行ってきますのチュー「頼みがある」
とプロシュートが真剣な眼差しで話してきたのは、ある夜のことだった。子供たちが寝て、深夜のテレビをダラダラ見ながら洗濯物を畳んでいるホルマジオの横に、神妙な面持ち座るなり、そんなことを言い出したのだ。
「なんだよ…」
嫌な予感はした。坊主で日焼けした肌のチンピラ然とした自分を「天使」と呼んで憚らないこのトンデモ思考回路を持つ男。彼は基本的に自分が良いと思うことを勝手に行う節がある。だからこそ「お願い」だの「相談」だのをかしこまってしてくることにホルマジオの鋭敏な危機察知能力が反応してしたのだった。
「明日の朝からの話だがな」
「明日ァ?弁当でも要んのか?」
以前に気まぐれでサンドイッチを作ってやったことがあったが、それを毎日やれということだろうか。
「別にイイけどよ〜。そういうのはもっと早くに…」
「いや、違ぇんだ。これから毎朝、オレが出掛ける時に、玄関に来てもらいてぇ」
「?カバンでも手渡せって?」
「いや。要求はどこまでもシンプルだ。オレが出る前にキスをしてくれ。頬でいい。それだけしてくれたらあとは寝ちまっていいから」
ホルマジオは一瞬固まったあとで、
「なんで…?」
「天使の祝福を受けて出勤してぇだろうが。それ以外に理由なんかいるか?」
「それくらいでやる気になってくれんなら…まあ」
「…頼んでみるもんだな」
プロシュートは勝手に納得したのか、うんうんと頷いていた。
翌日。ベットからプロシュートが抜け出した気配に、ホルマジオは眠い目を擦りながら起き上がった。下着1枚になって靴下を履いているプロシュートのに小さく挨拶をすると、その脇をすり抜けて、台所に向かうとやかんを火にかける。コーヒーに嫌がらせのように牛乳を入れ、コルネットをトースターで軽く焼いていると、朝の支度を終えたプロシュートがやってきた。
「別に朝飯まで用意しなくて良いんだぜ」
こころなしか浮かれた声音の彼に、ホルマジオは
「何もしないと寝ちまうからだよ」
と冷たく言い放ってプロシュートの前に朝食を並べる。
「眠いだからさっさと食えよな」
大あくびしつつ言うが、それすらホルマジオの照れ隠しだと思ったのか、プロシュートは上機嫌でコルネットを頬張った。
「じゃあ行ってくる」
玄関に立ったプロシュートが、期待に満ちた目をホルマジオに向ける。
「あーーーハイハイ。しょうがねえなあ」
ホルマジオはプロシュートの肩を掴んで、その左の頬に小さく音を立てるキスをした。
「ホルマジオ」
「はい、いってらっしゃい!これで良いんだよな!?後は寝てて良いって言ったもんな!」
腰に伸びた手を躱し、ホルマジオは寝室に駆け戻っていった。
それから数日、プロシュートが出かける時には必ず、ホルマジオはその頬に律儀にキスをして、寝室に戻るというのを繰り返していた。起きれた時には朝食も用意はしたが、時折寝坊してしまうこともあった。それでもなんとか続けられてはいたのだが。
昨夜諸々あって夜更かしした朝のこと。ふとホルマジオが目を開けると、隣にプロシュートの姿がなかった。飛び起きてシーツに足を取られつつベッドから転がり出ると、玄関の方からバタンとドアが閉まる音が聞こえた。
「しまった!」
どうやらプロシュートは出ていってしまったようだ。一足飛びに玄関へ向かい、ドアを勢いよく開けると、プロシュートはまだ玄関のポーチから降りるところだった。
「プロシュート!」
「…ホルマジオ?」
怪訝そうな顔で振り返るプロシュートに駆け寄ると、飛びつくようにしてその頬にキスを落とす。
「あぶねーあぶねー!寝坊したかと思ったわ。一応セーフだよな?」
「あ、ああ…」
呆けたような、気の抜けたプロシュートの返事に、ホルマジオは嫌な予感を覚え始めていた。
「…どうし…」
どうしたんだと言いかけて、プロシュート越しに、1台の車が目に留まる。そしてその運転席に座るリゾットの姿にも。ホルマジオはそこで初めて、自分がパジャマの下しか身につけていない姿で、プロシュートを追いかけてまでキスをした状態になってしまった事に気づいた。
「ーーーーッ!!」
声にならない悲鳴を上げるホルマジオ。するとプロシュートは突然強く抱きしめて。
「お前ッ!朝から…こんな可愛いマネしやがって!!!」
「や!違ッ!これは!その…!」
「オレも愛してる…愛してない日なんか無かったぜ…」
「勝手に一人で盛り上がんな!早く仕事に行けッ!」
もう二度とこんな恥はかくまいと、ホルマジオは心に決めたのだった。
この日を境にホルマジオは「行ってきますのチュー」を止め…ようとしたのだが、プロシュートが粘りに粘って「しょうがねえなあ」の一言と共に続けられることとなった。
ちなみにあの事故を目撃したリゾットが後日同じように出かけようとした際にイルーゾォの頬にキスをしてイルーゾォが失神したのはまた別のお話。