ふみ天オメガバ 中学に上がってすぐに受けた第二次診断、親展の印を押された薄い封筒の中身に人生を変えられる人間のなんと少ないことか。それなのになぜ自分はこんなにも打ちのめされなければならないのだろう。
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「…っ、 ぅ 、うう゛ …」
朝から降りしきる雨は二月上旬の夕暮れの寒空にみぞれへと変わっていた。暖房もついていない部屋に天彦の白い吐息が消える。
「、… 、は、ぁ…...っ、 だれか… 、だれか探さないと…」
水分を含んだ冷たさが頬を撫でて栗毛立つ。彼はベットの上で丸まりスマートフォンを取り出した。ラインのトーク履歴を遡る天彦の指は燻る熱に震えている。
「……六時、部屋前…」
足を降ろすと冷たい木材の感触が足の平でじわじわと広がった。思考は鈍く、五感が意思を踏みにじっているのが分かる。天彦は寄生された体を引きずって部屋を出た。
外は凛と底冷えした廊下が続いていた。永遠と長く、苦痛にも似た衝動が歩く度思考をジャックしてゆく。
「 っ 、…はぁ 、ハァ ッ…」
壁に凭れながら階段を下ってリビングに出る。幸い居間には冬の早い夜が静かに沈んでいた。彼の聴覚はただ『早くしろ』とだけメッセージが表示されたスマートフォンの無機質な通知音だけを拾い、足早に薄暗い一室を横切ろうと踏み出す。その時、あの匂いが香った。
「天彦?」
後ろからかけられた声はよく聞き知った声。だが語尾は強く震え、戸惑いを含んでいる。天彦が声の主を認識した途端、むせ返るような芳香が部屋を支配する。
「っ……、?!」
月灯りの元、薄暗い一室は自然の意思に満たされた。呼吸が荒くなる。五感が沸き立つ。
「ふみや...さん、…... っ……、これ以上……ち、近づかないでください」
天彦は振り向かずに玄関の方へと足を進める。ただそれだけの事なのに大変な努力が必要だった。震えた足を手で押さえつけるが1歩1歩が重く、果てしの無い距離に感じられる。
「天彦、オメガだったの」
小さく息を飲む音と微かに震えた声が薄明かりの中放たれた。
「……そう、ですよ。だから、危険なんです。っ、離れて……ください」
天彦は親指の爪を握り拳に突き立てる。血が滲むほど強く力を込めても、渇きは止まない。蠱惑的なパラサイトが頭を支配してるようだった。
「どこ行くの」
「…ぁ、…αの…男の家ですよ」
「その状態で外に出るつもり」
心配と気遣い、ほんの少しの熱を含んだふみやの声は少し震えている。天彦は焼き切れそうな頭を必死に回した。
「…じゃあどうしろと、っ、いうんです。この家の誰かが僕とセックスでもしてくれるんですか?」
「えっ……、いや、抑制剤とか、ないのかなって」
ふみやの目は戸惑ったように逸れた。
「僕は……はァ…ッ、特異体質、なんです。すなわち…、っ、抑制剤もろくに効かない、出来損ないですよ。い、家のすぐ外にオメガ専用タクシーを呼んであるんです。だから…一人でもなんとかなります。」
天彦はふらつきながら玄関へと踏み出した。床の底冷えする冷たさまでも熱に変わってゆく。彼は震える息を吐いた。
「待てよ」
「っ、あ ァ…っ、くそっ…なんなんですか、あなたは僕に何もしてくれないでしょう!」
天彦は振り向かずにただ張り上げた言葉を震わせた。見ればこめかみに汗が伝い、背中が一歩踏み出すごとに跳ねている。
「頼みますから……ほっといて、くださいよ…」
立ち尽くすふみやの前に、雲に消えかかった月光が俯いた彼の影を作っていた。ふみやは熱い息を抑え、俯く。刹那の逡巡の後、顔を上げる。
「それ、俺じゃダメなの」
「…は、何を言ってるんですか。」
「俺、アルファなんだし、別に俺でよくね」
言葉尻はいつもの彼と変わらず平坦で低く、ただ黒い眉尻が微かに触れた。黒い瞳は色彩度の低い部屋と紅く染まった彼の柔い頬をその湖面に映している。
「やめてください。……戻れなく、なります」
「それがどうしてダメなの?なんで?」
「わ、私たちは同居人で...っ、」
「別にいいじゃん」
ふみやは天彦の腕をとった。其の瞬間彼の身体は震え、片腕で押えた口から低い掠れた声が漏れる。
「っ、僕にとって性はアートだ。こ、こんな……ほとんど強制的な肉欲は、セクシーじゃない。……僕にとっては正しくないんです。正しくないことは、怖い·····、あなたには、分からないでしょうけど」
決して振り向こうとしない彼の深紫の髪は体内で蠢く声に汗ばんでいた。その下に、薄い痣の跡がゆゆしく月光に現れる。
「気になってた。天彦はたまにふらっと家から居なるよね。帰って来た時には必ず傷跡を持ち帰ってさ」
腕に力が込められる。ほんの数センチ近づいただけで衝動的な目眩に囚われた彼は熱い息を押し殺した。
「…そういうプレイですよ。野暮なこと言わせないでください」
伏せられた紅い瞳が彼のウェーブがかった深紫の髪を捉える。濃いまつ毛が揺れる。
「天彦、俺はお前の首に首輪の痣痕があるのを、知ってる。ヒートになると着けてるその首輪、αの男に無理やり外されそうになってるんだろ」
時報を告げるように薄く言葉を紡いだ彼の憂慮と決心が廻る瞳の奥は、月明かりと天彦の汗ばんだ項を映していた。純粋な心配と熱の色が滲んだ言葉に天彦の浅い海色の瞳は伏せられた。
「……僕は、そういう人の相手をしないと……こ、怖いんですよ。僕の正しさを裏切る為には、思いっきり正しくない相手じゃないと……怖いんです。貴方はセクシーな人だ。正しいとか正しくないとか、そういうのを持たない人だ。そんな貴方が僕のことを多少なりとも心配して、正しい理由を持って僕と行為をしてくれると言う。それが僕は…僕が壊れてしまいそうで、怖い」
寒空を煌めき、風を切るみぞれが地面に弾け散った。空っ風が寂しく窓を叩く音の合間に黒い瞳もまた、砕けそうになる本能的な香りに揺っていた。
「お前にとってヒートは正しくないものなんだ。」
「…...僕が性に拘るのは、好きだからです。魅力的で神秘的で……自己の解放を感じるからです。……強制的に感じる性など、好きではありません」
強く放たれた言葉は宙を舞う。伏せられたふみやの目が彼の項を捉えた。
「……なあ、天彦。ごめん俺、もう、限界...なんだけど」
言葉にならなかった語尾は薄暗く濁って消えた。天彦は濃くなってゆくフェロモンに手に爪を突き立て、必死で抗おうとしている。
「……も、離れて……」
「......良いよ。天彦が嫌なら別に。選びなよ」
沈黙が流れる。静かな夜に、二人の息遣いだけが聞こえる。
「だけど俺はさ、今お前の項を噛みたいって、思ってるよ」
ふみやは微かに残った自制を噛み締めた歯の間から吐き出した。掴んだ腕を強く握り直す。
「……もう、よして下さい。」
天彦は弱々しく首を振った。
「耐えられなく……、なる……」
固く目をつぶった彼は、腕を振りほどいて冷気の方へ踏み出そうとする。だが二人の白い呼吸は既に部屋を満たしていた。
「……天彦。お前の基準から言えば、俺だって正しくない相手だろ」
歯が当たる硬質な音が聞こえる。ふみやのエスという名の貯蔵庫は、既に正しくないリビドーの濁流で溢れかえっていた。
「…俺にしときなよ」
彼のフェロモンが強くなる。天彦は思わず振り向いてしまう。
「っ……」
上気した頬と荒い呼吸、自制のために噛み締めた唇は血が滲んでいる。
「あ……ぁ……」
もう、戻れない