Ground Control to Major JakeGround Control to Major Jake
「俺、軍辞めるわ」
飛ぶことが誰よりも何よりも好きなハングマンからボブがこの世で1番あり得ないであろうセリフを聞いたのは、5年前の事だった。
2人で囲む朝食の場であっけらかんにそんな事を言うものだから、ボブもピーナッツバターをたっぷりと塗って口に運ぶ途中だったトーストをべちゃりと皿に落としたのを良く覚えている。
35歳になり、階級も数年前に少佐に上がり、部下も増え部隊の中での教官としての役割が増えてきたハングマンの仕事は絶頂に思えた。そろそろ中佐への昇進も打診されている頃だったと思う。
もちろんボブの仕事も同じように少佐として責任ある立場になってきていて、正直に言えばお互いの仕事の環境としては文句のつけようの無い状態だった。
ポカンと口を開いて目を丸くしたままのボブの口を手を伸ばして閉じさせて「おい、ベイビー大丈夫か?」なんて聞いてくるが、ハングマンは自分が言ったコトの重大さを分かっているのだろうか?
「あ、あの、辞める...?」
動揺してピーナッツバターを落ちたトーストに再度ベチャベチャと塗りながらボブが尋ねる。最初にたっぷりと既に塗っていることも忘れてしまっているようだ。
「おう、もう辞表も出した」
「じ、じ、辞表も?!なんでそんな事、僕に言わないんだ!」
トーストはまたボブの手を滑り落ちていった。多分これはもう食べられない。寧ろボブにとって朝食はどうでも良い事だった。
ハングマンを見つめて正気?!と問い詰めようとするが、ハングマンが手でボブを静止する。
「いや、まぁ聞いてくれよ。最近俺より早く飛ぶ奴が出てきてさ。そいつに教えるんだけど、俺はそいつみたいに速くはもう飛べないんだって唐突に気づいて。」
ボブが落としたトーストを皿に戻して机を拭きながら淡々と喋るハングマンはボブの反応は織り込み済みだったようだ。
「それでお前にこのジレンマを相談しても良かったんだが、どうせ飛ぶ君が好きだとか、飛べないっていうなんてどうしたの?だなんて心配かけてお前の方が妙に俺の事で抱えて悩んで仕事に支障が出そうじゃん?」
机を拭き終わったハングマンは自分の残り少ないトーストを口に放り込むと、後ろ手に机の近くに置いてある封筒を徐ろに取るとゴソゴソと中を弄り出した。
「だから、相談する前に転職した」
ハングマンが封筒の中から書類のファイルを取り出してボブの前に突き出す。
ボブはさっきから立て続けに起こる事態に混乱する頭で目の前の書類の書面を眉を顰めて覗き込んだ。
「……ぇ.....っ.....NASA…..??」
「おう、もう速く飛べないなら誰よりも高く飛んでやろうと思って」
ニヤリと昔から変わらない笑顔でハングマンが笑う。
目の前の書類には「航空宇宙飛行士、採用合格」の文字が入っている。
「な、な、な、NASA?!?!」
ボブが声を裏返しながら椅子から立ち上がり、書類を掴んで必死に文面を追う。
ハングマンは嬉しそうにその様子を見ながらコーヒーを啜る。
「お前もさ、一緒に来ない?次のステージで優秀なお前に俺の事をサポートしてほしいんだ。」
NASAの採用募集の紙を追加でボブに手渡しながら、ハングマンはやっぱりいつもの笑顔で笑っていた。
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5年前のドタバタを思い出すと、それからの月日はあっという間だった。
特に軍に対して昇進の未練も、しがみつく理由が無かったボブは恋人を追うように経歴を活かしてNASAのコントロールセンターの管制官のポジションに応募すると直ぐに採用された。
自分から誘ったくせに「空から離れる事に未練は無いのか?」と話すハングマンにあっけらかんと「僕は空よりも誰かの支えになる方が好きだから」とボブは答えた。
限られた人間しか行ったことのない空の高みを目指す恋人をサポートできることの方がボブにとっては空を飛び続けることよりも最も愛おしく大切な事だった。
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「ジェイク、ジェイク...聞いてる?」
ボブの声が耳に装着された無線越しに聞こえて、ハングマンはふっと過去にやっていた意識を戻した。
少しさっきまでいた記憶の中の昔より歳をとった恋人が機密情報やデータがたんまりと詰まったパッドを片手に目の前で飛行前の最終チェックをすすめている。
歳をとったといっても未だにベイビーフェイスでメガネも変わっていないボブは少し軍属時代より線が細くなった事くらいしか変化がない。
「何を考えていたの?」
「いや、何も、別に」
「嘘つき、絶対僕を空から引き摺り下ろした日のこと考えてたでしょ」
ハングマンのフライトスーツのデータを見ながら耳元からくすくすと笑うボブの声が聞こえてくる。図星だ。
「どうして分かった?」
「何年一緒にいると思ってるの、多分僕はもう君より君のことを知ってるよ」
窒素と酸素の量は正常だね、大丈夫、気圧も安定してる。いつでも飛べるよ。と淡々と業務の内容を報告するボブはやはり頼もしい。
「後悔してないか?」
業務を進めるボブに改めてハングマンが尋ねる。あの日あの時、自分の身勝手に付いてきたボブの決断に対して全く未練がないというのは嘘だった。
自分がこの職業を選んでいなければ、今頃ハングマン大佐とさしずめボブはボブ中佐だっただろう。
「後悔してたら、もうとっくの昔に別れてる」
嫌味で返されるのも昔と変わらずに、思わずははっ、と観念した声がハングマンから漏れた。抱いていた疑念は杞憂だったらしい。
「飛び立つ前にそんな昔の話するなんて君らしくないよ」
「そうかもな、ちょっと緊張している。」
珍しく出発前の緊張を吐露したハングマンに、ボブは確認を終えたパッドを腰の後ろのケースに仕舞うと既に外界の空気から遮断されたヘルメットを優しく触れると、コツリ、と額を押し当てる。
「実は僕もちょっと緊張してる...」
「ボブ...」
「でも、君はハングマンだ。出来るよ、大丈夫。ちょっと人より高いところに行って帰ってくるだけだよ」
「そうだな」
そうやってハングマンを落ち着かせるように穏やかな声で話すボブの声が無線の中から聞こえると不思議と緊張していた身体がふっとまだ重力がある空間の中でも軽くなった気がした。
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「こちら管制室、ハングマン少佐、状況どうぞ」
「こちらハングマン、機体の状態は正常。テイクオフの合図を待つ」
もくもくと立ち上がる水素ガスの煙を画面越しに確認しながら、最終チェックを終えたボブは管制室から無線を聞きながらハングマンの乗る機体を見つめている。
今回の任務はISSへロケットで向かい、3ヶ月滞在して交代のクルーを乗せて帰ってくるというものだ。ハングマンは今回のフライトで初めて機長としてフライトのコントロールを行う。
軍を退役して数年間の訓練を経て掴んだ大役に無線の先から聞こえる声は力強い。
「OK、ではカウントダウンを」
管制室の管制官がエンジンチェックや全ての機材チェックを終えて、問題がないことを確認するとカウントダウンが始まった。
10...9…8….
ボブは祈るように画面の先を見つめている。
彼と恋人になった時に別の任務でそれぞれ数ヶ月離れることはあったが、今回の任務は軍の時代とはまた違った緊張感があった。
7…6…5…4…
今日、ボブの愛しい恋人は目の前で人類がまだ数えるほどしか到達したことのない知らない世界へ行く。
3…2…1…
カウントダウンが終わると、ロケットの大轟音が響き、ハングマンが操縦する機体は宇宙に向けて発射した。
垂直に上がるロケットは、段階的に推進力を得るために燃料を使い切り離しをすすめていく。
管制室は宇宙に到達する10分の間に目まぐるしく、機体の管理やロケットの制御に慌ただしく動く。
ボブも画面の端に映るハングマンの顔を確認しながら、フライトデータに目を通す。
機体の角度と速度は全て計算通りで、今のところ問題はないようだ。
画面に見えるハングマンの顔はいつになく真剣で、操縦桿を握る手はしっかりと頼もしく握られている。
大気圏を抜ける衝撃にハングマンが耐えながら機内の制御を行い、緊張の10分間を抜けると、機体は宇宙空間に到達した。
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画面や無線越しに聞こえていた大音量のロケット音や、大気圏を裂く轟音は無くなり、無音の音のない世界へ到達した様子だけが伝わってくる。
「管制室、こちらハングマン...無事に、大気圏を抜けて宇宙空間に到達した」
ハングマンからの無線報告に管制室が拍手に包まれる。
ボブもまずは一安心だ、立ち上がって周りの同僚と共にクルーの無事を讃えた。
無線の先から聞こえるハングマンの声から「ふぅ」と一つ呼吸音が聞こえ、その後画面の先には窓の外を眺めている様子が映る。
ハングマンのヘルメットに反射する光は緑と青が見えている。
今彼は誰よりも高い場所で最高のパイロットになっている。
そんな5年越しの夢を叶えた彼がボブは誇らしくて思わず、無線越しに話しかける。
「ハングマン...You look good!」
地上にいるボブから聞こえてきた明るい声に、ハングマンがいつもの声で返事をする。
「I’m very good,too good to be true」
ハングマンの眼下の地球は美しく、青と緑に光り輝く。
まるで恋人の目の色のようなその球体が今は愛おしく感じる。この3ヶ月のミッションに向けてハングマンの運転する機体は宇宙に浮かぶISSへと向かっていった。