普遍的思考症候群 気分がひどく落ち込むと、大好きなものを視界に入れることが苦しいと感じる時がある。現に今、俺は何年も大切に書き連ねてきたネタ帳を一思いに破り捨て、火へ焚べて全てを灰にしてやりたいと思った。自分のようにひどくつまらない矮小な人間が、仰々しく夢だなんだと語って、これが俺の考えた素晴らしいものなのだと人目に晒すことのなんと滑稽なことだろう。ページを捲れば書いていた時の感情が呼び起こされる。このフレーズが気に入らなくて何度も書き換えたな。そうしたらピタリと当てはまるものが浮かんで嬉しくなって、急いでメモして。そうして浮かれてひとり笑顔を浮かべたあの日の自分が酷く気持ち悪く思えて、思わずページをぐしゃりと握りしめた。
しわくちゃになったノートの中には価値のない文字が並んでいる。価値のない、と自分で言っておきながら、それが悲しくてじわりと涙が浮かぶ。涙の浮かぶ自分は悲劇に浸るヒロイン気取りで気持ち悪くて、怒りが湧いてくる。怒りに震えてノートを振り上げ叩きつけようとしたところで、こんなことをしても何もならないという虚脱感に襲われる。何をこんなに考えているのだろう、どうせ死ぬのに。どうせ死ぬなら今死んでも変わらないじゃないか。もう生きていても良いことがない。良いことがないわけではないけれど、辛いことの方が多い。それなら死んでしまいたい。このまま床に伏していたら朝になる頃には溶けて液体になっていないだろうか。心臓が止まるというのはどういう感覚だろうか。想像したら動悸がして、ぶわりと汗が浮かび跳ね起きて、嫌だ死にたくないと自分の身を抱き締める。
そうして荒くなった呼吸を整えるうちに、急激な孤独がやってきて、先ほど堰き止めたはずの涙がぼたりぼたりと溢れてきた。惨めで情けなくて寂しくて、もうこのまま消えてしまいたいと思った。怖いのはもう散々だ。口から勝手に喃語があふれる。勝手に?自分でやっていることだろ。気持ち悪い、なんなんだよ。ごめんなさい。全部俺が悪いのか?なんで?何もしてないのに。俺じゃなくてお前が悪いだろ。お前って誰?人のせいにするな。本当はわかってる、俺が一番悪いことくらい。……頭の中でまで言い訳をするのか?本当に気持ちの悪い人間。うるさいな。黙れ。死ね。それ以上言ったら、もう、殺してやる。
頭の中がぐちゃぐちゃしていく。何も考えたくないのに次から次へと言葉が流れ込んできて、抜け出すことができなくなる。パニックになって自分で自分の腕を掴んで、爪を立てたらとても痛かった。涙がまた出た。「うう」と声を出してみた。あまりにも情けなくて涙が引っ込んだ。そのまま布団に倒れ込んで、深呼吸をしているうちに、急激に思考が冴えた。
30秒ほど布の折り目を眺めたあと、立ち上がって部屋の棚の方へと手を伸ばす。今日はまだ薬を飲んでいなかった。
「思考が纏まらないのは正常じゃない証拠だ。分かってる。薬を飲んで何かを食べて横になって、眠れなくてもいい。そのまま朝になるころには今考えていることが些細な悩みであることに気がついていつも通りの毎日に帰れる。もう何回同じことを繰り返しているのにどうして俺はそんなこともわからないんだろう」
俺の悩みも現状も何一つ辛いことじゃない。世界にはもっと辛い人がいるんだから。とは言っても所詮人間なんで、俺は俺にとって辛いことが俺にとって一番重要なことで俺はそれ以外のことなんて考えられないしそもそも個人の苦痛を他人が勝手な尺度で測ること自体がおかしいのにどうして誰も気がつかないんだろう。
「俺の頭の中が全て見えるとでも言うのか?この思考の全部を覗いて俺の脳みその半分を背負ってからにしてほしい。でもそういうことをいう人間は別に深く考えてなんかなくてこんにちはにこんにちはと返すようになんとなくの定型句を吐き出しているにすぎなくて、世界中の誰も俺のことを考えてなんかいないし、それは当然のことだから受け入れて、1人で生きていかないといけなくて…」
ジャー。きゅっ。
コップに注がれたぬるい水でいくつかの錠剤を飲み下すと、ようやく少し落ち着いた。
俺は今、とても疲れている。少し横になって休みたい。本当は大切なものを壊したくない。死ぬまで大切に抱えていたい。人に認められたい。好きなものを好きだと言って生きていきたい。誰かに愛されたい。隣にいてほしい。生きていていいよと言ってほしい。俺じゃなきゃダメだと言われたい。たとえそれが嘘でも構わないから、俺が死ぬまで気付かない、完璧な嘘をついてほしい。
漠然とした不安感は紐解いて仕舞えばなんのことはない、子どもじみた願望の集合体だった。簡単なことを難しいように脚色して勝手に深く落ち込むのは、愚か者のすることだなと思った。
こんな自分に、亡くなった時に泣いてくれるような相手は現れるのだろうか。考えを巡らせるより早く頭に浮かんだのは血のつながった兄弟や両親ではなくて、いつも笑顔を浮かべて俺の隣に立つ、明るい相方の顔だった。
俺の訃報を知らされて酷くショックを受けたような顔をして、信じられないというように首を横に振って、いざ棺の中を覗き込んで泣き出す悟を思い起こす。少しだけ、嬉しいと思った。しかし俺の空想の中の相方はその後何年かして俺のことを忘れ、日常生活へと帰っていく。人の死なんて結局それくらいのものなのだろう、と思った。そう思えば死ぬことすらも意味がないのかもしれない。それならば、もう少し生きていても変わらないかもしれない。悲しくないのにまた少し涙が出る。今日は薬の効きが悪いらしかった。
「はやく楽になりたい……」
ぼそりと呟いた声に返してくれる相手はいなくて、一人で「そうだね」と呟いてみる。馬鹿らしくて笑えてきて、仰向けに転がって、まっしろい照明に目を焼かれた。目を閉じると光の残像がチカチカと色や形を変えて瞼の裏を彩っては消えていく。その形を辿っていくうちにやがて微睡に落ちて、意識は暗闇に覆われた。
……………………
…………
……
目を覚ませば、いつも通りの朝だ。寝不足で少し頭が痛いことも、瞼が重だるいことも、悲しいくらいに当たり前で正常だった。そして明日も明後日も、これは変わらぬ事実なのだと思うと、なんだかとても憂鬱な気持ちになった。