても困るから一個言っておくけどな』
「おう?」
『確かに頭領はモテる』
は?
『頭領に救われたことで惚れちまったんだろうなーって隊員もゼロじゃねえと思う。まあそれがどこまでの感情なのかは知らねえけどさ』
「そ、そうか」
『でもな。これは頭領が言ってたことなんだけど…』
俺は影宮の言葉をきいて、唖然とした。
なんだそれ。どういうことだ?
これまで俺が悩んでいたこと全てが一気に馬鹿らしく思えて、脱力してしまった。
それからのことはよく覚えていない。影宮との電話をどうやって終わらせたのか、その後の授業もぼんやりとしか思い出せない。
気がついたら俺は、家の門の前に立っていた。
俺の受難は、もうすぐ終わるみたいだ。