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    青梅雨に揺れるは菖蒲「へえ。ジンジャーは今日が誕生日なのかい?言ってくれればよかったのに」

     世界規模で業務を展開するラケシスコーポレーション、その日本支部のある日のこと。茜空を背景に一組の男女が隣り合っていた。黄色のメッシュが差した真っ赤な髪の毛の女性──楊溪荪と呼ばれる女が、ジンジャーと呼ばれた男性──雨に濡れる木立のような瞳に、少し癖のある赤毛とそばかすの男に、驚いたように声をかける。ツーマンセルのSPとして彼らの勤める会社の要人警護にあたる二人だが、今は業務も終わり家路につくところだった。珍しく晴れ空の覗く雨上がり、労いの言葉と共にジンジャーから差し出されたココアを手に二人は足を止めて空を見る。とりとめのない会話を続ける中で、ふと誕生日の話題になったのだ。

    「ああ、言うほどのものでもない、と思ってね」
    「言うほどでもないだなんて、そんなこと言うなよ。相棒だっていうのに水臭いじゃあないか、組んでから3年も経つって言うのにだんまりだなんて。祝いの一つもさせてくれないのかい?」
    「む……、すまない」

     謝るジンジャーに対し、楊は少し不服そうな表情を見せる。アタシだって、相棒の誕生日くらい祝いたいものじゃないか、と口を尖らせる彼女だが、その表情はすぐさま柔らかな微笑みへと変わる。

    「なんてね。改めて、誕生日おめでとう、ジンジャー。……、こんな言葉だけじゃ3年分には足りないね。なあ、来週になってしまうけれど、よければ次の休みをアタシにくれないか?こんな言葉だけじゃあなくて祝わせてほしいんだ」
    「もちろん。きみにそう言ってもらえるのなら、何よりうれしいよ」
    「じゃあ決まり!せっかくの休みまでアタシにつき合わせちまって悪いが、ジンジャーに喜んでもらえるような何か……、考えておくよ」

     快く承諾した彼の返事を聞いて、彼女はジンジャーに対し快活に笑って見せた。子供のように何をしよう、どこに行こうと考えてははしゃいで見せる楊に、彼は少し照れ臭そうに微笑んで見せるのだった。


     それから一週間後の事、暦の上では7月に入ったと言え梅雨もまだ半ばのある日。朝からしとしとと降りしきる雨の中で約束通りの待ち合わせの場所に、彼らは約束よりも少しだけ早い時間で顔を合わせた。待たせてはならないという生来の気性か、それとも初めての仕事抜きの約束に少し浮足立ったのだろうか。楊はジンジャーを見つけると、少し慌てた様子で傘を片手に駆け寄った。自身が差していた傘を彼に向けると、驚いた顔で話しかける。

    「ジンジャー!濡れるじゃないか、傘は?差さないのかい?」
    「む、楊、ありがとう。イギリスでは傘を差すことはないから、その時の習慣でつい、な」
    「つい、じゃないよ、もう。こっちとイギリスじゃ気候も違うんだ、風邪を引くだろう。行先までは少しだけだけど、それでもね。ほら、狭いかもしれないけどお入りよ」

     楊がジンジャーを傘に入れた。彼女の差す女性ものの傘は二人で入るには少しばかり狭く、その肩口は雨がかかる。目的地はすぐそこだから急ごう、楊がそういうと二人は足早に雫を飛ばして駆け出した。駆け出した二人の頬が少しばかり赤く染まっていたのは、気のせいだろうか。
     雨の中を抜け、モールへと飛び込む。雨を掃いながら、濡れてしまったねと笑いながら顔を見合わせた。そんな会話をし、滴る雫を落としてから楊はジンジャーを連れて目的地へと歩く。エスカレーターで2階、3階と昇っていく二人がたどり着いたのは、男性向けのフォーマルスーツなどを扱う専門店だった。落ち着いた色の装飾でまとめ上げられた店内は中にいる人の影もまばらで、どちらかといえば店内を歩く店員の姿の方が目立つだろう。彼女は迷いなくカウンターに向かって歩みを進める。

    「いらっしゃいませ」
    「すみません、先日お伺いした楊ですが」

     カウンターに立つ穏やかそうな店員が彼女に声をかける。少し緊張した面持ちでいくつか楊が話をすると、彼は何かを納得したような表情で頷く。それからカウンターの奥へと向かい、持ってきた小さな箱を彼女に手渡した。支払いは既に済ませていたのだろうか、彼女は受け取ってそのままジンジャーの元へと向かうと、そのまま彼の手を引いて店の外のベンチへと促した。

    「誕生日おめでとう、ジンジャー。3年分、まとめてだけど受け取ってくれると嬉しい」
    「ありがとう、楊。……今ここで、開けてみても良いだろうか」
    「もちろん。そのために選んだんだ。……喜んでもらえると、いいのだけれど」

     照れ臭そうに楊が微笑み頷いて見せると、ジンジャーも彼女に返すように頷き、そして箱を開ける。掌に乗ってしまう小さな箱、それを開けば中に入っていたのは一輪の花をあしらったネクタイピンだった。花弁の傍には彼の瞳の色によく似た小さな宝石が添えられており、シルバーの輝きの中に仄かな彩を加えている。

    「その花、タチアオイって言うんだ。ジンジャーの誕生花で、何を贈ろうか、色々と迷っていたんだが……、それくらいなら普段でも使えるかなって思って、さ」

     ジンジャーが口を開く前に、楊は早口で喋りだす。照れを隠すように髪の毛を弄り、目線を逸らしてそわそわとする様はどこか自信がないようにも見えた。落ち着きなく地面を叩くつま先を揃え視線を上向ける。初夏の空を切り取った水色の瞳と雨に濡れた新緑の木立の緑色の瞳が交差した。照れ臭そうに、けれど嬉しそうに微笑んだ彼は楊に告げる。

    「ありがとう、楊。……誰かからこんなふうに誕生日の贈り物をもらったのはいつぶりだろうか」

    つい、とその存在を確かめるように指先で花弁をなぞる。嬉しそうに目を細めて笑う彼に楊は安堵したように息をつき、それからくしゃりと破顔して見せた。

    「アンタに喜んでもらえて、よかった。ホッとしたよ、実のところ喜んでもらえるか不安だったんだ。ねえジンジャー、あのさ……、アタシの相棒がアンタでよかったって、心からそう思うよ。アタシと出会ってくれて、ありがとうね。これは、ジンジャーの誕生日のお祝いの意味もあるけど、その気持ちも込めてのプレゼントさね」
    「それはこちらの台詞だよ、楊。きみにこうやって祝ってもらえるなんて、嬉しい。もう一度言わせてほしい。本当に、ありがとう」
     
     目線を合わせはにかむ二人の頬は朱色の花が咲いたように赤く染まっている。しばし見つめあった後に、最初に笑い出したのはどちらだったのだろう。照れ臭さを誤魔化すように笑い合えば、話題は自然に次に向かう場所についてに移り変わった。降り続く雨はいまだ止みそうにはない。それはまるで、二人がまだここにいるための都合の良い言い訳を与えるような優しい雨だった。
     

     それから二人は時間の許す限り歩いた。目的もなく、気ままに歩くだけの時間だったが、二人にとってそれは何よりも穏やかで、優しくて──かけがえのない、愛しい時間だった。
    けれどそんな時間は、いいやそんな時間だからこそあっという間に過ぎ去ってしまうものだ。ふと窓の外を見る。夏の入り口の空は、気が付けば完全に藍色に塗り替えられた。昼間降り続けた雨は止み、今は少し湿った空気だけを残して晴れ上がった空だけが見える。
    時計を見れば宵の口だが二人で過ごす休日を終わらせるには、まだ少しばかり名残惜しいと、楊はそう思った。けれど、引き留めるための理由になにがあるだろう。モールから外に出て歩き出す二人。少しばかり彼女が足を止めると、それに気づいたジンジャーもまた足を止め其方を見やった。

    「楊、どうしただろうか」
    「ん、ああ……いや。もうそろそろ帰るべき時間だろうけど……、別れるのも少し惜しいな……、と思って」

     ジンジャーの問いかけに、楊は少しだけためらってから素直に答えることにした。隠したところで彼という人ならば追及はしないのだろうが、だからこそ彼には隠したくないと感じたのだ。返答のために顔をあげると、ふとある一軒のバーが開くのが見えた。いつも通る道ではあるが、意識していなかったからかどうやら今まで気づいていなかったらしい。それに気づいた彼女は、少し頬を赤らめながら彼に尋ねる。

    「あれ……、こんなところにバーなんてあったんだ。知らなかった。なあ、ジンジャー、まだ時間はあるかい?……よかったらもう少しだけ付き合ってはくれないだろうか。まだ、アンタと話していたい気分なんだ」

     開いたばかりのバーを指さし、照れ臭そうにジンジャーを誘う。ばくばくと高鳴る心臓の音は、彼に届かなかっただろうか。そんな一抹の心配をよそに彼は、きみがのぞむのなら、と快く承諾した。二人は、道の先に向けていたつま先を酒場へと向けると、今再び歩き出した。梅雨の間の短い晴れ間、雨上がりの匂いを孕んだ風が、二人の間を通り抜ける。ドアに手をかければ、カラリと小さくベルが鳴った。それは、何かが起きる予兆のような澄んだ音色。何かが変わるような気配に期待と少しばかりの不安を抱いて、二人はバーに続く階段を下る。彼らの夜はまだ、始まったばかりだ。
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