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    rasyorash

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    rasyorash

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    こっちにも出してみました

    baby,baby 5ちょうだい、ちょうだい、ちょっとだけでいいから

     底の方にほんの少しだけ中身の入ったカップを持って、ずっとそんな風に泣いていた。
    ずっと泣いて涙が乾いた頃、カップを隠すようになった。

     いらない、いらない、いらないからとらないで

     そんな事を言いながら、暖かなものをいれようとしてくれる手を求めていた。だから、少しでもそんな手があれば、無くすまい、離すまいと必死になった。それでも奪われるのを知ったから、怖くなって新たな手は望まなくなった。

     いらないの、いらないの、あっちにいってよ

     また泣き出していることに気がつかないまま、小さな子どもは、今でもずっと訴えている。声にしないまま、蹲ったまま、頭上で静かに待つ手を拒絶しながら。


     ちょっとだけ…ちょっとだけ…




















    おれにもちょっとだけ、ちょうだい…























































     リビングに、コーヒーの匂いが漂う。
    白いマグカップにはブラックを。青いマグカップには、ひとさじの砂糖を。
    目の前に置かれた青いマグカップからコーヒーを飲めば、散々泣いて走り回って冷えた体にじんわりと熱が戻ってくる気がした。
    サンズがマグカップを戻したのを見て、マスタードはゆっくり口を開いた。

    「落ちついたか」
    「うん…」
    「そうか」

     マスタードはサンズに向けた目を、自分の白いマグカップに戻した。
    時計の針が進む音だけが聞こえる。全部話すと言われて帰ってきたものの、サンズは何を話されるかわからずに落ちつかないでいた。しかしそれはマスタードも同じだったようで、妙にそわそわとしている。
    それでも、そのままでいる訳にはいかないのだ。
    マスタードは、ふっと息をついた。

    「…話すとは言ったが、何から話したもんかな…」

     サンズをソファーに座らせ、自分はローテーブルの隣に胡座をかいて座ったまま、時々体を左右に揺らして、言葉を選んでいるようだ。しばらくすると、マスタードはサンズの正面に体を動かした。

    「なぁサンズ…俺の本当の名前を知ってるか」

     そう聞かれて、サンズは首を振った。物心ついた時から今まで、マスタード以外の名前など聞いたこともない。

    「マスタードが名前じゃなかったんだな…」
    「ハハ、まぁな……旦那からも、聞いたことないか?」

     今度は縦に首を振るサンズに、マスタードはそうか、と言いながら床に視線を落とす。
    サンズは不安に胸を締めつけられながらも、俯くマスタードから次の言葉が出るのを静かに待った。
    少しの沈黙のあと、顔を上げたマスタードは再び話し始めた。

    「俺の本当の名前は…サンズ、だ」

     言われて、サンズは目を見開いた。マスタードは真っ直ぐサンズを見つめていて、冗談を言っている様には見えない。

    「同じ名前…」
    「そうだな」

     マスタードは少し苦笑いを見せる。サンズは冷めかけたコーヒーを一口飲むと、またマスタードに目を向けた。

    「なんで、マスタードって呼ばせてたんだ?」
    「…ん…そうだな…マスタードが好きだから…同じ名前でややこしいから…………名前を呼ばれるのが怖いから…か」

     そう話すマスタードは、一見穏やかに見える。しかしそうでないことは、ゆらゆら体を揺らす仕草が物語っている。マスタードは深く息を吸い込み、話を続けた。

    「オメー、fellって町を知ってるか」

     サンズは静かに頷いた。
    fellはガスターのラボがある街の奥、「旧ビル街」と呼ばれる場所から更に奥へ入った所にある地域を指す。そこは、この国が敗戦し貧しかった頃に闇市として始まり、現在では違法取引や犯罪行為の横行する危険な町として知られている。国の歴史を学ぶ上で、また犯罪に巻き込まれないよう防犯の面でも、小さな頃に教えられることでもあった。

    「そうか。まあ当然だな。あそこには近づくなよ」

     マスタードはそう言いながら、座る体勢を変えた。

    「…俺は……あの町で育った。ゴミ捨て場に、弟とふたりで置かれてて…前にどこにいたかなんて、覚えちゃいない。ただ、俺より更に小さい弟を生かさなきゃなんねぇって、必死だった。飯を食うのに、何でもした。盗みも、使い走りも、暴力も…騙りも…」

     サンズは話をするマスタードを見つめているが、マスタードはその視線を受け止めることができず、視線を落とす。
    隠していたかった。それが普通だとするあの町の中にあっても、自分のしていることは決して大っぴらにできないことだと自覚していたマスタードにとって、話さずにいられるのならずっと秘めておきたいことだった。
    相手がサンズであるのなら、尚のこと。
    顔をあげられないまま、マスタードは続けた。

    「そんなだからよ…俺が名前を呼ばれる時は、何かに耐える時だった。理不尽とか、暴力とか…そういうのにさ」

     あの町では、いつでも走っていた。気づかれない内に、掴まらないように、弟が待っている場所へ。息が乱れても、足が縺れても、後ろから怒鳴り声がしても、止まらなかった。止まれなかった。
    生きたい、生きたい、生きたい、弟とふたりで、生きていたい。
    いつもそれだけを考えていた。

     時計の音が、やけに大きく聞こえる。サンズはずっと黙ったままだが、どんな顔をしているかは、俯いているマスタードにはわからない。

    「だから…初めてお前の名前を聞いた時に俺は、あぁ、コイツもロクな目にあわねぇんだろうなって、思った。理不尽と暴力にねじ伏せられて、それに耐えるしかねぇ生き方をするんだって…だったら、俺がコイツを守ってやらなきゃならねぇって…勝手に…」

     あの日、小さな手が指を握ったことを思い出す。自分は、本当に守ることができていただろうか。ふー、と息をついて、マスタードは続けた。

    「でも、お前は違った。お前が名前を呼ばれる時は、愛される時だ。ラボの連中なんかは、旦那含めてわかりやすかったな。誰もがお前を愛して、大事にしてる。だからこの名前は、愛されるお前が名乗ればいいと、思って…」

     そうしてあわよくば、愛される気持ちを知ることができやしないかと。「サンズ」と呼ぶ温かな声で、自分も温もりを得ることができやしないかと…そう考えたこともあった。

    (まあ、そんなことなかったけどな)

     決して、ガスターたちがマスタードを蔑ろにしていた訳ではない。ただ、どうしても「違う」と感じてしまうのだ。これは自分を呼んでいるのではないと。
     マスタードが少し顔を上げると、何と言ってよいかわからない様子のサンズと目があった。
    大きくなったな、とマスタードは思う。
    丸く可愛らしかった顔は、すっかり青年の面立ちをしている。短かった手足は長くなり、肩幅も広くなった。それでも、ちょっとした表情や仕草に残る幼い面影に、愛おしさがこみ上げる。20年の成長に寄り添った、何物にも代え難い愛おしさ。しかしそれとは違う愛おしさも、同じように声を上げている。その声を押し込めるようにして、マスタードは続けた。

    「…なあサンズ。俺はやっぱり、お前の気持ちを受け入れられねぇ。お前が嫌いな訳じゃない。むしろ、俺は…ずっと昔からお前を、手に入れる、方法を…探して…」

     次第に、声が小さくなる。自分を見ているであろうサンズの目から逃げるように、隠れるように、手で顔を覆い隠したマスタードは、震え始めた息を整え、無理矢理に声を出す。

    「でも、ダメなんだよ…俺は、お前が幸せになるようにって…バカみたいに笑って、腹一杯食って、安心して寝て…おとなになったら、好きなお嬢さんと一緒になって…そんな風に、自分で幸せになっていけるようになるまで側にいる役目で…だから、俺はお前と一緒になれない…それ、に…」

     サンズは何も言わない。ただ黙って話を聞いている。その沈黙に、マスタードは今にも押し潰されそうだった。ソウルがぎゅうっと締めつけられ、痛みを感じる。それでも逃げる訳にはいかないと、マスタードはどうにか息を吸い込んだ。

    「怖いんだよ…俺はきっとお前を守れない…傷つけることになる…そんなのは…」

     そう言うマスタードを見て、サンズは目を見開いた。いつでも、どんな時でも、サンズにとってマスタードは大きな存在だった。体の大きさはもちろん、精神的な面においても、安心して寄りかかることのできる大きな柱だった。しかし、いま目の前にいるマスタードは、俯き、震え、とても小さく見える。彼のこんな姿は、今まで見たことがなかった。
    サンズは思わずソファーを降り、マスタードの前に膝をついた。勢いよく置いてしまったカップから、少しだけ中身が溢れてテーブルに広がる。

    「マスタード…」

     マスタードは俯いたまま、荒い息を繰り返している。サンズはどうしたらいいのかわからずに、手を彷徨わせるしかない。声すらもかけることができなかった。

    「弟の傷は俺がつけた」

     戸惑うサンズが聞いたのは、放り出してしまうような、勢いに任せたような、そんな口調だった。サンズは突然の言葉に困惑したが、先程からマスタードの言っている弟の顔はすぐに浮かんだ。子どもの頃にも何度か会っている。マスタードは彼のことを「ボス」と呼んでいて、会うといつも不機嫌な彼が、サンズは少し苦手だった。しかし優しい一面もあることを知り、サンズが「エッジ」とあだ名をつけると、そう呼ぶ時だけは少し雰囲気が柔らかくなるのを感じ、それ以降はサンズもよく懐いた。
    そんな彼の顔には、確かに目元に傷がついている。どういうことかと思っていると、肩を震わせながらマスタードが続けた。

    「簡単なことだ、俺の目ひとつで見逃してやるって言われたんだ。だからさっさと抉っちまえば良かった。でも俺は間違った。奴らを出し抜いて、ふたりで逃げられねぇかなんて考えた。そんなこと考えてたから遅れたんだ、気づかなかった。アイツが自分で、自分の目を、傷つけて」

     頭の中で、悲鳴が木霊する。
    甲高い声と、濃い鉄の匂いが混ざりあい、ぐらりと視界が揺れた。自分の手には些か大きなグローブについた爪が、かちゃんと音をたてる。それが何かを切り裂く感触が染み付いて離れない。
    すうっと赤い液体が伝い落ちたのを見た時、何が起きたのか理解し全身が凍った。
    そこへ、嘲笑う声がのしかかる。

    『かわいそうに。お前みたいな兄貴のせいで、こんなに痛い目にあっちまって』
    『この傷は一生残るだろうなぁ』

     声はぐるぐると頭の中を巡る。今のマスタードには、もはやその声しか聞こえなかった。

    (ああそうだ、俺みたいな兄貴のせいで、俺が兄貴だったせいで、俺の弟だったせいで、あんなに深い傷を負って、消えない傷を負って、痛かっただろうな、痛かっただろうな、俺のせいで、俺のせいで、俺のせいで)

    「俺のせいで…」

     そう呟いた途端、マスタードの頭に何かがぶつかった。驚いて顔を上げると、目の前にはクッションが迫ってきていた。ぼふぼふと音をたて、クッションは何度もマスタードの頭を叩く。そのクッションを持っているのは、サンズだった。

    「ちょ、ま、まて」

     マスタードは思わずクッションを掴んで止めた。再び見上げた先にいたサンズは、怒ったような顔をしている。普段はたれ気味の目尻を吊り上げて、眉間に皺をよせて、むっと口をむすんで。昔からあまり見せることのない表情だったが、昔と変わらねぇなと場違いなことを思う。
    サンズはクッションを握りしめたまま、口を開いた。

    「昔から不思議だった。何でエッジは、あんたに対してあんな怒ってるんだろうって」

     それを聞いて、マスタードは少し解放された気がした。
    ああ、この子は自分に制裁を与えてくれていたのか。弟を守り切れず、あまつさえ傷つけてしまうような役立たずな自分に。これで、この子は自分から離れてくれるだろう。よかった。そんなことを思った。
    その片隅でソウルに痛みが走ったことには、気がつかないフリをした。

    「そうだな…俺はアイツをずっと怒らせてばっかりだ…俺のせいで、傷つけちまった時から…」
    「そうだよ!あんたのせいだ!あんたが俺のせいなんて言うからだ!」

     サンズが怒鳴っているせいか、冷静にものを考えることができないせいか、マスタードはサンズが言った言葉が理解できなかった。突然、違う国の言葉を使い始めたのかと思った。マスタードが頭の中で言われた言葉を繰り返していると、今度は目の前にサンズの手が伸びてきて、指が思い切り額を弾いた。

    「でっ」

     混乱した頭に痛みが走って、思考は更に巡る。なに?なんだ?どうして?似たような言葉の列がぐるぐると回る中、サンズが放り投げたクッションが床に落ちる音がして、マスタードは我に返った。サンズはと言えば、相変わらず不機嫌そうに口元を歪めている。

    「あんた、エッジがなんでそんなことしたのか、ほんとにわかんないのか?」

     そんなことを言われても、マスタードには何もわからなかった。弾かれた額がじんじんと痛みを訴えていることと、サンズが怒っているということ以外、わかることは何もない。困惑を隠せないマスタードに、サンズは続けた。

    「エッジがあんたにとって大切な弟なのと同じで、エッジにとってあんたは大切な兄貴なんだよ。あんたを助けたかったんだ」

     サンズは、マスタードの視線を逃さないとばかりに、じっと見つめていた。落ち着かなさからキョロキョロと視線の定まらなかったマスタードも、それに気がついてサンズの瞳を見つめ返した。最近は、涙で揺れる瞳しか見てこなかったような気がする。感情が昂っているせいか、ソウルと同じ蒼い光を灯す瞳は、それでも澄んだ色をしているとマスタードは思った。
    サンズは尚も言う。

    「あんた、エッジにも俺のせいでとか言ったんだろ。エッジはそんな言葉を聞きたいんじゃない。そんなこと言わせたいんじゃない。あんたは他に言うべきことがあったんだ」

     図星だった。正しく、そんなことを言ったとマスタードは記憶していた。でも、だったら、一体何を言ったらよかった?何もわからない。マスタードは、自分のせいで弟がひどい怪我をしたと、そればかりを思っていたから。
    ただ。自分を見舞いにきた弟に、『俺のせいで』と言った時の顔を、マスタードは思い出した。悲しそうな、ショックを受けたようなその顔を。
    喉の奥から掠れた声がもれ、どっと冷たい汗が流れる。

    (俺は…こんなにも長い間、あいつの何一つもわかってやれてなかったのか?)

     弟の表情の意味は、今になってもまだわからない。ただ自分が何を間違ったのかに、マスタードは今になってようやく気がついた。
    自然と両手に力がこもり、膝の上で握りこんだ手指の骨が擦れあって、ごりっと削れる音がする。
    その拳の上から、そっと手が重なった。視線をあげれば、さっきと変わらずにマスタードを見つめるサンズが、さっきよりもずっと近くにいた。

    「マスタード。何であんたがオイラを遠ざけたかったのか、わかった。やっぱりオイラ、あんたの気持ちを考られてなかった。ごめん…」

     サンズが頭を下げる。マスタードはもう、何を言ったらいいのか、何を考えたらいいのかわからず、ただただその様子を見ていることしかできない。
    頭を下げたまま、サンズが言葉を続ける。

    「でも…でも、やっぱり…気持ちは変えられない。オイラは、子どもの頃から一緒にいたあんたしか知らないけど、でも…それだって嘘じゃないだろ…?」

     ゆっくりとサンズの顔が上がり、マスタードと目が合う。白い瞳が揺れ、涙が滲んでいることが知れる。それでも、弱々しさは微塵も感じられない。ソウルの奥から、力強い意志が感じ取れた。

    「マスタード。オイラもう、子どもじゃない。オイラ本当に、マスタードが好きだ…だから、勘違いだって言わないでくれ…小さなサンズじゃなくて、目の前のオイラを見てくれよ。まだ頼りないかもしれないけど、マスタードがやってきてくれたみたいに、オイラもマスタードが怖いことから、守っていきたい。同じ場所にいさせてほしい」

     サンズの言葉が続いていく毎に、マスタードは不安が募った。ソウルがヒリヒリと痛んで、息苦しい。好きだと言う言葉に、ダメだと否定が瞬時に浮かぶ。だが、それを言うことができない。言わなければいけないのに、口も体も動かないでいる。

    (やめろ、やめろ…俺は、オメーを…なんで、オメーは…)

     このままでは、抗うことができなくなる。それは、マスタードにとって許されないことだったが、一方でそうなることを望む自分がいることを自覚している。だからこそ、マスタードの不安はますます大きくなっていく。そんな心境を知ってか知らずか、サンズは大きく息を吸い込んで言った。

    「マスタードはオイラのこと、好きか…?」

     嫌いだ──と、言わなくてはいけない。そう言えば全て終わるのだから、早くしろと頭の中で声がする。だが、震える口からは何の言葉も出すことができない。早く、早くと声に急き立てられ、それでも何もできないまま俯くと、目に入ったのはサンズの手だった。
    握りしめた自分の拳に乗せられたサンズの手には、少しも力が入っていないように見えた。ただ、自分の拳に置かれただけの手。何かを待っているような手。その手をしばらく見つめて、マスタードは気がついた。
    少し動かせば簡単に払えるこの手は、この子なりの覚悟だ。手を振り払われたら、これでもう本当に終わりにすると決めた、サンズの決意。この子は、こんなにも強い想いをもってここにいる。そう気がついたマスタードは、静かに目を閉じた。
     サンズの覚悟に、自分は逃げてはいけない。早鐘を打つソウルを落ち着かせるように、深く息を吐く。目を閉じた暗闇の中に、ガスターの声がした。

    『君にも幸せになってほしいと思っているんだけどな』

     それは、一筋の光のように思えた。マスタードは目を開けると、まっすぐサンズと向かい合った。

    「サンズ…俺は…手に入れたモンを、簡単に盗られてきた。だから、大事なモンは絶対に盗られないように、みっともなかろうが何だろうが、抱え込んでしがみついて守ってきた。だから…手の離し方を知らねえ…」

     拳が震える。肩が、腕が、震えている。
    マスタードは、怖いと思っている。どんなに大きくても、どんなに大人数であっても、どれだけ危険だったとしても、あの街で対峙した誰にも感じなかった──感じないようにしていた感情を、自分の想いを吐露することに感じている。思わず閉じそうになる口に、逃げるな!と腹の中で叫んだ。

    「俺はオメーより年上だ。それに、今回みてーに、またオメーを傷つけるかもしれねぇ。それでオメーが嫌になっても、俺は離してやれねぇ…」

     強く握りしめていた手をほどいて手首を捻れば、サンズの手はマスタードの手のひらに重なった。その動きに驚いたサンズが、目を見張る。眼窩の奥で、白い瞳が大きくなって揺れて見えた。

    「ほんとにいいのか」

     みるみるうちに、サンズの目に涙が溢れていく。少しずつ口の端が下がり、それでも涙が溢れ落ちないように、歯を食い縛って堪えようとしている。

    「もう、離せねぇぞ…!」

     つっと一筋、サンズの頬に涙が伝う。それを皮切りに、今まで堪えていた涙がぼろぼろと、堰を切ったように流れ出した。その涙は何度瞬きをしても、大粒の雫となってサンズの頬を濡らしていく。思わず涙を拭おうとしたマスタードに、サンズは体当たりするようにしてしがみついた。

    「…っなすなっ…うっ、く、離すなよっ、ばかやろ…っ!ばかやろぉ…!!」

     それだけをやっと言葉にすると、サンズは声をあげて泣き出した。マスタードに覆い被さるようにして抱きしめながら、わあわあと大きな声をあげている。その声を聞きながら、マスタードは足元が崩れ去っていくような不安を感じていた。
    受け入れてしまった。受け入れられてしまった。また手に入れてしまった。もう二度とあんなことのないようにと過ごしてきた日々と、もう二度とあんなことになりたくないという思いで築いてきた「マスタード」が崩れ去ってしまう不安。
    また奪われるのではないか、また深く傷つけてしまうのではないかという恐怖が渦巻いて、気が遠くなる。

    『僕は君にも』

     また、ガスターの声がした。
    穏やかで静かな声だと、マスタードは思っていた。だが今は、それ以上に様々なものが含まれていると思った。穏やかで静かで、優しくあたたかで、どこか遠くで見守るような、すぐ側で寄り添うような。
    そして、いま自分の体を抱きしめる腕から伝わる温もりと、いつも頭を撫でる手から伝わる温もりが同じことを、マスタードは知った。

    (旦那…アンタ、ずっと…)

     臆病なあまり背を向けていた温もりを、ガスターはずっと与えていてくれた。マスタードが自分で気がつくことができるまで、それを受け取っても大丈夫だと思えるまで、20年もの間、ずっと。
    ガスターが自分を気にかけ、頭を撫でていくその理由に気がついた時、マスタードは体の内側から何かが大きくなっていくのを感じた。何かは張り裂けんばかりに胸を膨らませ、それでも止まることを知らず大きくなっていく。ぐぐぐと喉までこみあげ、声を出すこともできない。顔が熱い。全身に痛みが走るが、その痛みは今まで感じたどれとも違う気がした。
     サンズは、もう二度と離さないとばかりにマスタードを強く抱きしめていた。指先を握るのが精一杯だった小さな手が、しっかりと背中を支えてくれている。包み込む温もりが、足元の崩れた自分を引き上げてくれるような気がする。マスタードは、涙を拭こうと浮かせていた手をそっとサンズの背中に回した。少しだけ迷ったその手は、遠慮がちにサンズの服を握る。

    (こんな風にすんの、初めてな気がすんな…)

     マスタードはそう思いながら、目を閉じた。
    サンズの泣き声はまだまだおさまりそうにない。相変わらず泣き虫坊主だなと思うマスタードの頬に、何かが一筋流れていった。
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