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    fujiendou

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    fujiendou

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    メンヘルダイバーの1話です。
    3年前の文章に微修正を加えただけなので読みづらいかもしれませんが、ご了承ください‼️

    メンヘルダイバー 第1話「百足」 カッカッカッカッ、と何かしらが叩きつけられるような連続音。その合間を縫って厚底ロングブーツの足音。
    「さあ!!本日も開ギァッ」
     ゴッ!!と激しい音を立ててドア枠に頭をぶつけた男が痛みに後退り、そのままついさっき登ってきた階段を転げおちた。とても書き表せないような鈍い音が遠ざかっていき、僅かな静寂。そしてまた先ほどよりも激しく速い連続音。
    「っう……!!また!私の!道を阻んだなこの板キレ風情がッ!開業だッ!」
     日本人にしては大きめな人影がドアを蹴る動作をするが、出るのはカコーン☆といった軽々しい効果音のみである。

     先ほどから文章を音塗れにしているこの騒がしい男。
     褪せた金髪のおかっぱ頭、首に下げた拡大鏡付きゴーグル、キッチュな模様の落書きされた白衣とまるで棒切れのような義足。校舎を歩く学生としては非常に面白おかしい格好の、身長百九十センチ+厚底ブーツの青年。この男こそが
    「天才ドクター【宇野月 正誤(うのづき せいご)】だッッ! 面白おかしいとはなんと失礼な言い回しであろうか???まあ良い」
    「ひとりで誰に話しかけているんですか、ウノ先生」
    「やかましい。無知な人間どもに私を教えてやっているのだ。お前のことも教えてやろうか? なあ、【黒井 詩荘(ぐろい しそう)】」
    「なんでフルネーム??」
    「ためらい傷まみれの細く白い手首、それを隠す真っ黒なシャツ!重たい紺色の髪で両眼を隠したいかにも根暗でメンヘラな背の低い少年よ!本日は何がつらい?」
    「なぜボクの見た目を事細かに話すんですか!?あとボクは別に背低くないです」

     さて、ウノと呼ばれるこの自称天才ドクターの仕事は、自らが通う高等学校の三階自習ルーム(とは名ばかりの物置)を診療所とし、訪れた患者の精神病を治療することである。
     最も学生である彼に医師免許は当然なく、その方面に特別明るいわけでもない。ついでに、彼の言う『精神病』とは、うつ病だとか適応障害だとかでなく、どうも彼にしか見えない『呪い』のことだと言うのだ。
    「さあ、復習だ。私の治療する『呪い』とは、『心を食うモンスター』のことだ」
     カッカッと左の膝から下に付いた義足を大きく鳴らしながら黒板の周りをウロウロとするのがウノの癖。
     黒井はこの音が少し苦手だが、こればかりは何度言っても直してもらえなかったので諦めている。
    「はい。患者の心に取り憑き、食いちぎり、永久に治ることのない傷を増やしていく恐ろしい怪物です」
    「呪いが発生する原因は?」
    「強い精神的ストレスが主ですが、患者によってそれぞれです。ボクたちのような学生に最も多いのは家族関係によるストレス」
    「うん。して、呪いに取り憑かれ心を食われるとどのような症状が出る?」
    「感情の喪失や不安感、焦燥感、倦怠感、睡眠障害に食欲減退、動悸……典型的なうつ病と同じ症状です」
    「正解。それらの症状は人間社会での普遍的生活に多大なる影響を及ぼす。故に治療しなくてはならない。しかし、呪いは?」
    「ウノ先生をはじめとした、『メンヘルダイバー』にしか見えません」
    「大正解!!だから私が治療する!」
     メンヘルダイバー。メンヘルとはメンタルヘルス(心の健康)の略。ダイバーとは潜水士。
     とどのつまりは、人の心に飛び込み、呪いを視認し、退治する能力を持った人間。それがメンヘルダイバー。ウノはそう言うが、そのフレーズを使うのは今のところ彼だけであり、彼以外にそんな人間がいるかも不明である。
     そんな自称天才ドクターでメンヘルダイバーなウノが現在担当している患者が、先ほどより彼とあらすじ的やりとりを繰り広げている黒井 詩荘。
     彼は数年前より呪いを患い、不定期にウノ診療所に通うようになった。呪いによる強い希死念慮に襲われ、頻繁にリストカットやら首吊りをするため、手首は洗濯板のようになり首には分厚く包帯が巻かれている。
     普通、ウノの手にかかれば呪いは一日、二日で退治できるのだが、黒井に取り憑いている呪いはウノ曰く『なんともグロくネットリと心に絡みついた鬼の形相の地獄絵図』らしく、治療は激しく難航中。それでもある程度に自傷行為を減らすくらいはできるということで、黒井が訪れてきたら診つつ、ついでに診療所の運営を手伝ってもらうというのが最近のルーティーンなのだ。
    「それで、改めて聞くがな。今日はどうしました?」
    「あ、はい。体調は悪くないのですが、薬が無くなってしまったので、それをもらいに」
     ウノがため息混じりの大声をあげる。
    「はあああああああああああああ???お前また一ヶ月分を十日で飲んでしまったな??」
    「すみません……。楽になるんで、つい多めに飲んでしまうんです」
    「私はな、お前を依存症にする為に『フラット』を処方しているんじゃあないンだよ」
    「でも体に害はないんでしょう?」
    「害はないがな?それは手前の理性が節制を覚えられるようにそうしているのだ。ああ、いくら医師が優秀でも患者が馬鹿なら全てが無意味だな!」
    「分かってますって。それを言うの何回目ですか」
    「お前が何回目だ!!」
     ウノの言っていることはまあ最もなのだが、それならば薬をいっぺんに渡さなければいいのでは?という根本的なところには辿り着かないあたり、優秀というには疑問が残るところだ。次は指示通り飲め、と叫びながらその辺の棚から薬袋を取り出して黒井に突きつけた。
     そこで何か大切なことを思い出したらしく、突然首に下げていたゴーグルを頭にかけなおし、白衣の襟を正し始める。
    「?どうかしました?」
    「思い出したぞ。今日はもうひとり診察の予約が入っていた!初診の少女だ!」
    「本当ですか!?」
     黒井が髪の奥の瞳をまん丸にして驚くのも無理はない。学校で勝手に開いている自称ドクターの自称診療所なんかに訪れる人間など黒井以外に殆どいない。部活動紹介コーナーにひっそりと貼られた『宇野月診療所!!初診大歓迎!!メンヘラ患者大募集中!!』なんてポスターを見て、誰が関わろうと思えるだろうか。
    「本当に癪に触る書き方しかできんな貴様は!それでもこの宇野月に救いを求める人間は存在しているのだ!」
    「だから誰に話しかけてるんです!?というか、ここに来るってことは呪いに憑かれた患者ってことですよね!?」
    「勿論!いやーーーーーーーーー程度によれば久しぶりにダイビングができるかもしれんな!!あはははははははははははははは!!」
     ピロピロピロピロ★
     高笑いに被せるように不気味な音程のブザーが響いた。来院の合図だ。
     スイッチが切り替わるようにして満面の笑みから突然真顔になったウノが「どうぞ」と声をかけると、引き戸を恐る恐る開いて、長くうねる白髪の少女が現れた。

    「……こ、こんにちは。予約した、【多手桐 ネジリ(たてぎり ねじり)】……です」
    「ええ。ようこそいらっしゃいました。改めまして、本日診察させていただく宇野月と申します。こちらはアシスタントの黒井。邪魔ならどかします。どうぞ、こちらにおかけください」
    「あ……は、はい」
     ウノの豹変ぶりに自然と後ずさっていく黒井を不思議そうに見つめながら、多手桐と名乗った少女はふかふかの赤いソファに腰をかける。
    「サイトに記載してある呪いについてのテキストは、全てお読みいただけましたか?」
    「は、はい。その……わ、わたし、ほんとに…呪われているんですか」
    「ええ。見えますよ。貴方のこの辺りにいる…ムカデのような形をした…ええ、うぞうぞと這い回っています」
     多手桐の胸のあたりを見つめてケッケッと笑い声を上げるウノに明らかに表情を引き攣らせつつも、彼女は頷く。
    「……わ…わたし…中学生になったくらいのときから、学校に行けなくなって……お母さんに、どこの病院に連れて行かれても……治らなくて……どんな精神科医の人にも、カウンセラーの人にも、治してもらえなかったんです…」
    「それはそれはお辛かったでしょう!けれど、それも当然のこと。貴方の呪いは、メンヘルダイバーであるこの私にしか退治できないのです。親に高い金を払わせたのになにも変わらなかった貴方は何も悪くありません。あははは!」
    「(ウノ先生、久しぶりの患者に対する喜びが漏れ出してますよ…)」
     どこからどう見ても頭がおかしく情緒不安定で、言い回しはいちいち無邪気に悪意たっぷりなこの男に普通の人間はドン引きしてすっと心を閉ざしてしまうに違いない。が、困惑しつつもそのソファから立ち上がることのない患者は、実際ここ以外に頼れる場所のない人間なのだ。まったくひどいことをするよなあ、と、患者と同じくウノから逃れられない立場である黒井はため息をつく。
    「では、呪いの解析と安全なダイビングのために、できる限り詳しく生い立ちをご説明いただけますか?」
    「わ、わかりました…」

     多手桐が話すには、彼女の家は母子家庭の母娘ふたり暮らし。そして彼女は、小学生の頃までとても明るくマイペースな、精神病とは全く無縁の健全な少女だった。しかし、中学に上がり、制服を着ると、なんだか漠然とした不安を感じるようになったのだという。
     朝少しだけベッドから起き上がるのが億劫になり、少しだけ自転車を漕ぐ足が重くなり、けれど原因もはっきりしないので、きっと気の所為だと、彼女は誰にも言わずに日常生活を続けようとした。が、最初は僅かなものだったそれは、徐々に増長し、重く心にのしかかるようになっていく。
     ある日、彼女は、とうとう玄関で座り込んで動けなくなってしまった。
     どうしたの、と声をかけてくる母親に、彼女はごめんなさいと謝り、それから不登校になる。
    「お母さんは……怒らせると、怖いから……本当は、ずっと隠していたかったんですけど……どうしても、足が震えて。………それで…」
     不登校になってから、彼女は母親にたくさん勉強をさせられ、何件もの精神科に連れて行かれた。しかしどんなに評判の良い精神科医に診てもらっても、不安感はおさまらず、次第に無気力や睡眠障害などの症状も現れはじめ、一向に学校に行ける気配がない。母親は口では行けないのなら仕方がないと言うけれども、このままでは彼女の不登校生活が終わりそうにないのを悟りつつある今、常に苛立ち、些細なことで怒鳴ってくる。
     そんな生活の中で、全てに疲れ果て、限界を感じていたとき、インターネットで『誰にも治せない精神病を患った貴方に』と書かれたサイトをクリックし、宇野月診療所を知った。
     そして藁にもすがる思いでメールを送り、ここにたどり着いたのだ。

     多手桐が話す間、ウノはニコニコと頷きながら、ものすごい勢いで古びたパソコンにその内容をメモしていた。黒井はというと、あまり興味がないのでぼんやりと突っ立っていた。
     彼女が話し終えてからもしばらくパソコンにガチャガチャ何かを記入していたウノがぴたりと手を止めると、彼女に向き直る。
    「過去の話で何か、言いたくないことがありますか?」
    「え………っ………。え、ええと…?…な、ないです」
    「?」
    「そうですか」
     怯えつつも慣れた態度で身の上話をしていた彼女が、目を瞬かせて挙動不審になるのを黒井はよく見ていた。ウノにもそれは見えたはずだが、特に追及はせず背後の大きな棚を開き、いくつかの薬を取り出した後、薬袋に放り込みその辺のガラスペンで患者の名前を書き記す。
    「多手桐様。貴方の病状と呪いはよく分かりました。明日、また同じ時間に、ラフな格好でご来院ください。ダイブを行い、呪いを除去させていただきます。それと、こちら。こちらは多手桐さんの心身にダイブの影響を与えないようにするための薬です。二十二時、つまり今夜の十時に忘れずにそれぞれ二錠!お飲みください。これを飲んでいただけなかった場合は、施術ができませんのでくれぐれもよろしくお願いします」
    「えっ……あっ、……わ、わかりました……」
    「それでは、お大事に」
     淡々とした口調で捲し立てられた多手桐が薬袋を受け取り、促されるままに席を立つ。
     自分以外を診察するウノを初めて見た黒井は、こんなにあっさりと終わるものなのか、と拍子抜けしつつも、ドアを開けて彼女に会釈した。
     そうそう、と呟き、ウノがゴーグルを下げる。
    「あなたは何も悪くありませんよ」
    「………、あ、ありがとう…ございます」
     そう言われた多手桐は、強張っていた表情を少し緩ませて、ぺこりと頭を下げて教室を出て行った。


    「意外です」
    「何がだ? 対トビオリ縫合糸」
    「あなたは悪くありません、だなんて。そんな断定的な」
    「ふん。飴と鞭だ。私の言葉が甘くないことなどよ〜〜くわかっている!だからワザと、リーパーレープ三枚おろし、最後に甘〜〜〜くしてやる。そうすると彼女の私に対する印象は、簡単に良くなる。十七億色狙撃ガン、特に精神に余裕のない人間には、分かったような口が一番効く。簡単な心理操作さ」
    「……酷いですね」
    「精神科医もカウンセラーも、根本的にはそんなものだろう?ハイムリ魔神エメトラフ、人の心を外部から故意に操作する点に関しては。自分以外の、ティアピンチコッカー八番、医者のことなどまっっっったく知らんがな?」
     すでにとっぷりと日も暮れ、蛍光灯の青白い光に照らされた教室。
     言葉の節々に呪文のような医療器具(?)の名前を織り交ぜながら、ガチャガチャとガラクタの山(に見える何か)を漁るウノが探しているのはメンヘルダイブ用のスーツである。
    「おっかしいなあ、この辺に放り投げたと思ったのだが」
    「スーツって、こう、ダイビングって感じのなんですか?ウェットスーツみたいな?」
    「いや?全く関係ない。……ああこれは昔作りかけて放置した鎮静スタンランス……ううううううん!?!?出てこないぞ!?黒井、懐中電灯を貸せ!私の机の二番目の引き出し!」
    「はいな………ん?」
     ウノの机に向かうため振り返った黒井の目に、クタクタのぬいぐるみのようなものが映った。
     口は縫い付けられ、目玉を模したボタンはとれかけ、耳はちぎれた、なんだか呪われそうなウサギのぬいぐるみ。これもまた何かの道具だろうかと鷲掴んで拾い上げた時、ウノ先生が大声をあげた。
    「ああああああああああああああああああ!!!あった!!!!」
    「は?」
    「それだ!!そうだ、そのウサギにしまっておいたのだった!おい!黒井!そいつの安全ピンを抜いてみろ!!」
    「安全ピン…?」
     よく見ると、背中の特に無意味そうな場所に安全ピンが通してある。言われるがままにそれを抜くと、突如としてウサギの口がばっくりと開く。
    「うわっ!?」
     驚くまもなく、開いた口からズルズルと黒い何かが吐き出された。嘔吐に似たシチュエーションに黒井の顔は引き攣る。
     バサ、と床に落ちたそれは、いわゆるゴスロリなドレスのようなワンピースのような、リボンとフリルまみれの可愛らしい洋服。
    「ま、ゴスロリ、つまりゴシックロリータとは全く異なるデザインだがな。黒いドレスをみなゴスロリと呼ぶのはやめた方が良いぞ。その界隈の有識者にあの手この手でバッシングを受ける」
    「……で、これ……これがなんですって??」
    「これがメンヘルダイビングスーツだ。これを着てダイブを行う」
    「……これ、どう見ても女の子が着るモノでは…リボンとか、ハートとか…」
    「今のこの時代に性差など指摘する方が愚かなのだよ!メンヘルダイビングスーツは最低限必要な処理がされていればデザインは自由だ。私は可愛いものが好き。好きなものを身につけると気分が高まり、仕事を効率的に進められる。だからこのような形のものを作った。合理的な判断では無いか?これでも動きやすさを優先して飾りを減らした方だがな?」
     今まで患者に何度も同じ反応をされてきたのか、ウノ先生が苛立った様子で捲し立てる。それをハイハイと流しつつスーツを持ち上げて、そしてあることに気がつく。
    「これ……二着ありますけど」
    「おや、それも一緒にしてあったのか?それはお前用だ」
    「はい?」
    「明日はお前もこれを着てダイブするんだ。分かったか?」
    「はあああああああああああああああああ!?!?」
    「やかましい。さっさとサイズを確認しろ。そのあとはベッドの設置をするからな!」


     ピロピロピロピロ★
    「こんにちは………。多手桐です…」
    「こんにちは。本日もご来院していただきありがとうございます!お薬はきちんと飲んでいただけましたか?」
    「は……え………………あ、はあ……」
     多手桐が固まる。それはそうだろう。誰であろうと、大きなベッドの置かれた薄暗い部屋で、女装した男ふたりに出迎えられれば。
    「おっと、失礼。これがダイブ用のスーツなのです。安全な施術のためには、見た目に構っていられませんからね」
    「自分が好きだからで……痛ッ!!」
    「は……はあ……。えっと、それで…そのベッドは…」
     小声でボソッと呟いた黒井を義足で蹴りつつ、頭に巻いた可愛らしいリボンを揺らしてウノが答える。
    「本日、多手桐様には、こちらで眠っていただきます。ダイブ中患者様に意識がありますと、幻覚や幻聴、突発的な自傷行為などを引き起こす可能性がありますので。麻酔は多手桐様のお体に負担をかけますから、自然で深い眠りにつかせてくれるコチラのベッドで……ああ、そんなに怯えなくても、施術自体に痛みや違和感はほとんどありませんよ。ただ眠っているだけで問題ありません」
     本当にこれで精神病を治療することができるのか?これではまるで舞台設定に凝った犯罪行為のようでは無いか。黒井も多手桐も、ニコニコとホットミルクをカップに注ぐウノを見ながらそう思っている。そんな目を向けられていることを知りながらも、ドクターは実に自信たっぷりだ。
    「はい。ミルクはお好きですよね?舌を火傷なさいませんように、ゆっくりお飲みください」
    「……あ、ありがとうございます…」
     ベッドに腰をかけた多手桐は少しためらって、渡されたカップにおそるおそる口をつける。
     舌をじゅわりと焦すような熱さのなかに、ほんのりと香る甘さと優しい乳の風味。
    「このように、温かい飲み物で体を温めるのは、健全な睡眠において大事なことです。なぜかと言いますと、人間は寝る前に体温を上げて体の表面から熱を外に逃し、体の深部の体温を下げて眠るからです。体が冷えていると深部の熱が出ていかず、睡眠の質も悪くなります。そしてミルクには鎮静作用のあるカルシウムが含まれているほか、睡眠ホルモンのもととなるメラトニンに変化する『トリプトファン』という成分も含まれていまして、まあトリプトファンがメラトニンに変化するには時間がかかるので今とったところであまり意味はないんですけど、さらにこのミルクはですねえ、市販の物の中でも特にカルシウムが多いものでして、加熱方法にも気を」
    「先生、先生、多手桐さん困ってますから」
    「いえ………す、すごく美味しいです」
     絵面はカオスだが、外でも家でも気の休まる日が無かった多手桐は、いつのまにかふかふかのベッドでカップを抱えて安堵のため息をついていた。くるくると大袈裟な身振り手振りで施術についての説明をするウノとそれを呆れ顔で止める黒井の騒がしい声に、少なからず不安や無力感が和らいで、どんな精神科医と話をしてもこんなふうに安心することはなかったのに、と不思議に思った。

    「それでは、ゆっくりとおやすみなさい。私どもはコチラの睡眠計で多手桐様の眠りの深さを測らせていただき、ベストなタイミングでダイブを行わせていただきます」
    「はい………お、おやすみなさい…」
     すっかりリラックスしてベッドに潜った多手桐に手を振って、ウノは寝室と化した診療所(しかも教室)の電気を消した。
     微弱な振動や細かな温度調節で患者をより安らかで深い睡眠に誘ってくれる機能のついたベッドで、今の多手桐の意識は十分ともたないだろう。しかしただ眠っていれば良いというわけではないらしく、ウノはゲームのリモコンのような形をした睡眠計から目を離すことなく、廊下をあちこちウロウロ歩き回る。黒井が小声で尋ねた。
    「睡眠障害の症状があると聞いていたのに、こんな意味不明な環境であっさり眠ってしまいましたね」
    「まあ、呪いによる睡眠障害など珍しくもないし対応には慣れ切っている。私の言葉の節々のトーンにも工夫があってだな……おっと、これ以上大きな声を出すなよ。患者の意識に影響する」
    「ウノ先生の方が大声ですよ……」
     それから十五分ほど経ったとき、ウノが左手の人差し指をピッと立てた。その指をさっと診療所のドアに向け、グッと親指を立てる。それが合図であった。

     音を立てないように教室に入り、ベッドに近づく。
     緩んだ表情で眠る多手桐を見て満足げに口角を上げて、ウノは黒井の指に自分の指を絡ませ、手をぐっと繋いだ。ウノ曰く、メンヘルダイバーでない人間にダイブをさせ更に呪いを見せるには、メンヘルダイバーと接触している必要があるらしい。そもそも、黒井はなぜ自分までダイブをさせられるのかを全く聞かされていないことに今更気づいた。なぜ気づかなかったのか?しかし遅いのである。
    「せんせ…」
    「開始ッ!!」
     ウノがゴーグルを装着し、右手に持っていた睡眠計を思い切り床に叩きつけた。
     ガァン!!!!!!と大きな音がし、そのまま黒井の意識はブツンと途切れた。


    「おい、起きろ」
    「………う……ううん……?」
     黒井が右手をぶんぶんと振り回される感覚で目覚めると、ぼんやりとした視界に、曇り空の遊園地のような光景が映った。
     しばし理解が追いつかないまま瞬きを繰り返し、そしてはっと我に帰る。
    「…!!だ、ダイブ!したんですか!?」
    「判断が遅い!」
     いきなりビンタされた。これ、何か見覚えがある気がする……と思う間も無く、右手を引き上げられ、その場に立たされる。地面はなんだかふわふわとしていて、まるで雲の上に立っているような感覚を覚えた。改めてあたりを見回すと、そこは確かに遊園地だった。しかし、今にも雨が降り出しそうな黒雲の立ち込めた空の下の遊園地には人の気配が全くなく、よく見ればメリーゴーランドやコーヒーカップは何年も手入れがされていないように錆び付いていて、メチャメチャな音程の音楽を奏でながらギシギシと動いていた。
     えもいわれぬ不気味さに強大な不安感が襲い、思わずウノ先生にしがみつく。
    「う、う、ウノ先生、こっ、これが…これが多手桐さんの心の中なんですか…」
    「一応はな。しかしここは第一階層。心のいちばん浅い部分だ」
    「あ、浅い部分…」
    「ええい、くっつくな!まだここには何もいない!」
     手だけは離さないままひっぺがされる。
    「ま…まだってことは!?ここじゃない場所にはいるんですか!?何か!?」
    「当然、【呪い】が。ところで、多手桐ネジリの呪いの姿は言うなれば『人面グチャグチャオオムカデ』だが、見たいか?」
    「……」
     ブンブンと首を振ると、ウノ先生はケケケと愉快そうに笑って自分がかけていたゴーグルを渡してきた。羽の飾りがついた赤いレンズのゴーグルだ。
    「これをつけていろ。このゴーグルの『ゾーニング機能』をオンにしておいた。このレンズを通すと、グロくないものはそのまま見え、グロいものはR指定のつかない健全な姿に歪んで見える。未成年にトラウマを植え付けるわけにもいくまい?読者にもな」
    「せっ、先生だって未成年でしょ!!……ボクに貸していいんですか!?」
    「ふん。お前とは精神の鍛え方が違うぞ。その機能はもとからたいして使っていない。お前、人の心配をできる立場か?」
    「その立場にボクを立たせたのは先生なんですが!?てっ、というかっ、本当に、そうですよ!?なんでボクをダイブさせたんですか!?」
    「説明せずともそのうちに分かる。案ずるな、私は自ら選んだ選択に責任を持つ。患者は治すし、お前のことは無事に返す!!さあ行くぞ!!」
     黒井が必死に叫んでも、どうせウノが人の話を聞かないのはいつものことなのだ。結局は慌ててゴーグルを装着し、引きずられるようにしてウノについていく。

     遊園地をしばらくぐるぐると歩き回って、入り口らしき場所で、二足歩行する犬の着ぐるみに出会った。ギィギィと不気味な音を立てて一定の動きを繰り返すそれに、ウノが慣れた様子で尋ねる。
    「おい。第二階層へ行く道はどっちだ?」
    「《¥♯※〒×××***≠※※》」
    「……うむ。ついでに貴様の言葉は十五型陽と二型陰が五対五。診断通りだ。感謝する」
    「《☆♪≒*◎○○××》」
    「は?やらん。こんなもの食ったところで貴様は何も変わらん。分かっているだろう?」
    「《♣︎£*⇔※%♯♯$※………》」
    「ああ。この私が呪いを退治すれば、お前にもきっと他の仕事が見つかるさ」
     とても言語とは思えない、古いビデオテープを巻き戻してはノイズをかけてめちゃくちゃに繋げているような、そんな異音と当然のように会話するウノに気をやりかけながらも、黒井はウノの手を強く握って耐えた。
    「黒井、お前、ジェットコースター乗り場がどこにあったか覚えているか?」
    「へ………?」
     尋ねられて、咄嗟にここにきてからの記憶を呼び起こす。ジェットコースター乗り場は、メリーゴーランドの奥、青色の風船が浮いていたあたりだ。視線を上げて探すと、それがちらりと見えた。
    「あ……あ、あの風船のあたりだったと思います」
    「ああ、やはりな!そうだと思った」
    「やはりって……じゃあなんでボクに聞いたんですか…」
     ウノの記憶力があまり良くないことは普段の会話からよく知っていた。もしかして、こういう道案内とかのためにボクを連れてきたのだろうか……?そう思って呆れると、少しは心が落ち着いた。

     ジェットコースター乗り場にたどり着くと、その辺りは薄暗い遊園地の中では少し明るいように見えた。そして、階段には誰かの足跡がある。大きさからして子供のようだ。
    「なんだか、明るいですね」
    「ここが第二階層への入り口だからな。そこに我々がたどり着くことは、彼女にとって希望だ。そのくらいは弁えているようだな……いや、この聡明さが彼女を呪わせたのだろう。全く………」
    「???………そ、その……ここはもういいんですか?」
    「当然だろう?おそらく呪いは第三階層を巣にしている。我々はそこを目指す。第二階層には多少用事があるがな、この第一階層にはどうでも良いものしか無い」
     喋りながら、足跡を追うようにして長い階段をカンカンと上がっていく。どうも夢の中のようなぼんやりとした感覚が消えない。ただでさえ気がおかしくなりそうなのに。
     階段を登り切ると、ブザーが響いて、可愛らしい猿のような顔のついた車両が滑り込むようにして目の前に停車した。まさか、と思う間も当然無く、
    「乗るぞ」
    と、先頭の車両に座らされた。
     ジェットコースター自体は苦手ではない。むしろ好きな方だ。これが人の心の中でなければ、ボクは、きっと楽しんでいただろう。これが人の心の中でなければ。絶句している間に、もう一度ブザーが鳴り響き、ゴンゴンゴンと車両が動き出した。生ぬるい風が頬を撫でて、繋いでいる手がガタガタと震え出す。そんなボクを乗せて車両がゆっくりと上昇していく。
     ゆっくりとウノ先生の方を見た。ウノ先生は実に楽しそうに、ニコニコと無邪気に笑っていた。人の笑顔にこんなに絶望感が湧いたのは久しぶりである。
     ガラガラガラ、と見えないレールの音が、そこが頂上であることを告げた。

     ゴッ!!

    「いやっほおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!甘えるなよ!!!!入り口の中には高層ビルからの飛び降りを強制させられるモノもある。これなんか実にサービス旺盛で愉快な方だ!!!!!!!!!!!!!!!!!」
    「知りませんよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
     実際のジェットコースターより何倍も速く感じる勢いで車両が傾斜を滑り落ちていく。
     錆まみれの遊園地にあわやぶつかるかというギリギリまで落ち、そのままぐぅんと上昇し急激なカーブを描く。ぐるんぐるんと縦に置かれたバネのような軌道を描きながらさらに高く高く昇る。遠心力で体の中身が弾け飛びそうになりながらも必死に安全バーにしがみつく。悔しいが、やはりウノ先生の手の温もりに多少安心する。
    「次の降下で降りれるな!!!!!!!気を持っていかれるなよ!!!!!!!!!!!!!」
    「もう無理です!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
     直後にふわり、と体が浮くような特有の感覚を覚え、車体はそのまま最初よりも恐ろしく速い速度で急降下した。
     ボッ!!!!!!!
     鼓膜をつんざく勢いの風の音にウグッとカエルのつぶれたような声をあげてしまう。
     涙でぼやけて見える真下には、沢山の壊れた遊具と、切り傷のような巨大な裂け目が構えている。あそこに突っ込むのか、と考えるまでも無く分かってしまって、気を持っていかれるなという言葉に従ってぐっと歯を噛み締める。いや、本当に無理かもしれない。

     不意に、体が地面に投げ出された。

    「うっ、うえっ、ひいっ」
     突如として戻ってきた正常な重力に頭が追いつかず、反射的に吐き気を催す。
     ボクの手はまだガタガタと震えているのに、ウノ先生の手は特にいつもと変わらない体温低めの静かな手だ。
    「第二階層到着。形式は……チッ、やはり……」
    「……せ、先生………なんで……平気なんですか……」
    「何度も言わせるな。慣れだ。そろそろ立て。そのゴーグルもそろそろ仕事をし始めるぞ」
    「…………」
     ふらふらと立ち上がる。
     そこはどうも見知らぬ学校の廊下のようで、しかし、よく見ると、上下が逆さまになっている。ボクと先生が立っているのは、天井だ。頭上に床があった。窓の外には鉄格子が何十にも重なっている。夕方の景色なのか、隙間から覗く空は真っ赤。足元に見えるのは硬そうな天井で、それなのに感触はゴムのようにグニグニとしていて気持ち悪い。
    「………ろ、廊下ですか……学校の……」
    「ああ、お前にはそう見えるだろうな。お前の視界に合わせた指示を出してやるから、ゴーグルを外すなよ。失神されたら敵わん」
    「………」
     一体、先生にはどんな世界が見えているというのか。ボクが今踏んでいるグニグニは本当は天井でなくなんなのか。考えないように頭をブルブルと振った。

    「第二階層では呪いに対抗する武器を見つける」
    「ぶ、武器ですか?ウサギに入れて持ってきたんじゃ?」
    「あれらは誰のどんな呪いにでも効く薬だ。効果は確かだが、本質的に患者の心を救うのは医者から与えられる薬でなく、『患者自身』なんだよ。分かるか?」
    「え、ええ」
    「つまり医者である私が持ってきた武器だけでは呪いを倒すことはできない。患者自身の心の中で見つけた、患者自身の武器が必要なんだ」
    「成程………」
     ウノ先生がドア枠に足をかけ、逆さまになったドアを開く。中は普通に教室のようだ。
     そのまま腕を引っ張られてボクもそこに入ると、頭上を指さされる。上を見ると、四つの机が、グループで話し合う時のように向かい合わせにくっつけられて置いてある。それに添えてある椅子が三つ。片側に二つで、もう片側に一つだ。(ボクの視点からだと、張り付いているようにしか見えないのだが)

    「これは…?」
    「おおかた、三者面談でもしたときの記憶だろう。何を言われたんだか、だいたい予想がつくな……おい、来るぞ」
    「へ?」
    と、ウノ先生が右手でウサギを取り出し、グッと握り込む。
     バァァンッ!!!!
     同時に、窓が割れるような音。教室全体にヒビが入り、その隙間から何か黒いものがものすごい速さで飛び出しウノ先生に覆い被さろうとした。
     ウサギからパン切り包丁を巨大にした様な刃物が飛び出し、掴んだ先生が思い切りそれを振るう。
     バシャァアンッ!!!
     水風船が破裂した様な音。ビシャッ、と体に冷たい液体がかかる。半分に切れた黒いものがうぞうぞと動き、ジャキン!!とまるでウニだか毬栗のように棘まみれの球体となる。キュルキュルと回転し突撃してくるそれを先生が包丁で受け止める。キィィィィィン!!!嫌な高音。包丁の刃がガクンと揺れる。
    「ええい、面倒くさいな!」
    と、先生は足元に転がるウサギを義足で思い切り踏んづけ、その口からどう見ても爆弾っぽいものを出す。
    「黒井、それを蹴り飛ばせ!」
    「え!?」
     突然の指示に反射的にそれをウニの方に蹴り飛ばした。そのまま先生が包丁を振り、ウニと爆弾をまとめて跳ね飛ばす。ガシャアアアアン!と窓ガラスを割って外に放り出された瞬間、カチ、と何かのスイッチが入り、それは思い切り爆発した。ガラスの破片が爆風に乗り飛んでくる。ひっと声を上げて顔を手で覆うが、見事に破片は全てボクをスレスレで避けて背後の壁に突き刺さった。先生はと言うと、顔を掠めるガラス片なんかまったく意にも介さず爆裂したあたりをじっと見ている。

    「ヨシ。診断通り」
    「………ヨシって………ヨシってなんですか!?!?」
    「今のも呪いの症状の一つだ。患者の心の傷の具現化……のようなものだな」
    「今のっ………い、生きて…」
    「人の心の中で生きる生物なんかいるか。あれは生命ではないがな、その役目はいわばダンジョンの雑魚敵だ。呪いというラスボスが構える第三階層へ、私たちを辿り着かせまいとするザコ」
    「……なんか…水…付いたんですけど………」
    「そのうち落ちる」
    「だ、ダイブって……こんなふうに…戦うものなんですか……」
    「戦闘ではない。治療だ。第二階層からはこんなものだらけだぞ。うっかり死ぬかもわからん」
    「死っ………………」
    「冗談だ。最初に言っただろう。患者は治しお前は無事で返す。探索を続けるぞ!!武器と第三階層への入り口を探せ!!」
     さっきからずっとこんな展開な気がする。ぴょんと隻脚とは思えないジャンプ力でドアを飛び越える先生に連れられ、無限の廊下をグニュグニュと走り、目についたドアを片っ端から開いていく。開けた先が教室であることもあれば、女の子の部屋の様な、ベッドや机の置かれた部屋であることもあり、その度に黒いものが現れ襲いかかってきた。
     それは出会うごとに大きさと攻撃の激しさを増していき、ボクたちはいつのまにか廊下いっぱいを覆い尽くす黒いものに追われ、全速力で駆けていた。
     ガガガガガガガッ、と銃声が迫ってくる。
    「お!!あれは八十二万色小銃の形状ではないか!!もっと早く走れ!穴が開くぞ!」
    「銃!?あれ銃使うんですか!?」
    「患者によってはな!おそらく多手桐ネジリは自殺未遂でもしたことがあるのだろう。その経験がこうして形になる!!」
     チュゥン、と銃弾が掠める中、ウノ先生が走りながら手榴弾を取り出し口でピンを抜き、放り投げる。後方で凄まじい爆発音が響くが、それもすぐに遠ざかる。先生の足は速すぎる。スーツに何かを仕込んでいるのかもしれないが、それにしたって速い。ボクはもはや先生にしがみついて足を宙に浮かせている。
    「私は最初お前にくっつくなと言ったが、撤回するぞ!こうしてしがみついてくれていた方が両手が空いて助かる!ただし、絶対に振り落とされるなよ!!そのまま外に弾き出されるからな!!」
    「いっそ追い出して欲しいです…………!!!」
    「許さん!!」
     休む間もなく今度は巨大パン切り包丁を構え、後方から投げられる鋭いブーメラン状のものをシパッズパンッと切り捨てていく先生。ボクはその間、次のドアを探して左右の壁を注意深く見る。左目の端に扉が見えた。
    「先生!左!!」
    「応ッ!通り過ぎる前に言えこの愚か者ッ!!」
     キィィィィィィッとゴムの上で義足が急ブレーキをかけ擦れる音。ぐるんっ、と視界が回転し、先生が黒いものに対峙するのが分かった。
    「チイッ、こういうシチュエーションでなら真っ二つにしてやりたいトコロだが……!」
     ウサギからこれまた巨大な銃的ウエポンを取り出した先生が銃口を黒いものに向ける。ぐっ、先生の体に力が入り、引き金を引いた。
     ゴブァァァァァアアアアアッ!!!
     その口から真っ赤な爆炎が噴射された。廊下一面が明るく光る。ついでに僕の指先に火の粉が飛んだ。
    「あっつッ!!!」
    「奴等が引いた、今のうちに突っ込むぞ」
     ボクのリアクションはスルーして、前方向にジャンプ。空中で器用に体制を変え、左の義足を取っ手に引っ掛けて引き戸を開くと、その端に手をかけてそのまま中の空間に突っ込んだ。先生は綺麗に着地したものの、無駄にアクロバティックな動きに振り回された僕は着地の勢いでその場に崩れ落ちそうになる。それを乱暴に義足で支えられながら立ち上がると、そこは逆さまの教室でなく、正常な向きの屋上。鉄格子に囲われた真っ赤な空が一面を満たしている。そして、先生に手を引かれてその中央に走っていくと、そこには鞘のない灰色の日本刀のようなものが落ちていた。
     それを拾い上げて、先生は頷く。
    「これが多手桐ネジリの心の武器だな。かなり傷ついてはいるが……ムカデに日本刀とは、なかなかよい趣向ではないか」
    「思っていたよりずっと武器そのものなんですね…」
    「ま、これもまた患者それぞれだがな。多手桐ネジリは本質的には真っ直ぐで切れ味の良い人間という事だ………それより、しがみつかなくて良いのか?」
    「へ?」
    と、ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ、と激しく地面が揺れ、周りを囲っていた鉄格子がバキバキと音を立てて変形し始める。背筋がゾッと泡立つ間も無く、それは一つの大きな塊になった。よく見ると、手のようなものが表面いっぱいを覆い尽くしているようにも見える。
    「おおう!集合体恐怖症の恐れを煮詰めて固めたような様子だコレは」
    「輪郭だけでわかります!説明しなくてイイですから!」
    「では、多手桐ネジリの心の強さは如何程か、試してみるか」
     すらりと日本刀を構える先生。これはこの第二階層で戦闘が始まってからずっとそうなのだが、フリフリのドレスを纏った身長百九十センチの男が武器を構える様子はこのホラーな世界に負けず劣らず恐怖そのものである。しかし、あの巨大なやつに、ヒビの入った日本刀が効くのだろうか?
     そう思うと同時に、巨大な黒がパァン!!と弾けるようにして、体に生えた大量の手を(物理的に)伸ばし襲いかかってきた。ものすごい勢いで頭上から百八十度全方向を覆われる。がっと先生に思い切りしがみつくと、先生は思い切りその刀を振った。
     シパンッ!!!
     何十にも重なって破裂音に近くなった斬撃音があたりを包む。思わずつむっていた目を開くと、多量の手は消失していた。というより、全てバッサリと切り落とされている。先生が高笑いした。
    「ひぇ」
    「あははははははははははははは!!これは良い!多手桐ネジリは相当な人格者だ!これを折るとは、彼女のクラスメートや両親は天才だな!!」
    「く、クラスメート?」
    「当然、多手桐ネジリは学校でいじめを受けていた。診察の時には隠していたが、心は嘘をつかん!」
    「いじめ!?」
    「おっと、もう刃こぼれが出た。試し斬りはここまでだ!アレに相性の良さそうなヤツは……ヨシ!!」
     もう一度襲ってきた手を後ろにジャンプして回避した先生の前で、バン!!と手同士がぶつかって黒い花火のようになる。先生がスーツの中に突っ込んでいたウサギに刀をしまうと同時に、金に輝く謎の装備を取り出した。それは『大きな輪っかから生えた沢山の腕』のような形状で、ひとりでに宙に浮き、先生の背中にしがみつくボクの背中………つまり、ボクと一緒に先生に背負われるような位置で空中固定される。表現が難しいが、今の先生は正面から見れば千手観音のようになっている………と言えば伝わるだろうか?
     とにかくそういう格好になった先生は、次々と襲いくる黒い手をかわし、屋上の柵に飛び乗り、一度姿勢を低くすると兎のように高く飛び上がる。もちろん巨大な黒に向かってだ。
    「目には目を、歯には歯を……手には?」
    「て、手っですかああああっ!?」
    「そうだ。パンチラッシュのフィーバータイムといったトコロだな!」
     グングンと黒に近づくボクらの背後で、ウィィィィン、と機械が音を立てる。あっという間に視界が真っ黒いウネウネに埋め尽くされて、ぶつかる……と血の気が引いた瞬間、ドゴォォォォン!!!と衝撃音が響く。咄嗟に音の鳴った方を見ると、機械の金色の拳と黒い拳がぶつかり合っていた。えっ、こういう感じ?

    「振り落とされるなよ!!」

     先生の声にかぶさるように次の衝撃音。その次。次。次。次次次次……………
     ドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴ!!!!!!!!!!!!!!
     拳同士が激しくぶつかり合う衝撃に、本当に振り落とされそうになって、必死に先生の体に指がめり込むほど強くしがみつく。機械にはジェット機能でも付いているのか、ボクらは下に落下せず空に浮いている。しばらくラッシュが続くうちに、徐々に先生の機械が押し始めたのがわかった。巨大な黒にめり込むようにして前進していく。
    「ふん、所詮少女の心!我がマシンにかかれば造作もないな!無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ァ!!!!!」
     やけにテンション高く一度も噛まずに叫ぶ先生。まるでこれがラスボスのような勢いだが、先生が言うにはこれは前座に過ぎないらしい。先生の体が止まることなく進む。後ろも前もまるで黒のトンネルだ。と、カッ!!と強い閃光が目を刺した。
    「ここが最深か。ヨシ」
    「ヨシ…………」
     先生がヨシという時は大概ボクにとってヨくない、と身構えたところで、先生は爆弾を取り出す。それは明らかにさっきまで投げていた手榴弾より強そうだった。
    「爆風と同じ速度で降下すれば問題はない」
    「……それって……」
    「音速か?」

     即、背中からの降下、いや、落下のふわっとした感覚。ゴオオオオオオッ、と風の音。それに混じり、爆発音が聞こえる。はっと気がつくと、遠くで巨大な黒が粉々になっているのが見えた。
    「嘘だ。人間は音速で動いたら死ぬ。対呪い用の兵器が人間に効くわけもあるまい」
     くるくると猫のように体を捻り、ストンッ、と屋上のタイルの上に着地して、先生が真顔で呟いた。
    「…………」
    「さて、そろそろ第三階層への道が見つかっても良さそうなモノだが……お?…なるほど。戻るぞ」
     先生と今のを音速だと一瞬でも思ってしまった自分に対する憤りで黙りこくるボクなど全く意に介さず、先生は屋上ドアを開く。チュンッ。聞き覚えのある音と共に目の前を銃弾が掠めた。
    「さっきのか。しつこい奴らめ」
    「先生、ボクもう帰りたいんですけど!?」
    「無理だな!すでに私はお前を組み込んだ作戦で動いている!今更変更することなどできん!!」
    「なんの作戦ですか!?!?」
     猛ダッシュしながら先生が第三階層への入り口を探す。
     追いかけてくるやつとの戦闘描写はすでにやったので割愛するが、どこにそんな体力があるのか、先生はとにかく校舎を走り回り、そして廊下の突き当たりの窓に突っ込んだ。
     バシャアアアアンッ!!とガラスの割れる音。落下。もはや叫ぶ気力もない。
    「せ、先生……なっ、なんで飛び降りッ」
    「先程、屋上から見下ろしたときに、空間に亀裂が入っているのがわずかながら見えた。あそこが入り口で間違いないだろう」
    「ぼ、ボクそんなの見えませんでしたが!?」
    「当然だな。私の視力は五十三万です」
    「人間じゃないじゃん!!!」
     先生が大きな(と言っても今までのに比べたらはるかに常識的なサイズの)ピッケルを取り出す。それを振りかぶり、空中に突き刺した。
     ブチッ!!と肉の途切れるような音がして、ぐぱっ!と赤い空に真っ黒い口のような穴が出現する。……たしかにこれならジェットコースターの方が見た目マシかもしれない。ボクらは学校から落下した勢いのまま、その穴に吸い込まれた。
     風の音がない。風の音どころか、スーツの布がはためいて擦れる音もしない。ゾワゾワゾワッと湧き上がってくる不安に、ぎゅうっと先生を抱きしめる。その感触すらよくわからなくて、改めてここが人の心の中であるのを実感した。

     浮遊感が不意に止んで、ボクは何故か仰向けになって何かに抱えられている。
    「オイ、降りろ」
    「は……?え……」
     そこでボクは、先生にお姫様抱っこをされていることに気がついた。ぽかんとしていると、地面に落とされる。
    「うわああっ!?」
    「お前が気をやりかけて、手が離れそうだったからな……チイッ、痺れた」
     ぶんぶんとボクと繋いだままの手を振り、先生はため息をつく。ボクの目は先生のその背後にいった。肉のトンネルのような薄暗い、所々に超巨大なハサミや包丁が突き刺さった謎の空間の、そこに少女の形をした影がある。見覚えがあった。あれは、この心の持ち主、多手桐ネジリの後ろ姿。

    「先生」
     その瞬間、その小さな体に、黒く鋭い何かが何本も突き刺さる。
     ドズッ、と嫌な肉の音が聞こえてきて、そしてそれを全て飲み込むようにして地面から巨大なムカデが飛び出してきた。巨大というレベルではない。立ち上がった部分だけで、二十メートルはあるのではないだろうか。ゴボゴボゴボゴボッ、と形容しがたい重低音がそこらじゅうに反響する。
    「あははっ、出たな。コイツが呪いだ!」
    「……………」
    「何をビビっている。お前の目にはただのムカデにしか見えていないはずだが?」
    「……先生は………巨大ムカデ………グロいと思わないんですか…………?」
    《××××××××××××××!!!!!!!!》
    「ぎゃっ!?」
     ムカデが、言葉のような鳴き声のような少女の叫び声のような声をあげた。ビリビリと空気が凍てつく。即座に先生はボクの手を引き、後方に飛び退る。ドスッ!!と包丁の形状をした赤いものが、肉の床に深々と突き刺さった。そのまま先生は走り出す。続けてドスドスドスと同じ攻撃が迫ってくる。
    「黒井。あれはでかいが、基本の仕組みは第二階層で追ってきた奴らと大して変わらん。なんなら、第二階層の奴らの方が、無限に湧いてくるだけ厄介ですらある。派手なのは見た目だけだ」
    「のわりに攻撃が生々しく痛そうですけど……!!?」
    「多手桐ネジリの痛みそのものだからな!くらうと心身に派手にダメージを受けるぞ!」
    「全然変わらなくないじゃないですか!?」
    「何?お前、第二階層で一度でも攻撃を受けたか?」
    「……ん?」
     そのとき、先生がボクを軽々と持ち上げ、自分の肩に座らせた。つまり、ボクを肩車する状態になる。目線が二メートルほど高くなって、くらっと軽い眩暈がする。
    「では、そろそろ黒井、お前をダイブに連れてきた理由を教えてやろう!」
    「えっ」
     遠くでムカデが這う轟音を立てる肉トンネルに、先生の凛とした大声がこだました。

    「それは、『お前が無敵なのを確認するため』だ」
     ……ん?

    「言っただろう!お前には凄まじく凶悪な呪いが憑いている。この私すら手出しできないようなえげつないものがな。いいか?呪いはなにも、ひとりだけを喰うわけじゃない。宿主が死ねば解き放たれ、そしてすぐさま別の誰かの心に取り憑く。それが、他の呪いの住む心であったら?簡単。弱いほうが強いほうに喰われるのだ。先住者が負けた場合は、当然その心は乗っ取られる。故に、並大抵の呪いは、最強的パワーを持った呪いを内包しているお前に手が出せないのでは?と思っていてな。やはり私は正しかった!」
    「………はあ………?」
     つまり、ボクは呪いに攻撃を受けないということだろうか。確かに、丸腰のボクと違って武器を持っているからだと思っていたが、このダイブ中、先生ばかりが黒いものに狙われていた。うれしいことだが、他人の呪いに手を出されなくたって、結局自分自身の強い呪いのせいで毎日手首を切っては首を吊るので、どっちにしろ呪いに殺されてしまうのではないかな…………と思う。
     先生がウサギから例の『多手桐ネジリの心の武器』である日本刀を取り出して、ボクに渡してきた。すらりとした刀身とは裏腹に、ずしっとした重みがある。
    「これを使ってあの呪いを斬れ」
    「…………えっ?」
    「『心の武器』は壊してはならないくせに壊れやすいからな。無敵のお前が扱えるようになれば何かと便利になるだろう」
    「う………嘘でしょう…」
    「簡単だ。あの呪いを斬ればいい。スパッ!と!流行っていたマンガあるだろう?あれと同じだ」
    「ボクそのマンガよく観たことないんですよ……」
    「構わん!脚と援護はやってやるから、お前はあれを斬ることだけに集中しろ。攻撃されてもお前には当たらんから怯むなよ」
    「ちょっ………!!!!」
     グオンッ、と視界がすごいスピードで移動する。先生がムカデに突撃しているのだ。重たい日本刀を構えることすらうまくできないのに……!!何が何だかわからないのはダイブする前からずっとそうだが、流石に巨大ムカデへの耐性はない。泣きそうになる。このままこの日本刀で自決してやろうか。
    「人の心そのものであるソレで他人が死ぬとどうなると思う?患者とお前の意識が融合し、患者はさまざまな精神疾患を発症して二度ともとに戻らなくなるからな」
     先生が釘を刺す。ええ、ええ。分かってますよ。やっぱりボクは先生から逃げられないんだ。グインと急激に体が上昇すると同時に、下からシュキン!!と音がした。見ると、閉じた超巨大ハサミ。今先生がジャンプしなければ、ボクらは真っ二つだっただろう。敵意たっぷりの凶悪な攻撃に冷や汗が垂れる。

    『………』
    「え?」
     足元から何か、声のようなものが聞こえた。先生が喋ったのかと思い下を向くが、先生は首を振る。
    「患者の声だ。呪いがつけた傷の叫びが、呪いの悪意によって拡散されている。これに応えるのもメンヘルダイバーの仕事といえば仕事だな。よく聞いてみろ」
    「…………」
    『……が……』

    『誰が……産んでくれって頼んだのさ!』
    『わたしがっ、わたしだけが……わたしだけが、いつも……!』
    『嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき!』
    『どうして皆、平気で誰かを傷つけられるの?』
    『どうして平気で人を傷つけるあの子が、あんなに幸せそうなの?』
    『わたしがこんなに頑張ったって、お母さんも、誰も認めてくれないのに』

    『なんのためにわたし、生きてるの』

     泣き叫ぶ少女の声が、幾重にも反響して耳に焼きつく。聞いていたら、こちらまでどうにかなってしまいそうな、悲痛と憎悪の慟哭だった。先生がハサミ攻撃をかわしながらムカデに向かって走る。

    「お前が傷つけられるのは、お前の頭が良いせいだ」
    『どうしてわたしばっかりがオトナにならなくちゃいけないの!?』
    「お前がオトナになれるからだ。ただし、強制された成長など、それは成長ではない。ただ歪んでねじれてぷっつりと諦めてしまっただけ。それはもはやオトナではなく、死んだコドモだ。誰もそれに気づかない。それはお前の周りが、お前より愚かでどうしようもなく馬鹿だからだ」
    『違う。わたしが一番馬鹿!だって、辛いって、悲しいって、口に出せないの。口に出さなきゃ伝わらないのに、これ以上否定されるのが怖くて口に出せないの』
    「いいことを教えてやろう。口に出したってお前の気持ちは誰にも伝わらない。お前がやめてと言った時、クラスメートはお前を殴るのをやめたか?お前がごめんなさいと謝った時、お前の母はお前を叱るのをやめたか?口に出すことすら恐ろしくなるほど、弱音を否定されたのは何故だ!お前が口に出して伝えようとしたからではないのか!?」
    『そうよ!だから、だからわたしが何をしたって仕方ないの!何をしたって仕方ないわたしに、生きてる意味なんてない!』
    「自惚れるな!!」
     パァァァァァァンッ!!!
     ボクらを横から弾き飛ばそうとしたムカデの巨大な尾を、先生は右足で迎えうち、蹴り飛ばす。人間のパワーじゃないですけど!?それでよろけた先生を壁から生える黒いトゲが突き刺そうとしたので、あわてて刀を無理矢理に振った。トゲが全て切り落とされる。
    「生きてる意味など誰にだってありはしない!!お前にも、お前の母親にも、お前のクラスメートにも、私にも、上のやつにもな!!」
     ムカデが吐き出した針が先生に襲いかかる。先生がミサイルランチャーを取り出してその銃身で針を叩き落とし、トンネルに刺さった超巨大包丁の背に飛び移り、引き金を引く。ドゴォォンッ!!ミサイルが弧を描いてムカデの腹を爆撃する。その隙にさらにムカデに近づいていく。
    「人は意味があるから生きるのではない!そんなことはお前も分かっているはずだ!!」
    『わかってる…。でも、どうしたらいいのか分からないじゃない!意味がないのに、どうして生きなくちゃいけないの?意味もなく傷つけられて、意味もなく苦しくて、どうして、どうしてわたしは生きてるの!?』
    「そんなこと!!当然!!」
     もう一撃。今度は尾で弾かれる。そのまま持ち上がった尾に飛び乗る。

    「私がお前に、多手桐ネジリに『生きろ』と願うからだ!!」

     ヒビだらけの日本刀を思い切り振り上げた。流石にわかる。ボクも、結局先生に生きろと言われてここで生きている。先生がムカデの頭に向かってジャンプした。

     やれ、との命令が出た直後、ボクの振り下ろした刀が一直線にムカデを切り裂いた。


     ズガァァァァァァァンッ!!!!
     刀が地面にぶつかるものすごい衝撃で、着地しかけた先生の体が浮き上がる。
    「うおおおう!!これは凄まじいな!黒井、お前には攻撃力も充分備わっているようだ!」
    「もうやりたくないです!!」
     その瞬間に真っ二つになったムカデが目の前に倒れてきた。ドォン、とさらに地面が揺れて、刀を握ったままふらりと後ろに倒れそうになるが、先生が体制を変えて起こしてくれる。
    「………た…倒したんですか?」
    「ああ。とりあえずはな」
     ムカデはピクリとも動かない。しん、と辺りが静まり返って、冷たい空気が肌を撫でた。と、握っていた日本刀が、ふわりとひとりでに宙に浮く。刀身がうっかり首に触れそうになってビビってのけぞる。
    「ひいっ……」
    「壊れぬうちに、元あった場所に帰るようだな。我々もそろそろ浮上するぞ。良かったな」
    「………良かったなって……」
    「手は離すなよ」
     そういえば、ここからどうやって浮上する、つまり帰るのだろう。来る時は落ちてきたが、まさかあの高さを登るわけにも行かないだろうし………と思った瞬間、先生がジェットパックを背負う。
    「は?」
    「そのまさかだ。落ちてきたからには当然登る。きた道を戻るだけだからたいして時間はかからん。これはお前の分」
     ショックで白くなったボクにもひと回り小さいジェットパックを背負わせて、スイッチを押す。キュィィィィン、と何かしらをチャージしているような音がする。
    「先生…………………」
    「浮上開始!!!!!!!」

     ドゴォォォォォォォッ!!!!!!!!
     爆発音のようなけたたましい音と共に、ボクの体は先生と一緒に宙に打ち上げられた。


    「………う……うぐ……」
    「………」
     気がついたら、そこは薄暗い教室。もちろん、逆さまでもなければ、床の感触も硬い。

    「はっ……!せ、先生!起きてくださいっ」
    「うん!!」
    「ぎゃあっ」
     隣で転がっていた先生をゆすると、突然すごい勢いで起き上がるので驚いてベッドの足にゴチンと頭をぶつける。
     そうだ、ボクらは無事メンヘルダイブを終えたのだろうか?ジェットパックでの浮上、絶対に必要ないであろうループやシャンデルを重ねた果てに、無事多手桐ネジリの心から抜け出せたのだろうか。
    「今回のダイブは無事成功だ。多手桐ネジリの呪いは除去された」
    「………そ……そうですか……」
    「施術時間はだいたい十分くらいだな。心の中と外では時間の流れ方が違う。覚えておけ」
     先生はさっさと歩いていき、机の引き出しからカルテを取り出して、そこに何かしら記入を始めた。ボクはしばらく疲労でぼんやりとしていたが、そういえば、先生に借りたゴーグルをつけっぱなしだったことに気付いて外す。視界が少し明るくなった。
    「それ、お前に贈ってやろう。どうせこれからも使うことになるだろうし」
    「ああ、ありがとうございま…………はい?」
    「お前にはやはり最強のメンヘルダイバーになる素質がある。これからも助手をしてもらうぞ」
    「嫌です」
    「嫌じゃない!これはお前にとっても良い提案なんだ。私はかねてよりお前の呪いの治療法を探している。しかし、その強力さと不安定さに迂闊にダイブも行えず、未だ衝動的な自傷行為を抑えることにしか成功していない!大量の薬でな」
    「そ、それはそうですけど…」
     昨日もらった薬をすでに三分の一ほど飲んでしまったのを見透かされている。
    「だからまずお前の心を、お前の呪いと同じくらい強くする必要があるんだよ。他人の心を分析し、治療し、その記憶を自らの糧とすることでな。メンヘルダイブは、失敗すれば死ぬが、成功すれば精神的成長の為の大きな経験値となる。それはもう凄まじい経験値だ。ポケなんとかならレベル一がレベル五十になる感じ」
    「……そ、そんなこと言ったって、呪いが治らなきゃまた自傷するし自殺未遂もするんでしょ?そんなのボクが一番わかってます」
    「それでもお前は生きる。今までそうしてきたように。だから強くなれる。立ち止まっていたって、いまのお前には他人を救う力しかないのだ。強くなって、お前自身を救う力もつけろ」
     カルテを書き終えてガラスペンを机に放り投げた先生がそう言った。……他人を救う力、と言われても。


    「………ん……」

     多手桐が目を覚ますと、ニコニコと笑みをたたえたウノの顔がすぐ近くにあった。驚いて飛び起きると、同じ速度でウノが顔を上げ、衝突を防ぐ。
    「おはようございます!無事施術は終わりましたよ」
    「うん…………あ、あれ?」
    「いかが致しました?」
    「……わたし……夢の中で……宇野月先生とお話していた気が…するんです」
    「ええ。私は多手桐様の心の中で、多手桐様とお話をしましたよ」
    「……そうなんですね。わたし、今、すごく胸の奥が、柔らかくて、温かくて、軽い……ような」
     ずっと僅かに曇った表情を浮かべていた多手桐の顔は、実に穏やかに緩んでいる。それとは対照的な、全く変わらない嘘っぽい微笑みのまま、ウノは続けた。
    「呪いが消えた証拠です。不安感や動悸がおさまり、少し視界も明るくなりましたでしょう?」
    「は、はい!………こ、こんなに…楽になったの、はじめてです、ありがとう、ございます……」
    「ええ。……それで、ダイブではっきりと解ったのですが。多手桐様は学校でいじめを受けていらっしゃいましたね」
    「!…………そ、そうです…か……やっぱり、いじめ、なんですか………。わたし…」
     多手桐は、寝癖をつけたまま少しずつ話しはじめる。
     彼女は小学生の時、性格の合わないクラスメートと意見が衝突したことがきっかけで、いじめられるようになったのだそうだ。それは消しゴムや鉛筆を隠されることから始まり、良くない噂を流されたり、机に悪口のラクガキをされたり、ひどい時は殴られたり蹴られることもあった。彼女は母親に何度か相談したが、いつも『そのくらいはいじめと言わない』『辛いのならやり返せ』と面倒そうに言われるだけで終わってしまった。幼い彼女はそれを間に受け、それをいじめではないと思い込み、黙して耐える選択をしたのだ。
     そうして少しずつ心を病んでいった彼女は、不登校になる。そこからはほとんど昨日言った通り。
    「……担任の先生は、わたしが不登校になったあとも、一度もそれに気がついてくれませんでした…………お母さんは、毎日わたしに学校に行けない理由を聞いてくるけど、それを言うと、いつも怒るから……」
     多手桐の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
    「……だから、こんなことで、行けなくなったなんて、恥ずかしいことで、誰にも言っちゃいけないことなんだ、って……わたし…………」
     そう言って、彼女はうずくまり、声をあげて泣き出した。

     どうしたらいいか分からず立ちすくむ黒井をどかし、ウノが多手桐にタオルを差し出して、笑顔を崩さないながらも真剣な口調で言う。
    「多手桐様。人の心とは千差万別であり、何でどう傷つくか、壊れるかも人それぞれです」
    「………」
    「そして、人には、自分を、自分の心を守る権利がある。だから、貴方が痛いと思ったなら、辛いと思ったなら、誰かに助けてほしいと思ったなら。それが正しいのです。貴方の心は、貴方のものですから」
    「…………先生……」
    「他者に否定されながら、虐げられながら、呪いに喰われながら。良くがんばりましたね」
    「…………うわあああああ…っ!!」
     ウノの手を握りしめて、多手桐はさらに激しく泣く。
     天才ドクターはそれきり何も言わなかった。教室が、沈みかけた夕日に柔らかく照らされていた。


    「……それで、なんでおすすめのカウンセラーを紹介したんですか?呪いは倒したんでしょう」
    「呪いは倒せても、呪いが患者の心につけた傷は、生涯治ることはない。これから多手桐ネジリはその傷と共存していかなくてはならない。そのためには腕の良い専門家が必要だ」
    「……ああ、呪いが解けたから、普通の精神療法が効くようになるんですもんね………ていうか先生、カウンセラーもできそうでしたけど…?」
    「できそうでもやらん。二兎を追う者は一兎をも得ずと言うだろう。私はメンヘルダイバーの道だけをとことん極めると決めたのだ」
     ウノが棒状のスナック菓子をザクザクと貪りながら椅子をくるくる回す。
    「ちょ、床汚れるから食べながら回らないでくださいって!」
     ウノは多手桐に、施術代として『おやつ三千円分』を要求した。てっきりお金を取られるものだと思ってお小遣いをありったけ持ってきていた彼女は面食らっていたが、よく考えたら当然、保健所に診療所の開設届なんか出しているわけがない高校生が、しかも非科学的な謎の精神療法で、さらに保護者不在の未成年から金を取れるはずがない。そういうわけで、ウノの机にはスナック菓子やらチョコレートやらアイスクリームやらが散らかっている。……いや、四歳も年下の中学生に自分のおやつを買わせる高校生も、それはそれで倫理的にはヤバいが。
    「これでしばらく食事には困らない!あはははは!」
    「三千円分なんかすぐ無くなりますよ!ていうか食事をお菓子で済まさないでください!」
    「というかお前はなぜまだここにいるんだ!もう二十一時だぞ」
    「ダイブで疲れすぎて動けないんですよ……」
    「情けないやつだな!」

     黒井はものすごく疲弊していた。メンヘルダイブで人の心を直に浴びるという経験は、黒井の少ない体力を極限まですり減らした。
    「(……でも、死にたくはならないんだよな)」
     普段なら、心身にわずかなストレスを負っただけで希死念慮のスイッチが入り、そのまま自傷行為に走るか大量に薬を飲んでやり過ごすかなのだが、ダイブ中も今も、不思議と死にたいとは全く思っていない。先生が『メンヘルダイブは精神的成長のための大きな経験値となる』と言っていたが、そういうことなのだろうか。この経験を何度も積んだら、こんなふうに薬に頼らず楽になることも増えるのだろうか。

     少し考えて、黒井はフラフラと立ち上がった。

    「先生、もし次のダイブがあったら、ボクを連れて行きますか?」

     そんな質問に特に驚くでもなく、ウノは次の菓子の袋を開ける。

    「当然だ」
    「………分かりましたよ。次も手伝いますよ!ボク、先生より強いんですもんね!」
    「現時点ではまだ私の方が上だ!!阿呆!!」



    『………そうして、●月●日、黒井詩荘は、今後の人生に重大な影響を与えるであろう選択をした。多手桐ネジリは、呪いの縛りから解放され、何度も挫けながらもその痛みを乗り越えて自らの居場所を探していくのだろう。しかし、私はどうだった?ひとりの患者の治療に成功したことは素晴らしいことだ。この経験は、私自身の糧となる。私は成長する。けれど、何のために?私は何のために成長する?………そんな事は、常に患者に言い聞かせているだろう。私は、私自身のために成長する。ただそれだけだ。決して誰かの為など、思い上がってはならない』

     深夜三時、真っ暗な教室。名前の塗りつぶされたカルテにガラスペンで書き殴って、宇野月正誤はランプを消した。
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