炬燵.初冬の候、外は少し肌寒くなってきていて葉物野菜がなんだか恋しくなる季節。
30円安くなった白菜を見て、今日は鍋にしよう、そう思ったのが丁度二時間前。その他の材料も買い込んで、先生の家の扉を開けたのが丁度一時間くらい前だ。
「先生、もう少しでできますからね」
そうリビングに居る先生に向かって声をかける。先生からの返事は聞こえないけど、いつものことなので特に気にせずそのまま調理を続ける。
ザクザクと長ネギを切る横で、ぐつぐつと鍋が煮える音が聞こえる。後ろからは炊飯器がふーっと息を吹き出す音とお米の香りがしてきて、何だか忙しない。けれど、それが料理のラストスパートって感じがして僕は好きだ。
さっき切ったネギを鍋に入れて、そこから醤油とお砂糖を加える。黄金色の汁が醤油色に変わったのを見て、僕は軽く味見をする。
お玉で掬い、小皿を介して口に含む。すると、口の中に和風だしの上品な旨味が広がってきた。うん、美味しい。
でも、ちょっと塩味が足りないかな。そう思い少し味の調整をする。先生はどちらかと言うと濃い口の方が好きだから、ちょっと多めに味付けをする。
「.....よし、」
出来た、そう思うと同時に炊飯器からピーッと高めの声が聞こた。どうやらあっちも出来たらしい。僕はお米をかき混ぜた後、一度ご飯はそのままに鍋をリビングへと持っていく。
「先生、ご飯ですよ」
そう言って先生の方をを見てみれば、予想通りマンガ作りの途中だった。半纏を着て普段よりも大きくなったフォルムが、身体を前のめりにしているせいで小さくなっていて、少し笑ってしまう。
カリカリとペンを動かす指がふと止まり、勢いよくこっちを向いた。先生の大きい瞳が真っ直ぐ僕とお鍋を見つめて、そうか、と小さく呟かれる。
「先生、原稿中でしたか。それなら準備だけして、夕飯はもう少し後にしましょうか」
「いや構わない、これは今丁度思いついたモノだ。それにもう完成している。」
こともなげに話す先生の顔色は、心なしか血色が良い。この間奥から出した炬燵のお陰かな、そう思うと頑張って運んだ甲斐があるものだ。
流石です、先生。そう言いながら僕は鍋敷きの上に持っていた鍋を置いた。少し重めの蓋を開ければ、ふわりと出汁のいい香りが立ち上る。
「今日は、ミルフィーユ鍋にしてみました。」
ジッと鍋を凝視する先生にそう言うと、そうか、と再び素っ気ない言葉だけが返ってくる。態度には出されないが、いつも僕が料理を持ってくるとき、先生は普段伏せ目がちな瞼を少しあげ瞳に焼き付けるように見つめている。
「生姜を入れたので、ぽっかぽかになりますよ」
「そうか、ぽっかぽか」
「いい匂いだ。いただこう。」
そう言って先生は仕事道具をあらかた片付けると、そのままジッと待ての姿勢に入った。単純に僕がよそうのを待っているのもあるだろうけど、それが何だか小動物の餌付けみたいで。失礼だけど微笑ましいな、と思ってしまう。
「はい先生、...熱いので気を付けてくださいね」
「ああ、わかった。」
先生は両手で包むようにお椀を受け取って、そのまま小さな口でふうふうと息を吹きかける。立ち込める湯気が消えて浮かんでを何度か繰り返し、満足すると一度器を置いてまた待機の姿勢になる。本当に先生は律儀だな、とつい笑ってしまった。
「それじゃあ、頂きます」
「いただきます。」
軽く手を添えたあと、僕は対面に居る先生の方を見つめる。しんなりとくたった白菜を口元まで運び、大口で頬張る。むぐむぐと頬が揺れるのを眺めながら、先生の言葉をじっと待つ。
ごくり、先生の大きな喉仏が動いて下へ流れた。
「うまい。やっぱり、蹴斗は料理が上手だな。」
「よかったです」
普段と変わらない表情で淡々と褒められる。傍から見ればシンプルな言葉だろうけど、僕にとっては堪らず笑顔になってしまうもので。何度言われても、その嬉しさは変わらない。
ぱくぱくと箸を進める先生を横目に、自分も料理を口に含む。しっとりと加熱された白菜から野菜の甘みと出汁の旨味が溢れて、薄くスライスされた豚肉の優しいお肉感が全体を美味しくまとめてくれている。我ながらに美味しく出来たものだ。
「あ、先生ご飯もありますよ。持ってきますか」
「ああ、頼む。」
「じゃあ、よそってきますね」
そう言ってじんわり温かい炬燵から抜け出し、キッチンへと向かう。炬燵との温度差に少し肌をさすりながら、リビングにてお米を二人分よそう。少し硬めに炊かれたお米は、一粒一粒がしっかり立っていて綺麗に輝いていた。
「きっと先生は沢山食べてくれるから、このくらいで....あ、あとアレも持っていかなきゃ」
ついでに冷蔵庫の中からいくつかの調味料などを取り出しお盆の上に乗せて、リビングへと運ぶ。
再び底冷えする廊下を渡って戻ると、もう既に先生のお椀は空っぽになっていた。どうやら大変お気にめしたようだ、作った身としては喜ばしい。
「おかわり、よそいましょうか」
「ああ。」
先生の側に茶碗を置くついでにほぼ分かりきったお伺いを立てれば、予想通りの返答が返ってくる。僕はそれに笑顔で了承し、さっきよりも少し多めに鍋をよそう。
どうぞ、そう言ってお椀を先生に手渡すと、僕の指先が一瞬先生の手を掠める。
僅かに触れたその手は、じんわりと暖かかった。
「蹴斗。このツルツルしたのはなんだ。」
「ワンタンの皮ですよ先生、入れたら美味しいかなと思って入れてみました」
「ほう。ワンタン....。」
「あの、先生.....ワンタンの皮をわざわざ持ち上げて、そんなまじまじ見つめなくても....」
「蹴斗。コレは何だ。」
「味変用のつけダレです、ポン酢とこっちがゴマベースですね...先生もどうですか」
「すっぱい。このままでいい。」
「そうですか.....」
「蹴斗の味付けが丁度いい。これで十分だ。」
「そ、そうですか....」
温かい鍋をつつきながら、先生となんとはない会話を交わす。今日の鍋のこと、先生の原稿のこと、チョキ先生や白兎のことなんかを話題にあげて話に花を咲かせながら食事を進めていく。時折咀嚼を挟んで生まれる絶妙な間も、先生となら特段苦ではない。
「ご馳走さまでした。今日もうまかった。」
「はい、お粗末様でした」
気付けば、鍋の中をぎゅうぎゅうに占めていた食材達は綺麗に無くなり、小麦色に濁ったスープだけが残っていた。
明日の朝はこの残り汁で雑炊にしましょうか、僕がそう呟けば先生の簡潔な返答がかえってくる。どうやら先生はまた新しく構想が浮かんだようだ。
先程仕舞い込んだ画材を引っ張り出して再びペンを走らせている先生の邪魔をしないよう、僕はそのまま食器を片付け始めた。
カチャカチャと軽く食器が掠れる音、ガリガリとペンが紙を削る音が、耳元を微かに刺激する。炬燵の上にある食器を全て集め、僕はそれらを洗うためにキッチンへ向おうと立ち上がれば、綿生地特有の柔らかさが下半身を撫で落ちていく。
「蹴斗。」
ふと不意に、先生に話しかけられた。ペンを走らせる手元はそのままに、凛とした声で呼び掛けられたものだから、思わず僕は立ち止まる。
「鍋とはいいものだな。また食べたい。」
先生の言葉にふはっと笑いながら、僕はこう応える。
「ええ、また食べましょう先生」
これからも、ずっと。
そう囁いた言葉は、この暖かな空間へと静かに消えていく。出来ることなら、この小さな幸せがこれからも続きますように。僕はそう願うのだった。