神の生贄(仮) 母さんはいつも言っていた。
『信じていれば、いつか必ず神さまが助けてくれるからね』と。
その言葉を信じて、おれは毎日神さまに祈った。
暖かい家に住めますように。毎日おいしいご飯が食べれますように。母さんの病気が治りますように。
でも、神さまはおれたちを助けてはくれなかった。
木の枝と紐で作った貧相な十字架。
根元には土が盛ってあるが、雨で崩れ、赤い斑点の浮かんだ腕が飛び出している。
スコップやシャベルなんて無い。枝でひたすらに土を掘り返した。それでも深さが十分では無かったのか、母さんは無残な姿で土に埋もれていた。
「……っ、どうして」
雨で濡れた身体は冷え切っているのに、悔しさで顔がカッと熱くなった。
どうしてだよ母さん。祈っていれば、神さまが助けてくれんじゃなかったの?
何も変わらなかった。変わらないどころか、むしろ酷くなっていった。
作物の不作で食べ物が手に入らなくなった。住んでいた家を追い出されて、寝床が廃屋の床になった。母さんはとうとう起き上がれなくなって、そして、動かなくなった。
「……うぅ……ぁああっ……!」
母さん、母さんがいなくなったら、おれはどうすればいいんだ。母さんを楽にさせてやりたい。その一心で生きてきたのに。
もう母さんはいない。頼れる人もいない。
おれは、ひとりぼっちになってしまった。
「かあさん……起きてよ、おかあざん……!」
土に埋もれた手を必死に握った。その手はとても冷たくて、おれの頭を撫でてくれたあの暖かい手は、もうこの世には存在しないのだと思い知らされる。
神さま、どうして、どうして助けてくれないんだ。
母さんとおれは、毎日毎日祈ったのに。
悪いこともしなかった。嘘だってつかなかった。同じような人たちに食べ物も分けた。
なのにどうして、こんな目に合わないといけないんだ。
お願いだから助けて。
助けて……。
「たすけてよぉ……かみさま……!」
べちゃり。何かが降ってきた。
「…………え……?」
冷たい雨とは違う生暖かい何かが、おれの頭を、母さんの墓を紫色に汚していく。
「なんだよ、これ」
急いで周りを見る。隠れる場所もない平地に人影はない。誰かが悪戯で投げたと思ったのに。
空を見上げる。真昼にも関わらず、厚い雲が覆う空は暗い。じっと見つめていると、何かが……何かがこちらに近づいてきていた。いったいあれは……。
べちゃあっと、母さんの上に、今度は緑色の大きい塊が叩きつけられた。
「……は?」
緑色の塊は人の頭よりも大きく、さっきの紫色の粘液に塗れている。絶えず膨らんでは縮むような動きをしているのが、まるで呼吸をしているように見えた。
「……………ニ………………ぇ……………」
「うわっ」
緑色の物体は、もぞもぞと動きながら音を発した。あまりにも小さく雨の音にかき消されてしまう音を、しっかり聞き取ろうと耳を近づける。
「ニ…………ゲ…………ぇ……………ン」
「にげ……?」
「ニん…………ゲ……………ん…………」
「にんげん?」
にんげん。人間? もしかして、おれのことを言ってるのか?
「おれはジンジャーだ。君はなんだ?」
もう一度耳を近づける。
「かぁ………………ミぃ…………」
「かみ?」
かみ、カミ。
「もしかして……神さま?」
緑色の物体は「そうだ」と言わんばかりにぶるりと波打った。
呆然とする。神さま。こんなのが、神さまなのか?ふと、聖書の一部を思い出す。
『神、病に伏し力失う
空が割れ、海が荒れ、地に厄災溢るる
神、地に堕ちて姿無き者に』
ああ、そうか。神さまは病気なんだ。だからこんな姿になってしまったんだ。病気だから、おれたちを助けられなかったんだ。
大きさに反してとても軽い神さまを抱えて立ち上がる。
助けなきゃ。きっとこのままじゃ、神さまが死んでしまう。
雨の中を走った。
蝶番の壊れた扉は、閉まらずにカタカタと風に揺れる。
灯が無く薄暗い部屋の中、今すぐにでも折れそうな古びた机の上に神さまを置いた。少し不安だけど、神さまを床に置くのはダメな気がした。
神さまを助けないと。でもどうすればいいんだろう。食べ物なんて無いし、薬なんてものも無い。
教会に行って……ダメだ。あそこは悪い人たちしかいない。神さまを連れていったら、もしかしたら殺されてしまうかもしれない。どうしたら。聖書には何て書いてあったんだっけ。
『聖女、姿なき神を助くる
聖女、自らの心抉り
神に捧げ、贄となる
聖女糧に、神は天へ昇る
病を払い、神再び世に君臨す』
「心を抉る……心臓?」
胸に手を当てる。ドクドクと動く音が手の平に伝わってきた。
心臓を捧げれば神さまは助かる。でも、そんなことをしたらおれは。
神さまを見ると、さっきよりも動きが弱々しい。紫色の粘液が、まるで血のように神さまから流れ出続けている。
早くしなければ。壊れた扉の近く、割れた窓ガラスに残る長い破片を手折る。食い込んだガラスの痛みに少し怯んだ。
服のボタンを乱暴に外し、胸の中心にガラスの剣を押し当てる。僅かな痛みと共に、一筋の赤が垂れ落ちていった。
そのまま右腕を動かそうとするが、身体が強張って動かない。心臓の音が頭に響いて、カチカチと歯が鳴った。
本当に、本当にやるのか。おれは間違ってるんじゃないか?
おれが心臓を捧げる必要なんかなくて、このまま教会に行けばいい、それにこんなのは神さまじゃないきっと悪魔の類だ、だからこんなことしなくてもいい心臓を捧げても助かるとは限らない死ぬぞ嫌だ死にたくない死にたくない。
それだけはやめてくれと、身体がボロボロと涙を流して訴えてくる。痛みへの恐怖でガラスを持った手が動かない。
怖い。怖い。怖い……!!
「オソレルナ、ニンゲン」
この世のモノとは思えない、神々しい音がした。
「…………かみさま」
そこには神がいた。
緑色の肌に、穢れのない白い髪。
触れれば消えてしまいそうな脆さと、触れればこちらが浄化されてしまいそうな神聖さ。
その美しさを表現することがおれにはできない。
神がおれに微笑んだ。
それだけで、おれの心は歓喜と安堵で満たされる。
大丈夫だ。心臓を失っても、神さまがきっと助けてくれる。
腕を、思いっきり振り上げた。