《まだ知らない感情》 ページを捲る度に、ぎしりと革張りのソファーが小さく鳴く。背もたれと肘掛で体を支えて片手で持つには少々重たい厚みの本をピントの合う高さに合わせて、文字の海へ没頭する。
数ページ読み進めて、ふぅと溜め息をついた。そんなに重いならテーブルを持ってくるなり机に移動するなりすればいい。出来るものならそうしたい。出来ないのだ。ちらりと膝に視線をやる。組んだ脚の上に頭を乗せて心地良さそうに眠る仔犬が、その原因であった。
その日の朝早く、屋敷の門の前に置かれていたのは大きさの割にずっしりとした荷物。何が届いたかは検討がつく。薄い包装紙をぱりぱりと慣らして開けると、掠れた表紙が見えて、側面を見ればコーヒーが染みたような古びた色合いになった紙は、湿気を含んで歪んでいた。どうやら、偽物ではないようだと確信して口端を少し上げた姿を、音が気になって後ろから覗いた青年が見つめていた。それはロドが取り寄せた、吸血鬼に関する伝承を綴った本であった。
吸血鬼の性質についての研究を長いこと続け、協力者が現れたことにより情報は随分収集し易くなった。尤も、吸血鬼と言う種自体が今はさほど多くないため、ガセも混在しやすいのだが、それでも耳に入った情報は全て検証した。今日の本は紙の劣化具合を見る限り、当たりだったようだ。
「読んでていいよ、家事とかはおれがやっとくし」
ヴィンデは青く長く伸びた襟足を紐で結びながらそう言って、洗濯物を干しに外に出ていった。恐らく、洗濯が終わったら庭の水やり、ついでに庭の端で育てた野菜の収穫としばらく部屋には戻らないつもりだろう。同じ部屋に居ようと、隣に居ようと、本が読めない訳では無いが、彼なりに気を遣って集中できる環境を作ろうとしてくれていることは伝わってくる……少々甘やかされすぎだろうか。そう思いながらもその心遣いは有難く感じた。ひと段落ついたら、存分に甘やかす時間を作ってやらねば。早速ソファに腰掛けて表紙を捲った。
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それからどのくらい時間が経っただろう。中々興味深い内容に、つい時間を忘れて没頭してしまった。日が傾くにはまだ早い時間のようだったが、日差しは若干弱くなっているようだった。
「ヴィンデ」
名前を呼ぶと、いつの間にか離れたテーブルに座っていた紺碧の青年がこちらを見た。
「あ、お腹空いた?」
「ああ……言われてみればそうだな」
「待ってて、サンドイッチ作ったから持っていくよ」
すぐに台所からカゴに盛ったサンドイッチと、ちょうど今淹れたのであろうまだ温かい珈琲がサイドテーブルに置かれた。
「ありがとう」
「へへ、ごめんね。先に食べちゃった」
「構わんよ、好きにしなさい」
手を伸ばすと少し屈んで掌に頬が擦り寄って、指で優しく揉むように触れると紺碧から覗く黒曜はとろりと蕩けた。
サンドイッチと珈琲を腹に納めて、もう少しきりのいい所まで。そう思ってサイドテーブルを押して本を開くと、テーブルと脚の隙間にすとんと座ったヴィンデが、膝の上にちょこんと頭を乗せた。予想もしていない行動に思わず目を見開いて、リーディンググラスが上下にずれた。
「……どうした」
「えっと……邪魔にならないようにするから……ここに居てもいい?」
「別に隣に座っていても、邪魔にはならんよ」
「ここがいい」
手を太腿に這わせて頭を擦り寄せるその姿は、夜に見るような艶は無くどちらかと言うと……
「おれが、狼の姿になれたらこうやってあなたに甘えて、あなたを和ませることが出来るのに」
「これでは、狼ではなく犬だろう」
「どっちでもいい。ロドと穏やかな時間を過ごせるなら……おれは犬でもいいよ」
彼が狼へと姿を変える方法はまだ見つかっていない。けれど、その姿を得ることが出来ず倦厭していた狼の姿に多少の憧れが芽生えたと言うことか。
……自惚れかもしれないが、私が吸血鬼という種族に向き合う姿勢を見て、彼の考えが変わったのなら、きっとここでの生活が彼にとって良い影響を与えたと、そう思わずにはいられない。
挟んだ栞をソファへ放ると、片手で持つには少し重い本を持ち上げる。空いた手で膝に乗った柔らかな毛を撫でるとくすぐったそうに笑い声が漏れた。
撫でる手を止めることなく、文字の海へと再び潜り込んでいった。
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ゆっくりと手首が重みに耐えきれず落ちてきた頃、膝の上を見ればヴィンデはすやすやと寝息を立てて眠っていた。そんな所では寝づらいだろうと思ったが、寝顔はとても穏やかで起こしてしまうには惜しい。先程台所から香ったのは野菜を煮込む匂いだった。と言うことはもう夕飯の支度も済ませているということだろう。
窓の外を見れば、ちょうど空が赤らんだ頃。もう少し、このまま穏やかな時間を過ごすのも悪くない。
腕を伸ばしてソファの背もたれに引っ掛けていたブランケットを掴むと、床に座ったまま眠るヴィンデの体を包むように覆った。小さな声を漏らしながらもぞもぞと動くと、自らブランケットを手繰り寄せて、脚に頭を擦り付けてから、再びすぅすぅと寝息を立て始めた。
今日は朝からよく働いていたから、疲れてしまったのだろう。心地よい体温がじわりと体を温めて、続きを読もうと思ったが文字がぼやけてきた。ソファに放った栞を挟んで、閉じた本の上に眼鏡を置いた。
瞼に黄昏の光を受けながら微睡みの最中脳裏に浮かぶのは、狼へ変化できるようになったその先のこと。
もし、彼が此処を出たいと申し出たら……私は快く送り出してやろう。最初からそのつもりだった。彼を縛るものは、何も無い。
しかしその時が訪れるのを少し淋しく感じてしまうのは、私にも父性のような感情が芽生えたと言うことか。きっと、そうに違いない。
本当にそう思っていたのか、無意識に自分の気持ちに蓋をしたのかはわからない。ただ、今はこの膝の上のぬくもりを噛み締めていたい。そう思いながら短い夢の世界へと沈んでゆくのであった。