錦栄町怪奇譚2 迷子錦栄町は品田辰雄の庭だ。名古屋イチの歓楽街は、日の入りとともに活気を帯びて、歓声やら怒号やらが飛び交うようになる。この街では誰もが皆仲間で、他人。同じ空気に身を預けても、心の奥底は隠したままでいられる。品田にはそれが心地よかった。
その日も出版社に原稿を持ち込んで、ついでにと缶ビールをお裾分けにもらい、ホクホク顔で帰宅する途中のこと。
「ねえ、おじちゃん」
幼い声とともに、信号待ちをしていた品田の服の裾をグイグイと引かれた。見れば小学生くらいの少女が、こちらを見ている。錦栄町は歓楽街だ。日中ならまだしも、こんな夜に幼い子供がウロウロするところではない。
「迷子?」
品田が聞くと、少女は首を傾げ
「わかんない」
と答えた。
「わかんない?」
「えーっと、ママのお店にいてね、お店忙しくなったからお店の外でママを待とうと思ったんだけど、お店の場所わかんなくなっちゃったの。だから、迷子じゃないけど迷子みたいに見えちゃうね」
「そういうのは立派な迷子って言うんだけど」
少女は品田の指摘を意にも介さず
「だからね、おじちゃん。「モルグ」ってお店知らない?私そこから来たの」
「モルグ?知らないなあ。なんのお店?」
言ってから、品田は自分の失敗に気付く。この街で母親の店ということは、母親は夜の仕事をしていることになる。彼女の母親の店がバーやスナック、少なくともキャバクラならまだしも、万が一風俗だった場合、小学生の女の子にとんでもない説明をさせるということになる。
「あ、いや、さっきの質問は気にしないで。えーっと、お店はビルの何階にあるのかな?」
「2階だよ。テーブルがあって、椅子があって、棚に瓶がいっぱい並んでてね」
「棚に瓶か…」
店内の説明からすると、どうやらバーのようだった。品田は幾分か安心する。風俗街を幼い女の子を連れて歩くところは、知り合いに見られたいものではなかった。
「とりあえず、どっちから来たとか、最後に覚えてる場所まで行こうか」
「ほんと?おじちゃんありがとう!」
「あー…おじちゃんじゃなくて…辰っちゃんて呼んでくれないかな?」
「いいよ、辰っちゃん。あ、私はミカだよ」
少女は品田の手を掴む。
「ママが大人と歩くときは迷子にならないように大人と手を繋ぎなさいって」
「う、うーん…確かにそうかもしれないけど」
どうか身内に見つかりませんように、と祈る品田。その時、少女の手が冷たいことに気付く。
「手、冷たいね。結構長いこと探してたの?」
「うん。最初は公園でブランコに乗ってたんだけど、怖いお兄ちゃん達が出てけって言ってね、そのあと顔真っ赤のおじちゃんたちが大きな声で怒鳴ってきたから、道の間で隠れてたの」
「それは怖かったね」
「でもおじ…辰っちゃんがいてよかった。辰っちゃんはこの辺り詳しい?ママのこと知ってる?須羽レイコって言うんだけど」
「知らないなあ」
「あ、でもおじちゃんたちにはユイちゃんって呼ばれてた」
品田は完全に頭を抱えてしまった。バーはこの街に星の数ほどあり、母親の源氏名もありふれている。そもそも迷子なのだから、交番に連れてくのが正解ではないだろうか。
「ミカちゃん、おまわりさんのところに行こうか」
「ダメ!」
少女は急に悲痛な叫びをあげる。
「前にママのお店におまわりさんがきてね、すごい意地悪で、「次はこんなもんじゃないぞ」って言って帰ったの!だからダメ!」
「う、うーん…」
警察とどんなトラブルがあったんだろうか。あるいは単に客が大騒ぎをして、注意しにきたのが、少女の目には「母親に意地悪した」と映っただけかもしれないが。ともかく警察に対してこれ程嫌悪感がある子供を交番に置いていくことは出来ないだろう。仕方なく、最初にいたという公園に向かうことにした。
「ここのブランコでね、いつも待ってたの」
街の片隅にある、申し訳程度の遊具とベンチしかない公園。少女の説明では若者たちが屯していたらしいが、今はベンチでホームレスが寝ているだけだった。
「じゃあお店はこの近くだ」
「そうかも」
「お店のあるビルは高い?それともお店が一番上の階かな?」
「おい、兄ちゃん」
不意に声をかけられた。見ればホームレスがベンチで横になったまま、品田の方を見ていた。
「人が寝てるとこで大声で騒ぐなよ」
「ごめんごめん…いや、実は人を探しててさ」
「人?」
「うん、この子のお母さんなんだけど」
少女は酔客に怒鳴られたことを思い出したのか、品田の陰に隠れてしまう。ホームレスは品田と少女を交互に見ると
「可哀想に、その年で…」
と呟く。
「いや、俺の子じゃないよ!迷子!おじさん「モルグ」って店知らない?」
「うーん…聞いたことある気がするんだがなあ。最近めっきり頭の回転が遅くなったからなあ。ちょっとシュワシュワしたものを飲んだらハッキリするかもなあ」
そう言いながら品田の手に未だ握られたビールをチラチラと見やる。楽しみにはしていたが、少女のためだと泣く泣く手渡した。ホームレスは受取るやいなや缶を開け、うまそうに飲む。
「いやあ、生き返ったわ。ありがとうな」
「お礼はいいから教えてよ」
「おーおーもちろんだ。そこの通り沿いにな、「奥木ビル」ってのがあってな。そこの二階にあったよ、モルグ」
「あった?」
「5年前は常連だったんだけどなぁ。今はあっちの方は行ってないから、まだそこにあるかはわからんよ」
「そっか。とりあえず行ってみるよ。ありがとう、おじさん」
「おー。ビールありがとう、おかしな兄ちゃん」
人から物もらっといてなんてことを言うんだ、と思ったが、母親が探してるかもと思い直し、少女の方に向き直った。
「じゃあとりあえず奥木ビルを探そうか」
ホームレスの示した通りの外れに、確かに奥木ビルと書かれた建物はあった。古ぼけた外観で、店の看板も出ていない。これは少女一人では見つけにくかっただろう。二階には明かりがともっているが、店名は書かれていない。
「ここ?」
「うーん、たぶん」
少女は自信なさげに首を傾げた。その時、
「ミカ!」
窓が開き、ドレス姿の女性が姿を覗かせた。
「ママ!」
少女は飛び上がって手をふる。
「どこ行ってたの!」
「この辰っちゃんがね!ここまで連れてきてくれたんだよ!」
「え、すみません」
母親と思しき女が会釈をし、品田もつられて頭を下げた。
「もし良かったらお店に来てください。お礼にお酒でも…」
「いやぁ、悪いっすよ」
「ご遠慮なさらず。娘が誘拐されたかと心配してたんです。恩人ですよ」
「ね、辰っちゃん行こう!」
「そこのエレベーターから来てください」
少女に手を引かれる。母親の言う通り、入口には小さなエレベーターが一基見えた。じゃあ遠慮なく、と歩を進めようとしたところで、
パァンッ
乾いた音と共に、後頭部に強い衝撃が走る。頭を押さえて振り返ると、見知った人物がいた。この現代社会で一人だけ千年以上前の出で立ちをした男、品田の自称師匠、
「獅子クン…?」
綾小路獅子だった。
「品田、こんなところで何してるの」
「獅子クンこそいきなり何??目がチカチカしたんだけど!?」
「お前がいくら声かけても無視してフラフラ歩いてるからだよ。それにボクが殴ってなかったら、落っこちて死んでてもおかしくなかったよ」
「落っこちるって、どこに?」
「そこだよ、あの穴」
綾小路が指さした先には奥木ビルのエレベーターが…
「…エレベーターがない?」
そうだ。エレベーターがあったはずの場所は木の洞のようにぽっかりと穴が開いている。確かにうっかり足を踏み入れれば、奈落とはいかないまでも、転落して大怪我を負っていたに違いない。
「え?え??」
困惑してモルグの方を見れば、店の明かりが消えているどころか、窓は何枚か割られており、まるでタイムスリップしたかのような経年劣化を示していた。
「み、ミカちゃん…?」
恐る恐る少女の方を見るが、繋いだはずの手は拳を握り込んでいるだけだった。
「どういうこと?」
「どういうことも何も、お前一人でブツブツ呟きながら歩いてるから、すごい異様な光景だったよ」
「迷子は?バーは?」
「知らないよ。狐にでも化かされたんじゃない?」
お前お人好しだもんな、と綾小路は意地悪く笑った。
「疲れてスキだらけたから化かされるんだよ、ほら帰った帰った」
「あーーー!ビール!!渡し損じゃん!」
「ビール?なんのことか分からないけど、缶ビールくらいなら可哀想だから特別にボクがおごってやるよ」
「ほんと?じゃあめちゃくちゃ良いワインとかでもいい?」
「缶ビールだって言ってるだろ!?」
品田の腕を掴んで、綾小路が歩きだす。路地に入るところで、肩越しに奥木ビルを振り返ると、二階に人影が二つ。首が異様な方向に捻れた少女と、首が天井まで伸びた女。二つの影は歯をむき出しにしてこちらを睨みつけていた。綾小路は口の端に笑みを浮かべ、背を向ける。
「どうかした、獅子クン?」
「いや、やっぱりビールより日本酒を買おう。ボクも飲みたくなった」
「やった!そうこなくっちゃ!」
錦栄町は品田辰雄の庭。ただその庭には時々ほんの少し、何かが紛れ込むことがあるのだった。